大河ドラマ『麒麟がくる』に登場する武将の一人、織田彦五郎(信友)。
織田彦五郎(信友)はあまり知られていない上に、人気の武将、織田信長と争っていたとされているので、信長の敵 = 悪いイメージをもたれているかもしれませんが、本当にそのような人物だったのでしょうか。
今回は、織田彦五郎(信友)にスポットを当ててみたいと思います。
では、さっそく見ていきましょう!
目次
織田彦五郎(信友)は信長の敵?
織田彦五郎(織田信友)という人物を皆さんご存知ですか?
織田彦五郎(織田信友)は、尾張下四郡の守護代を務めた戦国武将です。
お父様は織田達広とされますが、清須織田氏である織田達勝の嫡養子となり、後を継いで清州城主となっています。
ちなみに、織田信秀の正室は達勝の娘です。
早くに亡くなくなったので、同盟関係は崩れたとされています。
信長を生んだのは信秀の継室・土田御前です。
歴史に詳しい人ならご存知だったかもしれませんが、あまり詳しくない人には、信長の敵だったのか?味方だったのか?もご存知ないかもしれませんね。
織田彦五郎(織田信友)という名前なので織田家関係なのかなぁ?。
といった感じでしょうか。
では、ここで織田彦五郎(織田信友)が清州城主となるまでを知る為に、時代を15世紀初めの頃に逆上りたいと思います。
織田氏と言えば尾張のイメージがありますが、尾張の地で頭角を現したのは、ちょうどこの頃です。
当時は、室町幕府が衰退した頃。
すると、何が起こったかというと、
・「応仁の乱」が起こる。
・斯波氏が二分裂。
守護代・織田常松が補佐していたのは、足利一門の名家・斯波氏(主君&守護)。
この流れで、織田氏も呼応する形で分裂。
・織田大和守家
・織田伊勢守家
が誕生しました。
そして、この両家のバトル。
軍配が上がったのは「大和守家」!
ということで、大和守家が守護代を任されるようになりましたが、程なくして、斯波氏 VS 織田大和守家の戦が勃発。
原因は「遠江への遠征をめぐる意見の対立。」でした。
そうして最終的には「織田達定(大和守家の当主)が討たれる。」という事で、織田達定の跡は織田達勝が継ぐことになるのでした。
織田達勝は、長〜い間、守護代に就いていたのですが、この間に同家の勢力は徐々に低下。
代わりに勢力を増してきたのが「織田弾正忠(おだだんじょうのちゅう)」
彼は確か…。大和守家の家臣筋…。
・土地の横領
・津島商人の支配
など、徐々に勢力を伸ばしていきました。
1532年(天文元年)、信秀 VS 達勝の戦が始まりましたが、最終的には講話となります。
なので互いの関係性はそれほど悪化する事はありませんでした。
しかし、
・経済力
・軍事力
においては、既に信秀が段違いに優れていました。
主筋・織田大和守家としては、家臣筋の信秀がどんどん国外に進出して、勢力を強めていくのを眺めているほかなく…。
こうなると、これを良く思わない者が出てくるのが人間の世の常ですよね。
1548年(天文17年)頃、「信秀の留守を襲撃事件」が起こるのです。
襲撃したのは「清須衆」。
「清須衆」は、清須城の家臣たちのこと。
つまり、城主・織田達勝の家臣。ということです。
なぜ家臣たちが暴走したのかは定かではありませんが、いくつか考えられることは…。
① 達勝の年齢?
生年は不明ですが、この時点でかなりの高齢者だったようで、家臣らをうまく統制する事が出来なかった。
②信秀の勢いが鈍っていた?
とにもかくにも折角いい関係を築いてきた達勝と信秀でしたが、これを機に崩壊していきます。
で、この頃の信秀はというと、VS今川氏。
しかし「第二次小豆坂の戦い」で敗北。
少し前には、斎藤道三とも戦をしていましたし、この頃の信秀にとっては大変な時期でした。
なのでそんな時期を狙って、攻撃を始めたのが、「おとな衆」。
おとな衆 → 清州城にいた老臣たちのことで、
メンバーは、
・坂井大膳
・坂井甚介
・河尻与一
争いは、翌年に和睦という結果に収まりました。
それでも、信秀&清須衆の間にはまだ解消されない何かがありました。
といっても、1549年(天文19年)以降、達勝の名前は文書から消えており、争いは起こらなかったようです。
彦五郎(信友)は悲しくも惨めな最期だった?
まず、織田彦五郎(織田信友)が、どのタイミングで守護代を継承したのか?という事についてですが・・・
1549年(天文19年)以降、達勝の名前は文書から消えた後に、後継の守護代になった。という事は確かです。
ただ、清須城内で政治を動かす中心は、おとな衆。
・坂井大膳
・河尻重俊
らに家中の実権を握られており、織田彦五郎の実権は無きに等しいものとされています。
そして、1551年(天文21年)、織田信秀病没。
うつけと呼ばれる織田信長が継承。
この状況なので、尾張の主導権を狙う勢力も少なくなく…。
もちろん清須衆にとっても同じこと。
それに、織田彦五郎(織田信友)は、信長の弟(信勝)派だったので、織田彦五郎(織田信友)と清須衆らは、織田信長に敵対する構えを見せます。
1551年(天文21年)「萱津の戦い」勃発。
清須衆が信長の暗殺を試みましたが、信長に密告があり失敗に終わります。
おまけに、清須勢力大将・坂井甚介らを討ち取られ大敗。
更に清須衆は、信長と義統が手を組む事を恐れ、守護の斯波義統を殺害する計画を立てます。
しかし守護を殺害したことにより「主殺しの悪党」という汚名が・・・
そして、清須州が家臣となる織田信友(織田彦五郎)は、謀殺させられ、清州城を奪われました。
義統の嫡男・岩龍丸は、信長のところに助けを求め逃げ込み、信長は大義名分を得ることになるのです。
これによって、清州織田氏は断絶。
後に、織田信長は清州城を本拠地としています。
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