大河ドラマ『麒麟がくる』で「槍の又左」の異名をとった槍の名手・前田利家が登場します。
前田利家は若い頃から織田信長に仕えていた戦国武将です。
「かぶき者」と呼ばれ、性格も少々激しかった豪傑武将で知られています。
前田利家は最期まで織田信長、そして豊臣秀吉の忠実な家臣だったともいわれ、周りの大名達からの信頼も厚い武将でした。
そんな前田利家の生涯を見ていきたいと思います。
目次
前田利家 織田信長に仕える
前田利家の出生は諸説あり、1536年(天文5年)、1537年(天文6年)、1538年(天文7年)があり、信長より3歳年下だったと言われています。
幼名は前田犬千代。
父・前田利春(利昌)の4男として、尾張国海東群荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、生まれました。
父が織田弾正忠家に仕えていたので、利家も幼い時から織田信長に仕えました。
前田利家といったら「かぶき者」として知られる武将で有名ですよね。
「かぶき者」とは、人とは違った派手な身なりをして、常識外れな行動をする者たちのこと。を指します。
前田利家は、この派手な格好を若い頃からしていたようですよ。
利家は、身長が推定で182cm。
細身&美丈夫!
かなり目を引く容姿だったのでは。と思われます。
だからという訳じゃないですが、何となぁ〜く、信長と気が合いそうな気もします。
それに、いつからかわかりませんが、信長と衆道関係にあったとか。
このことは本人も認めているので、事実だと思われます。
衆道というのは、武家社会における上下関係にあたる君臣的男色を言います。
当時は珍しいことではなく、戦場に女性を連れていけないので、戦地では美少年を相手に性欲を満たす者もいたそうです。
どうやら、信長と利家もそのような関係でも仕えてたってことですね。
じゃあちょっと女性っぽいタイプだったのか!?
いえいえそんなことはありません。
性格は、短気で血の気が多く、すぐにカッとくるタイプ。
得意とした武器は三間半(6.3メートル)もの長槍。
数え歳で14歳の頃。
既に槍術は抜きん出ていて、1552年(天文21年)「萱津かやづの戦い」では、初陣で先駆し、自分で朱色に塗った槍を振って、首をあげたとか。
それを見た信長が「肝に毛が生えている」と褒め称えたそうです。
このことから「槍の又左」と呼ばれています。
このあたりは、何となくやっぱり戦国武将なんだなぁ〜。と感じますね。
イケメン!で筋肉隆々!!しかも長身!!!
カッコいい武将だったってことはめちゃくちゃ伝わってきますね。
その後、前田犬千代は、元服して前田又左衛門利家と名を改めました。
1552年(天文21年)「萱津かやづの戦い」で首を一つあげたあと、元服。
1556年、信長&信勝の織田家家督相続争いで武功を挙げ、1556年「稲生の戦い」で、信長側につき参戦。
この戦で、右目下に矢を受けたまま敵陣に飛び込み、矢を射った者を討ち取ったのだとか。。。
そんな勇猛さが窺える、聞いただけでも痛そうなエピソードも残されている利家。
利家は矢を抜かずに首実検に参加していたので隻眼になった。という説もあり、実のところは定かではありませんが、この功績で家臣を初めて召し抱えることができました。
そのうちの一人「村井長頼」は、利家、そして前田家の窮地を救う人物となるのです。
1558年(永禄元年)、いとこにあたる「まつ」(篠原家)と結婚。
結婚当初から仲良し夫婦で、翌年には子宝に恵まれています。
そんなある日、信長の側近に仕える茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)が、
・利家の刀の笄(こうがい)を盗む。
・利家を侮辱する。
(笄→髪型を整えたり崩さずに頭皮をかくための道具)
といったことが起こりました。
利家は若い頃から「かぶき者」としても有名で、身だしなみにはとても気を使っていました。
しかも、盗まれたのは、篠原主計(まつの父)の形見で、利家にとって、大事な物。
利家は怒りをグッとこらえて、信長に訴えましたが、拾阿弥を咎めず…。
すると、利家の不満と怒りはさらに膨らみ、信長の目の前で、あてつけのように、拾阿弥を斬り捨ててしまったのです。
信長は当然、激怒。
利家は死罪になりかけましたが、他の家臣たちが信長をなだめ、何とか出仕停止に留まりました。
出仕停止は、今で言う「プータロー」
生活は困窮。
利家は許しを得るべく、功績を挙げようとこっそり信長の戦に参戦作戦にでるのです。
拾阿弥を斬殺し信長からの信頼失墜と回復
拾阿弥を斬殺し、信長を怒らせた利家は、信頼を回復する為にまず行ったことは…。
信長の戦に参戦して活躍すること!
