織田信長が信頼した重臣の一人、丹羽長秀。

丹羽長秀は「織田家の双璧」とも呼ばれた程に活躍した優秀な武将。

 

織田家内でのニックネームは「米五郎左」。

・日々の用に欠かせない米。

・何でもこなす器用な人。

ということからだそうです。

 

軍事での功績は勿論ですが、行政面でも実績を残す、多才な人物なのです!

あの有名な「清州会議」&「賤ヶ岳の戦い」では、良い仕事をしています。

 

信長亡き後は、秀吉の下で織田家の重臣として上手く続けていたようですが、二人の関係はどのようなものだったのでしょうか。

では、見ていきましょう。

 

 

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重臣として織田信長に仕える

 

重臣として織田信長に仕える

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

丹羽長秀は1535年、丹羽長政の次男として誕生しました。

丹羽氏は、尾張(愛知県)の春日井郡に勢力を持ち、尾張守護・斯波氏の家臣でした。

 

といっても、長秀誕生の頃には、斯波氏は実力を失っていたので、「支配者」というのも形だけ。

 

斯波氏への忠誠心はあまりなく、尾張で勢力を伸ばしていった長秀は、随一の実力者となり、織田信長に仕えることになるのです。

(信長が家督を継ぐ一年程前)

 

長秀は信長より1つ歳下。

親しくしていたようで、長秀の「」の字も信長から与えられたのだとか。

しかも、妻は信長の養女(姪)ですから、厚遇を受けています。

 

長秀は情に厚く、多様な仕事かできる、いわゆる「できる男」で、信長は仕事を安心して任せることができ、信長は長秀のことを「友であり、兄弟」と述べる程、信頼していました。

 

さて、有名な織田信長ですが、家督を継いだ頃は、尾張国内は織田氏一族による分割統治の状態で、信長は一族と抗争を繰り返し、勢力を伸ばしている状態でした。

 

長秀はその過程で初陣を飾り、稲生の戦い」でも、信長に忠誠を示し味方しています。

そして、信長が尾張の統一に成功。

 

1560年、「桶狭間の戦い」で今川義元に勝利し、そこから美濃へ攻撃を開始します。

美濃でのこの戦いの頃から長秀は際立って見え始めました。

 

そして信長は美濃中部の攻略にかかり、加治田城(要所)の調略を仕掛け、使者を通じ城主・佐藤忠能を寝返らせることに成功。

戦わずに手に入れます。

 

この時、内通工作担当したのが長秀です。

東美濃の攻略では総大将を任され、猿啄(さるばみ)城(要所)の攻城に取りかかり、織田軍は苦戦しますが、長秀が水の供給を断ち、籠城継続を困難にさせ、城主を退去へ追い込みました。

 

これらの活躍により、信長の重臣として地位を確立していったのです。

 

『本能寺の変』後、秀吉の元へ

 

『本能寺の変』後、秀吉の元へ

 

長秀は信長の重臣として功績をあげていき、若狭(福井県西部)一国を与えられ、信長家臣の中で、初の国持大名にまでなりました。

 

若狭は、京に物資を運ぶ海運の拠点で、流通に関していうと、重要な地域。

それだけ大きな権限を与えられた。ということなのです。

 

この後も、長秀は若狭衆を率いて各地で戦を行います。

そして「長篠の戦い」「越前の一向一揆の討伐」など、数々の功績を残します。

 

一向一揆では、柴田勝家と鳥羽城を攻め落としましたが、勝家に越前一国75万石が与えられ、長秀と大差がつき…。

 

この頃から信長は「長秀は他の武将たちに比べると、大軍の指揮には向いていない…。」と、判断したようで、各地の方面司令官には任命されませんでしたが、

その分行政面の仕事が増え、

 

・信長の居城・安土城の普請奉行になる。

・築城の実務を担当。

・各方面の援軍に赴き、物資の補給を行う。

・戦後処理をスムーズに進める。

など、いい仕事をしています。

 

武将としては、若干地味目な仕事になるので、大勢力の攻略を任される勝家や秀吉らと比べられると、一段下の存在だと外部の目には映っていたようです。

 

