三好長慶は戦国時代に活躍した畿内・阿波国の戦国大名です。

 

そして、天下人と言えば、

・織田信長

・豊臣秀吉

・徳川家康

の3人衆が定番ですが、実は織田信長より前に「最初の戦国天下人」と言われたのが、今回大河ドラマ『麒麟がくる』で登場する三好長慶です

 

そんな三好長慶役を演じるのは、山路和弘さん!

 

父を死に追いやった細川晴元が三好長慶の主君となるのですが、二人の関係とはどのようなものだったのでしょうか。

さっそく見ていきましょうっ!

 

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目次

『麒麟がくる』三好長慶役を演じるのは山路和弘!

 

『麒麟が来る』三好長慶役を演じるのは山路和弘!

画像引用元:https://www.talent-databank.co.jp/search/t2000010074

 

大河ドラマ『麒麟がくる』で、戦国武将・三好長慶役を演じるのはセクシーなビジュアル&声の山路和弘さん!

 

山路和弘さんの美声ファンは多くて、数々の有名作品(映画の吹き替えやアニメーションなど)で、魅了された方も多いのでは。と思います。

 

声優&ナレーターとして知られている山路和弘さんですが、俳優さんとしても大変なご活躍で、書ききれないくらいの有名作品(ドラマ、舞台、映画など)に出演されています。

演技はもちろんですが、舞台のミュージカルでは、その歌唱力の凄さに圧巻!

 

しかも、大河ドラマは過去に二度出演されています。

 

・『黒田官兵衛』→ 安国寺恵瓊役。

・『いだてん』→ 村山龍平役。

 

なので、大河ドラマファンにはお馴染みな俳優さんでもありますね。

 

全くの違和感なく演じられているので、最近の『いだてん』での出演もそうだったの〜!?知らなかった。。って振り返る方もおられると思いますが、今回『麒麟がくる』で演じる「三好長慶」役の衣装姿も、これまたお似合いで素敵でした。

 

山路和弘さんなら、三好長慶の新たな魅力を引き出してくれそうで、登場シーンが今から待ち遠しい〜!

楽しみですねっ!

 

細川晴元の重臣だった父・三好元長の嫡男として生まれる

 

細川晴元の重臣だった父・三好元長の嫡男として生まれる

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

1522年(大永2年)2月13日

三好長慶は、三好元長の嫡男として、現在の徳島県三好市で誕生しました。

 

母は慶春院殿南岸智英大姉。

父は細川晴元の仇敵、細川高国を滅ぼした功労者。

そして細川晴元の重臣でありました。

 

勢力を本国阿波のみならず山城国にも伸ばしていった三好元長でしたが、その勢威を恐れられるようになり、主君を始めとする

・細川晴元

・三好政長

・木沢長政

らの策謀によって起こった、1532年(享禄5年)の「一向一揆」(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動のこと。)により討たれ、自害することになるのです。

 

主君に見限られた父。

自害の様子は凄まじく、腹をかっ捌ぎ、腹から臓物取り出し天井に投げつけたという壮絶なものであったと伝わっています。

三好元長の無念さははかりしれません。

 

こうして三好長慶は、10歳という幼さで父を亡くし、母と阿波国(徳島県)へ逃れ、三好家の家督を継ぎます。

 

その後は、管領・細川晴元に仕えましたが、室町幕府将軍・足利義輝と細川政権を崩壊させ、京都に上がりその力を見せつけます。

そして畿内を中心に、八か国を支配していくのです。

 

月日は流れていましたが、この頃になっても「一向一揆」の勢いは収まるところを知らず、とうとう首謀者である細川晴元の手にも負えなくなっており、「享禄、天文の乱」と呼ばれる戦乱にまで発展しました。

 

そこで、元服を迎えていない三好長慶が、1533(天文2年)6月20日、一向一揆 & 細川晴元の和睦の仲立ちをし、石山本願寺で和談するまでに回復したとされています。

 

そしてこの直後(11歳頃)、元服したとされていますが、15歳までは千熊丸(幼名)と呼ばれていました。

 

1533(天文2年)、一揆衆が蜂起。(本願寺から分離する講和に応じないことで起きた)

三好長慶は一揆衆を抑えるため一揆と戦い、摂津越水城を奪回。

 

1534(天文3年)、三好長慶は細川晴元に仕えることになります。

その後は、細川晴元の家臣として戦に参加しています。

 

そして細川晴元を追放!細川政権を崩壊させる

そして細川晴元を追放!細川政権を崩壊させる

 

1539年(天文8年)、三好長慶は河内十七箇所の代官職(亡き父・三好元長が就いていた職)を、同族であり&政敵の三好政長ではなく自分に与えるよう、主君・細川晴元に要求しましたが、聞き入れてもらえませんでした。

 

こういう出来事も含め、三好長慶は主君・細川晴元と良い関係は築けなかったとされています。

 

そんな中、京都の治安が政局の変化によって悪化し三好長慶は将軍・足利義晴に京都の治安維持を命じられます。

そして、本国・阿波を後にし、摂津越水城に入城。

 

それ以降、阿波に戻らなかったようなので、本拠地を摂津国に移したことが分かります。

その後、摂津守護代となり幕府に仕え、

・摂津

・河内

・北陸

・近江

の軍勢を上洛させます。

 