参加した戦は「桶狭間の戦い」でした。
そこでは敵の首を3つとる大殊勲。
それでも信長は許さず…。
そして次は「森部の戦い」。
ここで「足立六兵衛」の首を取る。
ここで、よくやく帰参が許され、新たな所領を与えられました。
謹慎からここまで約2年。。。
本当に大変だったと思います。
特にお金は…。
それでなのか・・・利家はそろばんで計算もしていました。
利家はこんなことを言っています。
「落ちぶれたときに声をかけてくれる者こそ、本当に信用できる」
豊臣秀吉もその中の一人だったのではないでしょうか。
他には、加藤家勝にもお世話になっていたと言われています。
赤母衣衆として、帰参を許された利家は、織田家の主な戦いに参加していきます。
・「美濃攻め」
・伊勢への侵攻
・「野田福島の戦い」
などなど…。
1575年(天正3年)、不破光治・佐々成政らと、柴田勝家(北陸方面の責任者)の目付役として着任。
利家と合わせたこの三人は「府中三人衆」と呼ばれました。
秀吉との関係と信長に尽くした前田利家の最期
全文では、武勇の凄さを前にだしていますが、利家はそれだけではなく、人に対し大変律義な人物であったようです。
多くの武将に慕われていたというのは、誰もが認める話なのだそう。
・軍略
・人心掌握術
にも優れており、羽柴秀吉&おね夫婦と家族ぐるみのお付き合い。
とっても親しくしていて、後に「豪(利家の娘)」は秀吉夫婦の養女になっています。
柴田勝家の与力として武功を重ねた利家は、能登一国を与えられ、七尾城の城主となりましたが、「賤ヶ岳の合戦」で、勝家 VS 秀吉の二人の板ばさみになり、自主的に戦線離脱しています。
その功で、秀吉の信用をさらに得ると、
・加賀二郡を与えられる。
・本拠を能登→尾山城(金沢城)に移しています。
秀吉は、利家を徳川家康と並ぶ五大老の上席に据え、秀頼(幼い息子)の後見を託し亡くなりました。
しばらくすると、掌を返して天下を狙ったのが家康でした。
家康は天下をとるため、大名たちと徳川の人間とを婚約させ、徳川家の勢力拡大を狙います。
加藤清正、福島正則、伊達政宗などに徳川一族との婚約を持ちかけます。
しかし生前、秀吉は大名同士の結婚を認めていなかったため、怒った利家は、息子の利長に
「太閤があれほど「秀頼様を頼む」と言っていたのに、家康は早くも約定を破っている。わしはこれより家康との直談判に参る。話が決裂すれば、この刀で家康めを斬る。わしが家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ。」
と言い残し、伏見城へ。
周りの武将達からも信頼されていた利家の怒りで、他の武将たちも利家と共に動きます。
そうして、家康のもくろみは崩れ、最終的に家康は皆の意見に従うまでに落ち着きました。
その後、しばらくすると利家は病で床につく事になります。
妻・まつが手縫いの経帷子(きょうたびら「死装束」)を着せようとし、
「あなたは戦場で多くの人を殺めてこられた。その報いが恐ろしいので、この経帷子を召してください」
と言うと、利家は
「わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い」
と、その経帷子を着なかったといいます。
そうして、1634年、前田利家は大坂の自邸で亡くなりました。
62歳でした。
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