大河ドラマ『麒麟がくる』に佐々成政(さっさ なりまさ)が登場する様ですね。
佐々成政というと、戦国ファンにはたまらない戦があります。
その中の一つ「末森城の戦い」で城を守った「槍の又左」こと前田利家。
そして、厳冬期の北アルプスをクライミングで攻め込んだ猛将・佐々成政。
この二人は同世代で同じ主君・織田信長に仕えた宿命のライバルです。
今回は、佐々成政にスポットを当ててみたいと思います。
彼の生き方やその最期はどのようなものだったのでしょうか。
目次
佐々成政 信長の家臣として頭角を現す
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
佐々成政(さっさ なりまさ)は比良城城主。
馬廻(うままわり)から実績を重ね、織田家の重臣にまで上り詰めた人物!
佐々成政についての史料は殆ど残されていないので、彼の祖先など詳細は不明ですが、父の代から織田家に仕えていたようです。
もちろん確かな正年月日も不明ですが、1536年〜1539年(天文5年〜8年)頃ではないかと考えられています。
なので、織田信長よりは、少し下の世代になりますね。
・1556年「稲生の戦い」
・1560年「桶狭間の戦い」
に、佐々成政は兄二人と一緒に参戦しますが、兄たちはこの戦により命を落としています。
そして1560年(永禄3年)に佐々成政が家督を継ぎ、比良城主となったのです。
その後、功績を上げ、織田家の成長とともに出世を果たし、信長の家臣として頭角を現していきます。
・「森部の戦い」(織田信長と斎藤龍興の戦い)で敵将・稲葉又右衛門を討つ
・1567年(永禄10年)黒母衣衆(くろほろしゅう)の一員になる。
(「母衣衆」=信長直属の使番のこと)
「母衣」は武具の一つ。
兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、背後からの攻撃を防いでいました。
戦国時代は「赤」「黄」などの目立つ色が好まれ、使番の装備として定着したのだそうです。
大事なお役目ということですね。
これに抜擢されたってことは、相当信長からの信頼が厚かった、ということです。
ちなみに、前田利家などが務めていた赤母衣衆もあり、正式な立場はほぼ同格の部隊ですが、実際は黒母衣衆には年長者が多く、黒母衣衆の方が上に見られていたようです。
1568年(永禄11年)、信長は足利義昭を室町幕府の将軍にする為上洛します。
上洛後は周囲の警戒心も強まり、合戦を繰り返す日々。。。
佐々成政も戦地へ駆り出される日常を送りました。
・1570年「姉川の戦い」
・1570年~1574年「長島一向一揆」
・1575年「長篠の戦い」
などに参加。
鉄砲隊の指揮には特に定評があり「長篠の戦い」では、鉄砲奉行を任されました。
1573年、武田信玄が病死。
1575年に起こった「長篠の戦い」では、織田&徳川軍が勝利を収めます。
そして織田家は、本格的に他国へ侵攻を進めていくのです。
1575年(天正3年)、佐々成政は柴田勝家の目付役となります。
そして、佐々成政と同じく越前府中に在任する事となった、前田利家と不破光治も含め、「府中三人衆」と呼ばれています。
1577年(天正5年)「手取川の戦い」(織田信長 VS 上杉謙信)に佐々成政も参加します。
しかし・・・
・進軍の途中で秀吉が勝手に離脱。
・「七尾城」(能登畠山氏の城)が織田軍到着前に陥落。
・織田軍は手取川を超えた直後に知った。
・上杉軍にバレて、背水の陣で攻め込まれる。
・手取川の水位が上がり溺死者多数。
それにより、織田軍が大敗。
しかしその半年後、上杉謙信没。
1582年(天正10年)6月2日、「本能寺の変」勃発。
このとき、佐々成政は他の北陸担当諸将と魚津城(魚津市)を攻略中。
それを考えると佐々成政が本能寺の変が起きた事を知る日が遅くなったのではないか?
城が落ちた6月3日以降ではないか。と言われています。
戦には勝利しましたが、信長亡き後、佐々成政らは動揺し、これからの方針が定まらなくなったようです。
武将同士の意見も合わなくなり、一度、上杉家への攻勢を中止し、各々の領地へ戻ることにします。
そんな中、柴田勝家は「明智光秀は近江のどこかにいるはず。大坂にいるはずの丹羽長秀たちと連携して、挟撃するのがいい」と考えていたようです。
実際、豊臣秀吉は「山崎の戦い」で明智軍に勝利。
光秀も落ち武者狩りに遭い自害。
「主君の仇討ち」という最大の発言力を手に入れた豊臣秀吉。
他の織田諸将は、徐々に抵抗する術を失います。
傍から見ると、出世して頭角を現していく過程から、権力欲があるのかも。。。と思えたりするのですが、佐々成政は武士らしく、剛直な人物だったそうです。
このとき政治的争いには首を突っ込まず、越中一国を平定の為に動いていたようなので、権力欲というのはあまりなかったのかもしれませんね。
佐々成政と前田利家はライバルだった?