それでも、信長からは厚遇を受け、四国攻略の副将に任命され、信長の家臣筆頭・佐久間信盛が追放となり、柴田勝家が筆頭の地位につきます。

 

長秀は二番家老の地位が与えられ「織田家の双璧」と称されました。

他にも、京で行われた馬揃え(軍事パレード)では、一番始めに入場する待遇を与えられています。

 

長秀の嫡男・長重は、信長の五女を妻に娶っています。

親子で織田氏一族と婚姻を結んでいたのは丹羽氏だけなので、信長から信頼を受け続けていたことがわかりますね。

 

1582年、四国の覇者・長宗我部元親の討伐軍に参加。

元親、信長は同盟を結ぶ仲でしたが、信長は勢力を四国へも伸ばす意欲を持ち始め、関係は破綻。

 

総大将は信長の3男・織田信孝

長秀は蜂屋頼隆 & 三好康長と、織田信孝を補佐する副将に任じられ、ようやく主導的な立場を得ました。

 

そんな頃、信長が明智光秀の謀反により、本能寺で討たれ、情勢が一変。

 

長秀は、信孝と摂津(大阪府)の岸和田で、蜂屋頼隆から接待を受けている時で、長秀らが住吉に戻ると、住吉に滞陣していた四国討伐軍は、信長の死に動揺して逃げていたので、兵はわずかしか残っていませんでした。

 

位置的には、光秀に最も近い場所でしたが、軍勢の数が少なかった為、光秀を討伐どころではなく、守備に徹するしかできませんでした。

 

で、長秀らは光秀が大坂に侵攻してくるとなると、このままではこっちも危ない。

そういった中、中国地方で毛利氏と対戦していた秀吉が、大阪に戻って来たので、窮地を脱することが出来たのです。

 

そして名目上、信孝(信長の遺児)が総大将になりました。

その後、秀吉は、

・摂津の大名たちの部隊を吸収し、勢力を増大。

・「山崎の戦い」で光秀を討伐。

 

素晴らしい行軍 & 戦勝により、秀吉は天下人の有力候補に名のりを上げるのです。

 

長秀は人を引っ張っていくより、優れた人物の下で補佐役とすることを得意としていたので、長秀はこの時の秀吉の考えに同調し、これからは秀吉を押し上げていくことを決意したのです。

 

織田家筆頭の立場だった長秀の本心は?

織田家筆頭の立場だった長秀の本心は?

長秀は秀吉派として働き続けました。

この時には、実力は秀吉のほうが上。

でも、織田家内での立場は長秀が上・・・。

 

秀吉が発行した禁制の殆どには長秀の署名があることがその証拠です。

何だか、複雑な関係と言えますね。

 

簡単に言うと、長秀の「織田家筆頭」という立場を秀吉に上手く利用されていた。ってことですよね。

長秀は優秀な人物であったようなので、どんな気持ちでいたのでしょうね。

 

秀吉派として秀吉を押し上げることに、あまり抵抗はなかったとされますが、それとは、正反対のエピソードも残されています。

 

1584年、秀吉VS織田信雄&徳川家康「小牧・長久手の戦い」

丹羽長秀は、北陸の一向一揆に備えるためこの戦場へは出向いていませんが、理由としては、こうも考えられています。

 

一緒に三法師を守り立てていくつもりだったのに、秀吉が自ら天下人になろうという欲が大きく見えてきて、それに抵抗していた

 

腹にできたしこりの痛みに耐えきれず、また秀吉への恨みの念から、自らしこりをえぐり出して秀吉に送りつけた

とか。。。

 

ホントに!?

と、耳を疑いたくなるようなグロい内容ですが、最晩年の長秀が秀吉をよく思っていなかったことが、このような形で話が伝えられているのでは。と、思われます。

 

長秀は、「小牧・長久手の戦い」あたりからガンにかかっていたと推測されているので、事実かもしれません。

しかし別の話では、寄生虫病だったという説もあります。

 

織田家筆頭の立場だった長秀の本心は、今となってはわかりません。

しかし長秀は、信長とは凄く信頼しあっている仲だったので、なくなった後もどこかで信長を・・・いや、織田家を思って行動し、この中の一つとして、秀吉に味方することを決めたのではないかと思います。

 

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