河ドラマ『麒麟がくる』に、朝倉義景が登場します。

 

朝倉義景は、織田信長を追い詰める活躍を見せますが、最後は敗れてしまったことで知られる武将です。

そんな朝倉義景ですが、実は明智光秀とも関わりがあったとされています。

 

今回ドラマで、朝倉義景を演じられるのは、ユースケ・サンタマリアさん!

では、さっそく朝倉義景という人物について見ていきたいと思います。

 

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目次

『麒麟がくる』ユースケ・サンタマリアが朝倉義景役を演じる!

 

『麒麟がくる』ユースケ・サンタマリアが朝倉義景役を演じる!

 

今回、大河ドラマ『麒麟がくる』で、朝倉義景役を演じるのは、ユースケ・サンタマリアさん!

 

ユースケ・サンタマリアさんは、個人的に表情の演技のうまい役者さんだと思っています。

いい人そうに見える柔らかい雰囲気を持ちながら、ふとしたときに見せる悪い顔。

 

」が語る演技は言葉がなくてもゾクゾクします。

悪役を演じていたとしても、どこか惹かれてしまう人間味溢れる演技は、どの作品でも惹き込まれてしまいます。

 

朝倉義景という武将のお顔は、若干特徴的で、歪んだ後頭部にわし鼻というのが印象的ですが、それ以外にも肖像画から強い気迫のようなものを感じます。

 

性格はというと、情にもろくて平和的考えの持ち主だったと言われています。

このことだけをあげても、ユースケ・サンタマリアさんのキャスティングはピッタリだと思いませんか。

 

朝倉義景は戦国のヒーロー織田信長との対立もあり、あまり高感度は高くなく、評価も高くはない武将ではありますが、ユースケ・サンタマリアさんの演じる朝倉義景を観たら、もしかすると、「朝倉義景のファンになった!」という人もでてくるのでは?

どのように演じられるのか楽しみですね。

 

信長と長きに渡り敵対した朝倉義景

 

 

朝倉義景は、一乗谷に居を構えた越前朝倉氏最後の当主。

越前国の戦国大名です。

 

朝倉義景は、その戦国時代の有名な武将、織田信長 & 武田信玄と同時代を生きた人物で、一時は、天下に最も近かった大名とも言われます。

 

朝倉義景は1533年、朝倉孝景(越前の戦国大名で守護職)の長男として誕生しました。

 

1548年 孝景死去。

16歳で家督を継ぎます。

 

1552年、室町幕府将軍・足利義輝から左衛門督の官位を与えられ、また「」の一字をもらい、義景と名を改めました。

 

1555年、義景の補佐の宗滴(祖父)が亡くなり、これを機に自身で政務を執り行うようになります。

本拠地は、越前にあった一乗谷城。

 

「北の京」と呼ばれていることから、一乗谷朝倉氏は京との繋がりが強く、足利義昭も上洛の為に義景を頼り一乗谷へと向かっています。

しかし、義景は本願寺と敵対していました。

 

れに上洛に対してあまり乗り気ではありせん。

それを感じ取った義昭は、義景の下を離れ、織田信長の下へ身を寄せるのです。

 

この少し前、信長は「河野島の戦い」で、美濃国斎藤氏に屈辱的大敗を喫していて、名誉挽回に、

・加治田城城主

・佐藤忠能

・配下の加治田衆

・西美濃三人衆 稲葉良通

・氏家直元

・安藤守就

を味方につけると、1567年稲葉山城の戦い」で斎藤龍興に勝利。

そして美濃国を平定。

 

1568年、朝倉氏の下を離れた足利義昭と織田信長は岐阜城下にある立政寺で会見。

そして信長は、足利義昭を奉じて上洛。

 

それにより足利義昭は、室町幕府の第15代将軍となり、信長と朝倉義景に上洛命令を2度出します。

しかし義景は、それに応じませんでした。

 

翌年、信長は美濃へ戻ります。

すると、一度信長に稲葉山城の戦いで敗れた斎藤龍興が、三好三人衆と共に義昭の仮御所を攻撃。

 

その後信長は、二条に御所を義昭の為に築きました。

そして信長は「殿中御掟」を義昭に対して発令し、義昭もこれを承認しています。

 

【殿中御掟】

不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事

公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事

惣番衆、面々可有祗候事

各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事

公事篇内奏御停事之事

奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事

公事可被聞召式目、可為如前々事

閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事

諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事
(仁和寺文書)

上洛命令に従わなかった朝倉義景に対して信長は、出陣させる事を決定します。

そして織田と徳川の連合軍は、旧若狭武田の家臣の粟屋氏、熊谷氏に勝利。

 

しかし、浅井長政(妹婿)の裏切りによって、朝倉軍が織田軍を撃退させます。

そうして織田軍は、京へ撤退する事になるのです。

 

1570年6月28日、織田・徳川連合軍と、朝倉・浅井連合軍が衝突。

朝倉・浅井連合軍は多くの支城を失います。

 

その後「志賀の陣」で、

朝倉・浅井VS織田軍。

…。と、朝倉VS織田の小規模な戦闘は続きます。

 

翌年、義景は本願寺の顕如と和睦。

浅井氏と一緒に織田方の城を攻撃→敗走。

 

1572年、武田信玄が亡くなると信長は、軍勢を朝倉へとシフト。

そして1573年に信長は、朝倉氏の居城である小谷城を総攻撃します

 

すると義景は一乗谷を放棄します。

そして景鏡からの提案で大野郡へと移動し、義景は六坊賢松寺に逃れたのでした。

しかしその直後、信長は一乗谷の市街地を襲撃制圧し、焼き払います。

 

最期まで義景に付き、従っていた朝倉景鏡・・と思われていましたが、なんと実は、裏で信長と通じていたのです。

もはやこれまで・・・」と思った義景。

 

そこで命を絶ったのでした。

その後、戦国大名朝倉氏は滅亡したのです。

 

朝倉義景は信長を追撃しなかった事が仇となった?