佐々成政と前田利家はどのようにして織田信長の家臣になったかというと…。
佐々家は、元尾張の土豪。
成政の父の代から織田家へ仕えています。
一方、前田利家は当時「かぶき者」と呼ばれ、喧嘩好きで派手な化粧をしていました。
そして「うつけ者」と呼ばれていた信長は、4歳下の利家を気に入り、自分の側におくようになったようです。
生年ははっきりしていませんが、二人は同世代だったのではないか。と言われています。
信長の小姓として召しだされている二人ですが、出仕は成政の方が2年程早いようです。
1556年(弘治年)「稲生の戦い」。
成政は利家と敵将を討ち取り名を挙げます。
宿命のライバル、利家との出会いはここから始まり、二人はひとつがいのように出世していくのでした。
1568年(永禄11年)、母衣衆に任じられます。
母衣衆は二隊あり、
・成政→黒母衣衆筆頭。
・利家→赤母衣衆筆頭。
1575年(天正3年)「長篠の戦い」。
鉄炮隊(戦の要)の指揮を二人揃って任せられ、武田の騎馬隊を殲滅。
同年「一向一揆」(越前(福井県))掃討。
信長は府中10万石を三等分し、成政&利家&不破光治に与えます。
二人は信長に才能を見いだされ、ここまで殆ど同じ出世コース。
そんな佐々成政&前田利家は、切磋琢磨した良きライバルでした。
しかし、ライバル関係にも少しずつ変化が…。
1582年「本能寺の変」。
信長が亡くなり、柴田勝家 VS 豊臣秀吉となります。
柴田勝家の与力だった成政&利家。
ですが、利家の突然の裏切り。
天下取りをねらう秀吉についたのです。
佐々成政は、今まで通り織田家に忠誠を尽くしたので、それがきっかけで二人はライバル・・いや、敵となったのです。
1584年(天正12年)「末森城の戦い」。
利家が金沢城にいる間に成政は、末森城に攻め入ります。
そんな成政の奇襲作戦は大成功!
落城寸前まで末森城を追い込みます。
勝利は目前。
しかし、なぜか完全に仕留める事はせず、翌日に持ち越すことに…。
一方の前田利家も兵を率いて出陣します。
そして、
・農民(桜井三郎左衛門)に案内させ周辺を熟知。
・夜の暗がりを利用し、守りの薄いと思われる海沿いを進む。
・敵の裏に出る。
そして利家は、明け方から一気に襲撃します。
そうとは知らない成政は、予想だにしない状況のまま敗北します。
そうして後に前田家は、百万石を超える大名となるのです。
佐々成政の最期や逸話は?
佐々成政は、数々の逸話が多い武将としても知られています。
彼の有名な逸話を簡単に触れながら、佐々成政の最期とは、いったいどのようなものだったのか見ていきましょう。
佐々成政は、信長の家臣となりエリート出世を果たしてきました。
全てが上手くいっているかのように思えていたことでしょう。
信長が亡くなる直前の状況というのは、宿敵武田家を滅亡に追い込み、柴田勝家率いる軍団が上杉方の魚津城を包囲。
勢いに乗る織田軍。といった状況。
あともう一息!
しかし、成政の居城・「富山城」に異変が…。
成政の留守中、上杉方が「富山城」を攻め込み、城を守っていた神保長住は幽閉。
そこで、魚津城の包囲を一旦解きます。
そして富山城の奪還に成功した後、再び魚津城を包囲し、勝利。
勝利に沸き立つ成政らに「本能寺の変」での信長の死の知らせが届きました。
そこから、織田家の覇権争いが始まり、成政の状況も変わっていきます。
清須会議を経て、柴田勝家 VS 羽柴秀吉の派閥ができます。
成政は柴田勝家側についていましたが「賤ヶ岳の戦い」で勝家の自害を以って秀吉に降伏。
1584年(天正12年)、秀吉 VS 家康 & 信雄(信長の二男)連合軍の対立。
成政は、織田家への忠節を貫くという気持ちがあるので、秀吉から離反。
徳川家康 & 織田信雄連合軍側につきます。
大規模な合戦に発展していきました→「小牧・長久手の戦い」
「小牧・長久手の戦い」後、秀吉は、徳川方についた諸将の討伐を開始。
成政はその中の一人。
1585年(天正13年)、織田信雄を先頭に出陣。
秀吉は60,000人の兵を率いて、越中に乗り込み、上杉まで合わせて攻め込んで来ました。
これが、『富山の役』です。
対する成政は、越中国内の城塞から兵を引き上げ、居城の富山城に籠城。
越中に入った秀吉軍。
そして国内の要所に次々と放火していき、成政が籠城する富山城を包囲します。
しかし秀吉といえども「浮城」と呼ばれていた富山城を陥落させるのは簡単ではありません。
更に、同じころ暴風雨が、攻め込む秀吉軍を直撃します。