そうして将軍・足利義晴とは良い関係を築いているかの様に見えました。

しかし主君・細川晴元は、長慶の父であった三好元長と同じく、三好長慶のその実力に脅威を感じ始めることとなり、2人の関係はさらに悪化します。

 

そうして迎えた1541年(天文10年)、三好長慶は、主君・細川晴元の許しを得ず、独断で段銭徴収を行います。

晴元からは、徴収をやめるよう命じられましたが、無視し続行。

 

主君・細川晴元に対し敵意を表明。

三好長慶の味方も増え、実力は石山本願寺にも認められる程となりましたが、1547年(天文16年)に、三好長慶と細川晴元は和睦します。

 

和睦後は、政敵の三好政長と軍事行動をともにしましたが、どうやら反りが合わなかったようで、関係は悪化します。

そして1548(天文17年)、三好政長を討つことを決意。

 

主君・細川晴元に、三好政長父子の追討を願い出ますが、三好政長を対し信頼をおいていた晴元には、この願いは受け入れられず、結果、三好長慶はかつて敵であった、

・細川氏綱

・遊佐長教

と手を組み、

1549年(天文18年)主君・細川晴元に対し反旗を翻したのです。

 

それが「江口の戦い」です。

三好長慶は勝利し細川政権は事実上崩壊。

そうして細川晴元を追放し、細川政権を崩壊させ、三好政権の誕生となったのです。

 

三好長慶 VS 足利義輝

 

1550年(天文19年)、近江国に亡命した足利義晴(「江口の戦い」で細川晴元の味方)が京都奪回の為、中尾城を築きましたが、1550年(天文19年)病死。

 

その後、足利義輝(足利義晴の息子)が父・義晴の遺志を継いで、京都奪回を計画します。

それが1550年(天文19年)に起こった「中尾城の戦い」です。

 

しかし、足利義輝はその戦いの最中、近江国の朽木へと敗走します。

三好長慶は追撃することもできたのにそれはせず、その後5年間もの間、朽木を襲撃した形跡はありません。

 

長きに渡り争っていた相手なのに、徹底的に追い詰めないという部分において、三好長慶は、保守的&柔弱な性格。といった評価をされています。

 

そして1551年(天文20年)、「相国寺の戦い」が起こります。

足利義輝は、三好政勝香西元成らを率いて入京。

 

しばらくして、また三好長慶軍に攻撃を仕掛けます。

三好長慶は、松永久秀と松永長頼(松永久秀の弟)らに、足利義晴軍の追放を命じます。

 

そして、それを知った三好政勝と香西元成らは逃げ出します。

すると、六角定頼(足利義輝&細川晴元派)が、三好長慶と足利義輝の和睦交渉の斡旋を試みます。

 

それ以降、三好長慶は幕府の政治主導者として実権を握り、摂津や山城、和泉などへも勢力を広げていきます。

この時が、三好長慶の全盛期ともいえます。

 

三好長慶の勢いが衰退

 

1559(永禄2年)、織田信長が数人の兵を率いて上洛しましたが、対面せずに尾張国へ戻りました。

のちに信長が上洛したのは、三好長慶の評判を聞く為だったのでは。と考えられています。

 

そして三好慶興(三好長慶の嫡男)が、将軍・足利義輝から「」の字を与えられ名を「義長」と改名。

 

1561年(永禄4年)、十河一存(和泉の支配を任せていた弟)急死。

ここから三好長慶の衰退が始まります。

 

支配が脆くなった和泉に畠山高政と六角義賢が攻撃を仕掛けてきたのです。「久米田の戦い

その頃、三好実休(弟)が戦死しましたが、京都では、

・松永久秀

・三好義興(三好長慶の嫡男)

が、善戦。

 

1562年(永禄5年)、畠山高政を追放。

河内を再平定させ、京を一時的に支配していた六角氏、三好家は和睦します。

 

この後、三好長慶が戦に出る事もなく、病気だったのか、三好家は衰退していくこととなります。

 

1562年(永禄5年)、幕府の政所執事・伊勢貞孝が、

・畠山

・六角

と通じ、京で挙兵しますが、伊勢貞孝は、

・松永久秀

・三好義興

に討たれます。

 

1563年(永禄6年)、和泉では根来衆 VS 三好軍が勃発。

大和では、松永久秀の三好軍 VS 多武峯宗徒。

 

1563年(永禄6年)、細川晴元の残党による反乱&反三好家による対立が各地で勃発。

 

また、三好長慶の嫡男・三好義興が亡くなり、主君・細川氏綱も病死。

のちに、相次ぐ身内の不幸は、松永久秀によるものではないか。という話も出ています。

 

1564年(永禄7年)、三好長慶が松永久秀から忠告されます。

それは、「弟の安宅冬康が謀反を企んでいる」という内容。

 

息子と主君を亡くし、精神的ショックを受けていた長慶は、この話を鵜呑みにし、弟・安宅冬康を居城の飯盛山城に呼び出し、殺害しました。

後に、その話は松永久秀の嘘だったことがわかり、さらにショックを受け病状は悪化。

 

そうして三好長慶は、1564年(永禄7年)、43歳で亡くなりました。

三好長慶の死後は、三好義継が後を継ぎましたが、若年ということで、

・松永久秀。

・三好三人衆。

(三好長逸、三好政康、岩成友通)が後見役となり三好家を支えました。

 

1565年(永禄8年)、後見役とはいえ、三好家の家臣である立場で独自の働きを見せ、更に、将軍・足利義輝を殺害したのです。

 

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