 

朝倉義景は信長を追撃しなかった事が仇となった?

 

義景は、信長に破れはしましたが、信長から宿敵と恐れられていたそうです。

 

信長は講和の際、義景に

天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し

という書状を送っています。

 

これは、義景に強い警戒心を抱いていたことがわかります。

 

朝倉義景は織田信長と長きにわたり対立していました。

(織田・徳川連合軍 VS 浅井・朝倉連合軍)

その中で、4度も信長を討つチャンスがあったのに、全てスルーし滅びた…。と言われています。

 

では、どんなことが言われているのかというと…。

金ヶ崎の撤退戦


信長を討つことができなかったとしても、織田の中核ポジションの武将だけでも討つことができていたら、後に起こる戦いでは、もっと有利になったのではないでしょうか。

 

この重要人物を誰一人討つことができなかったのは敗戦の要因と言っても過言ではないのではないでしょうか。

姉川の戦い


朝倉にとって困ることは浅井軍が窮地で滅ぼされること。

なのに、朝倉義景自身が出陣せず…。

 

信長の陣に浅井軍の奇襲で迫るのを、なぜかただただ眺めていた朝倉軍。

遅れて参陣しましたが、徳川軍に撃退され…

結果、大敗戦…。

 

ちなみに、

・「信長公記」では→「野村の戦い」

・浅井側の記録では→「野村の戦い」

・朝倉家の記録では→「三田村の戦い」

・徳川の記録→「姉川の戦い」


と、呼び方が違っています。

 

実は、この戦は正確な記録が残っていません。

本当は凄く小規模な戦で、内容も徳川方に脚色されているのでは。という説もあるので、本当のところはわかりません。

本願寺挙兵


石山本願寺への突然の挙兵。

信長軍がピンチに陥ります。

 

浅井&朝倉軍も京に迫り、将軍家を使った和平調停で信長が土下座をして(「三河物語」より)乗り切り、朝倉軍はそのまま撤退したので、京の市民から小馬鹿にされたのだとか。

武田軍挙兵


浅井朝倉軍 & 石山本願寺が再び挙兵。

信長が討伐しようとした時、武田軍が挙兵西上を始めます。

すると信長は、家康に援軍を送れない状況に…。

 

浅井 & 朝倉チャンス!と思ったら、朝倉軍は突然の帰陣。

これには信玄も激怒したと言われています。

 

といっても、このあと信玄は亡くなってしまうので、朝倉が帰陣しなければ…。

あの時に、もっと打撃を与えていればこのあと滅ぼされなかったのでは。と、後になって思うことになるのです。

これが仇となったと言われる所以です。

 

朝倉義景と明智光秀の関係とは

朝倉義景と明智光秀の関係とは

 

明智光秀と越前の朝倉義景、あまり関係のあったイメージのない二人ですが、「朝倉義景に明智光秀が仕えていた」というのが「明智軍記」に記されています。

 

ただこの書物、若干創作性が強いことで知られている書物で、一級史料とみなされていないのですが、現在まで光秀の情報というのはあまり残されておらず、光秀のことを知ろうと思うと結局「明智軍記」の情報になってしまうのです。

 

で、この「明智軍記」によると、1563年(永禄6年)頃に、朝倉義景に仕えていた明智光秀。

 

光秀は、鉄砲の名人で軍法に優れていると言われる人物だったようです。

鉄砲は、どれ程の腕前か逸話が残されています。↓

 

義景の命で鉄砲の腕前を披露する機会があり、光秀は大勢の見物者の前で100発撃つと、黒星に66、的の角に32を当てた。


つまり、命中率9割以上ってことです。

 

また光秀は流浪時代があり、その時に歩いて全国を2年で各地を周り、情勢&軍法を見聞きしていた。

という記述がありますが、徒歩で全国、しかもたったの2年。

いやいやこれは無理でしょ!ってことで、創作の可能性が高そうです。

 

こういったことから想像して、光秀は軍略に長けた人物であったのではないか。とされているのです。

ただ「加賀一向一揆との戦い」で、光秀は鉄砲隊を50数名まとめ、戦果をあげています。

 

義景から称賛され、

・感状

・鞍置の馬

を賜りました。

 

しかし、1565年(永禄8年)頃、鞍谷刑部大輔嗣知(くらたにぎょうぶのたいふつぐとも)が義景に「光秀は才能や知恵はあるが気質が悪く、やがては謀反を起こす可能性もある」と讒言し、光秀は義景に疎まれるようになります。

 

それにより、光秀はだんだん越前で居心地が悪くなり、織田信長に仕えるようになった。とされています。

 

それに、明智城を攻めた斎藤龍興(斎藤義龍の子)が「美濃攻防戦」で信長に敗れて、義景を頼って越前に来ています。

このことも、朝倉の家臣をやめるきっかけだったのでは。と言われています。

 

信長に仕える前の光秀には、不明な点が多いとされているので、定説とされている「朝倉家臣説」に関しても実は根拠すら微妙で、結局のところ、光秀が義景に仕えた事実があったのか否かは、はっきりしていませんが、義昭に接触のあったことは事実だとみてよさそうです。

 

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