しかし、いつ城内へ入ってくるか解らない秀吉軍。
とうとう成政は、信雄の仲介で秀吉に降伏を申し入れ、成政とその妻子は大阪城に移る事になります。
織田信雄(信長の息子)& 徳川家康の呼びかけに応じ、成政は参加しましたが、まもなく信雄 & 家康が秀吉と和睦。
成政は窮地に。
成政は納得がいかず、家康に再起を談判する為、「家康に真意をただす!」と、現在の1月にあたる旧暦12月、厳寒の北アルプスを越えて浜松へと向かったのです。
これが成政の有名なエピソードとして語り継がれる「さらさら越え」です。
この呼び名は、どこからくるのか?と言いますと…。
アルプス越えのルート「ザラ峠」+ 佐々成政の「さっさ」=「佐々のザラ越え」が訛ったといわれています。
武勇伝的に伝わっていますが、このさらさら越え、実は成功しておらず、再び秀吉を敵に回すことになったのです。
そんな成政を秀吉は、容赦なく攻め続けます。
そして、1585年(天正13年)、成政は富山城を10万もの豊臣軍に包囲され、降伏。
この時、越中討伐の大将に選ばれたのは、かつて成政が味方をした信雄でした。
織田家に仕えてきた成政にとって、信長の死を機に天下取りを目論む秀吉に対し、腹立たしさのような思いがあったと思います。
そんな秀吉のもとに下るのは、無念だったでしょうが、成政は剃髪し秀吉のもとに向かうと、
・越中の所領を大きく削られる。
・妻子と大阪城に移住。
・御伽衆として秀吉に仕える。
といった事になりました。
1584年(天正15年)、秀吉は九州平定を果たし、成政は肥後一国を与えられ、国主へと返り咲くと、検地を急ぎました。
これには、成政の病などの諸説ありますが、今までどんぶり勘定で税を納めていたのに、きっきり計算されると「今より税が重くなる」と反発があり、それを武力で押さえようとします。
それにより、同年「肥後国人一揆」に発展しました。
成政は、この鎮圧に苦戦。
秀吉は九州 & 四国の大名を総動員し、援軍を送り鎮圧。
そして、佐々成政は、この責任を負わされ、切腹を命じられたのでした。
享年52歳。
(生年に諸説あるので推定)
この切腹説では他にも有名な「黒百合伝説」があります。
時は、佐々成政が富山城城主の頃。
成政に「早百合」という名の側室がいました。
成政から寵愛を受けていたので、他の側室たちから、かなり嫉妬されていました。
ある日、側室の一人が「早百合が、竹沢熊四郎(成政に仕えていた侍)と恋愛関係になっている」と成政に、嘘の告げ口を囁きます。
つい先日、成政の子を身ごもったと聞いていた矢先で、その子供も成政の子ではないのではないか。という側室達の声を信じる成政。
そしてすぐに、竹沢熊四郎を呼び出し斬り捨てます。
早百合自身は、真実ではないと成政に訴えます。
しかし成政は、そんな早百合をも神通川近くの一本榎に、逆さでくくりつけ、斬り殺すのです。
そして、早百合の一族全ての人間の首をはねたのでした。
(早百合の一族は呉服村の住人でした)
早百合は死に際、こんな恨み節を叫んでいたそうです。
「己成政此の身は此処に斬罪せらるる共、怨恨は悪鬼と成り数年ならずして、汝が子孫を殺し尽し家名断絶せしむべし」
そして、「立山に黒百合が咲いたら佐々は滅びる」と、呪いの念をこめながら、亡くなったといいます。
同じ頃「本能寺の変」が起こります。
成政は秀吉に従うことになり、成政は、秀吉から肥後国(熊本県)を与えられます。
肥後国は、以前から、地侍一揆の激しい地域。
そんな肥後国の一揆騒動を、成政は見事に鎮めます。
しかし、褒められると思っていた成政は、秀吉から摂津国(大阪府・兵庫県)の法園寺で軟禁される事となります。
その軟禁の前に、こんな話があります。
成政が秀吉の正室・北政所(おね)に、立山に咲いた黒百合を献上した。という出来事がありました。
お茶会の際に、その黒百合を披露しようと思った北政所ですが、側室の淀が先にたくさんの黒百合を飾っていた事で、恥をかいたと思ったそうです。
そして、成政に対しての評価は下がり・・・という出来事がありました。
しかし、黒百合話とは別で、「肥後国人一揆」の鎮圧の件で、成政は軟禁させられます。
その後、成政は軟禁状態を解かれますが、結局「肥後国人一揆」の件で切腹となります。
死に様は壮烈を究め、享年53歳でした。
一説では、北政所の話は事実ではなく、つくり話だ。とも言われています。
【麒麟がくる】再放送日は?見逃した場合の動画情報!過去の大河ドラマも視聴出来る!