「本能寺の変」で有名な明智光秀の家臣・明智左馬助(さまのすけ)(秀満)が、大河ドラマ『麒麟がくる』に登場します!
今回、役を演じるのは間宮祥太朗さん!
明智左馬助(秀満)は、光秀の最も信頼する重臣で「本能寺の変」の時にも、一番初めに相談されたという説がある程です。
そんな明智左馬助(秀満)とは、どんな人物だったのでしょうね。
さっそく見ていきましょう!
目次
『麒麟がくる』間宮祥太朗が明智左馬助を演じる!
画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000060810
大河ドラマ『麒麟がくる』に明智左馬助(秀満)が登場します。
明智左馬助(秀満)は、西村まさ彦さんが演じられる明智光安の息子で、父・光安の死後、いとこの明智光秀と行動をともにし、「本能寺の変」を引き起こす重要人物の一人です。
ドラマには欠かせない、かなりの重要人物であることは間違いありません。
その人物を今回演じるのは、間宮祥太朗さん!
ご存知の方もおられるとは思いますが、お顔と名前が一致しない方もおられるかもしれませんので、すこーしご紹介しますね。
間宮祥太朗さんは、紹介仕切れないほどたくさんの映画&舞台&ドラマなどで活躍されているので、ご存知の方は多いのではないかと思います。
NHKで言うと、『半分、青い。』で、森山涼次役で永野芽郁ちゃんの旦那さんで(離婚されましたが…。)出演されていましたね。
間宮祥太朗さんは少々キャラが濃くって演技も熱い感じのが印象的な作品が多いように思っていましたが、この朝ドラの時は、フレッシュで何ともキュート。
その爽やかさは「新生俳優!?」って思ってしまうほど(いい意味で (^^))
ホントにかわいかったので、新しくファンになった方も多いのではないかと思います。
今回、大河ドラマ出演は、自身初となる大河ドラマ作品!
新な魅力で魅せてくれるのではないでしょうか。
間宮祥太朗さんの登場は5月頃。
楽しみですね。
明智左馬之助 明智光秀の重臣となる
近年、新たな書状が発見され、光秀の右腕的存在であることが改めて再認識されている明智左馬助(秀満)ですが、その生涯は謎だらけ。。。
生年はもちろん、出生地も、前半生も不明で、わかっていません。
何も史料がないのかと思いきや「敵の追手をかわす為、馬に跨って琵琶湖を渡り、坂本城へ入った!」なぁ〜んて、伝説が語り継がれている何とも面白く、興味深い武将なのです。
明智左馬助(秀満)が、初めて史料に登場するのは1578年(天正6年)頃。
明智光秀の娘を娶めとり、「明智姓」を名乗るようになっています。(1580年(天正8年))
娘にも説があり、
・光秀の長女説
・光秀の養女説
通説は長女といわれています。
光秀の娘と結婚するまでの姓は「三宅」だったことが有力視されていて、もともとの名前は「三宅弥平次」だったと伝わっています。
ちなみにこの三宅弥平次は、
・光秀のいとこの明智光春と同一人物
・三宅家は光秀の家臣
・漆塗り職人
とされるなど諸説あります。
光秀との関係には謎がまだまだ多く残されていますが、記録に「明智弥平次」という名が登場すること。
そして、秀満が書いたとされる書状に「弥平次秀満」と署名が残されているので、明智秀満という人物は実在したことが伺えます。
その後から登場する書物では、光春の通称「左馬助」とあわせたのでしょう、「明智左馬助」と呼ばれる事が多いようです。
結婚した後、左馬助は光秀の領国経営に欠かせない右腕となりました。
大事な娘と婚姻を結べたのは、光秀が信頼していた重臣であったことが伺えますが、左馬助名義の副状(主となる手紙の補助的文書)が添えられていたものが見つかるなど、光秀の書状の出し方からも信頼していたことが確認できます。
1581年(天正9年)、丹波国(現在の京都府付近)福知山城城代にも任命されます。
福知山地方は、京都-山陰を繋ぐ交通の要。
明智家の本拠地の坂本城が、京都 & 近江を繋ぐ要衝だったので、福知山地方はその次に大事なところ。ということになります。
この時左馬助は、推定30歳前後なので、若くして大事な所を任されていたことになります。
明智左馬助(秀満)は、文化人としての素養もあり、光秀主催の茶会でもおもてなし役に指名されるほどです。
織田家は「茶道」をとても重要視していました。
光秀の主君・織田信長が茶器茶会を重要視していたのは有名だったので、「茶」の作法も理解し、文化人としての教養もある明智左馬助(秀満)は、光秀にとって重要な存在だったのではないでしょうか。
明智左馬助(秀満)は本能寺の変でも先陣を切った?
1582年(天正10年)6月1日。
光秀から、信長への謀反のことを初めに相談したのは、明智左馬助(秀満)とされています。
(「政春古兵談」より)
そんな明智左馬助(秀満)自身は、光秀から謀反の話を聞いた時、反対していたといいます。
しかし光秀が、自分の他にも複数の家臣に相談をしたことを知り、「複数人に明かした以上、信長公に知られるのも時間の問題。事を起こすほかない」と、腹を括るのでした。
で、反対だったのに、結果、「もはや思いとどまる必要はありません」と光秀を激励したと伝わっています。
このことは、史実かどうかは不明です。
1582年(天正10年)6月2日未明、「本能寺の変」が起こります。
明智左馬助(秀満)は光秀の命で、先陣を務め、成功に大きく貢献。
・一番槍の武功を得たのは、斎藤利三配下の安田国継。
・信長の命を奪い。
・二条にいた織田信忠も自刃に追い込む。
ここまでは、明智家にとっていい感じに進みましたが、すぐに暗雲が立ち込めました…。
それは、
・信長の遺体を発見されず
・細川親子&筒井順慶らが協力を拒絶
・秀吉が中国大返しを強行
光秀の計算とは違うことに…。
そして、6月13日に「山崎の戦い」へ発展。
秀吉を相手に大敗。
翌日の14日、光秀は絶命。
と、ここで明智左馬助はというと…。
実は、「山崎の戦い」には参加していませんでした。
それは「安土城」の守備を命じられていたからです。
安土城は、西から
・京都
・坂本城
・琵琶湖
・安土城
・岐阜城
と並んでいて、東海北陸地方からの交通を押さえるポイントとなる場所。
それに京にも近く、琵琶湖の水運も利用出来るといったメリットもあった為、重要な拠点なのです。
明智左馬助(秀満)は、そんな大事な場所を守るように命じられていたのですから、光秀にとっては大変な存在だったでしょう。
しかし、光秀が負けたので、その意味はなくなります。
敗戦を聞き、安土城を出ます。
そして安土城は、山崎の戦い後に謎の火災で本丸周辺が焼失しています。
安土城を出る時に「天守に火を放った」と伝わっていますが、これは、犯人を明智左馬助(秀満)にするためでは。という説があります。
しかし秀満は、安土城焼失前に坂本城入りしていますし、文化財を重んじる明智左馬助(秀満)がそんなことをするのか・・・?という反論もあり、真実はわかりませんが、事実ではないのではないかと思われます。
そして、安土城から坂本城(明智本拠)を目指す途中、堀秀政(秀吉方の武将であり信長の側近)と戦い→敗れ→逃げ→坂本城へ。
坂本城まで辿りつくと、秀政の軍勢に包囲され万策尽き、坂本城に残されていた光秀の妻子を刺殺。
城に放火しました。
これに先立ち、
光秀のコレクション↓
・茶器
・刀剣
などの名品が落城時に失われないように、目録を添え秀政に引き渡した。といわれています。
そうして全て万全に整えた後、明智左馬助(秀満)は自ら命を絶ったのです。
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