大河ドラマ『麒麟がくる』で、戦国〜安土桃山時代にかけ活躍した武将&大名&加賀藩主前田氏の祖・前田 利家が登場します。

 

豊臣政権の五大老の一人で、秀吉が信頼し続けた男です。

そんな前田利家の人柄や一生とは、どのようなものだったのか見ていきたいと思います。

 

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目次

前田利家誕生 血気盛んな青年時代

 

前田利家誕生 血気盛んな青年時代

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

1539年(天文7年)生まれ。

父は前田利春

 

8人兄弟の4男として誕生。

・兄→3人。

・弟→2人。

・妹→2人。

 

幼名は、前田犬千代(いぬちよ)

生まれた場所は、尾張国海東群荒子村(現代:名古屋市中川区)。

 

父・前田利春は荒子前田家の当主。

2千貫の土豪だったとか。

 

といっても、利春より前の前田家の記録というものが殆どないので、確証はありません。

 

若い頃の前田利家は、どんな人物だったかというと、

 

・とても派手な格好のかぶき者。

・血気盛ん。

・キレやすい。

 

 

といった感じの人物で、身長180㎝超え。

(当時の男性平均身長は、160㎝足らず)

 

かなり大きかったのがわかりますね。

戦場で活躍した武将らしいのですが、それも何となくわかりますよね。

 

1551年(天文20年)、家督を継承した頃の織田信長の小姓となり、側仕えを始めます。

この時、利家13歳。

織田信長の快進撃とともに、前田利家も頭角を現していくことになるのです。

 

1552年(天文21年)、萱津の戦い」で初陣を飾り、元服前でしたが、首級ひとつを挙げる功を立てました。

 

1553年(天文22年)頃に元服。

前田又左衛門利家」と称しました。

 

1556年(弘治2年)「稲生の戦い」。

この戦は信長 & 信勝の家督争。

 

前田利家は信長側につき、戦場で目の下を矢で射ぬかれ、矢が刺さった状態で敵陣に飛び込み、自分を射た相手を討ち取りました。

味方の士気を高める勇猛さ、信長からも称賛されました。

 

1558年(永禄元年)、「浮野の戦い」に従軍。

これまた、この戦でも武功を挙げています。

 

前田利家は、三間半もの長~い槍を自在に操う槍の名手として知られるようになり、槍の又左」の異名で呼ばれ、怖れられていました。

 

そして「赤母衣衆」(信長の親衛隊)の指揮官に抜擢。

前田利家の従妹・まつ(後の芳春院)と結婚。

 

この年はかなり充実していたようですが、翌年1559年(永禄2年)にちょっとした事件が起こります。

 

それは、捨阿弥(信長に同朋衆として仕えていた人物)と争い、斬殺してしまうのです。

(同朋衆 → 主君の側で仕え、能 & 庭園造りなど芸事に携わる者)

 

で、この捨阿弥は信長のお気に入りだった人物。

 

捨阿弥、本人も気に入られているのがわかるので、前田利家に対しても日頃から横柄な振る舞いが多く、妻・まつに貰った刀を盗むなどの行為が続き、ついに前田利家の堪忍袋の緒が切れた…。というわけです。

 

とはいえ、主君の同朋衆を斬殺するのは大罪。

問答無用で死罪となる時代。

 

ですが、信長の重臣・森可成 & 柴田勝家の助命嘆願により死罪は免れ、代わりに出仕停止処分を命じられます

 

さて、無収入となった前田利家。

利家は普段から傲慢な振る舞いが多かった人物でした。

 

捨阿弥の件では、嘆願書で救われたとはいえ、普段は人望もなく、生活が困窮しても支援してくれる人は少なかったそうです。

 

しかし、この苦しい経験から倹約家としての一面が育まれました。

ちなみに前田利家はそろばん愛用者としても有名で、現物は前田家家宝として残されています。

 

当時のそろばんは中国から伝わったばかり。

大変貴重な物だったので、どれだけ経理を重要視していたかが分かりますね。

 

話は戻り。。。

いつまでも無職では生活ができないので、利家は就活を始めます。

武勇が得意な利家は、戦場に無断参戦して、信長に手柄をアピールする活動を始めます。

 

最初の活動は、

1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」でした。

 

利家は、敵の首3つを挙げる好成果を残しアピールします。

しかし、許しはそう簡単にはもらえず…。

 

一方この年、父・利春が死去。

家督は長男・利久が継いでいます。

 

そんな中も利家の就活は続きます。。。

翌年「森部の戦い」。

これまた呼ばれてもいないのに参戦。

 

しかし、この戦で利家は猛将・足立六兵衛を討ち取った功が認められ、やっと織田家に戻る事が出来るのです。

 

ここまでくるのに苦労した前田利家は、傲慢さから人望が薄かったのですが、この頃には、そんな傲慢さは消えていて、律儀者と評価を得るようになっていました。

 

1569年(永禄12年)、前田家の家督をついだ利久でしたが、病弱で実子がいなかったので、信長に「武者道少御無沙汰」の烙印を押されてしまいます。

要するに、武家として活躍していく望みが少ない者。といった感じです。

 

そうして利家が前田家の家督を継ぐことになり、将来の大大名としての第一歩を踏み出すことになるのです。

 

1570年(元亀元年)、越前攻め」で、同盟を結んでいた浅井長政が信長を裏切ったので、信長は少数の家臣を率いて退却。

警護担当は前田利家でした。(「金ヶ崎の退き口」)

 

以後、信長は合戦が続き苦戦を強いられますが、前田利家は武功を重ねていきました。

 

同年の「姉川の戦い」では、武将・浅井助七郎を討ち取り、日本無双の槍と称えられます。

 

そして「春日井堤の戦い」で、織田軍が敗れ逃げ走る中、利家は踏みとどまって奮戦し、退却を助ける武勲を立てました。

前田利家はこの一年だけでも数々の手柄を立て、勇名を馳せています。

 

1573年(天正元年)、「一乗谷城の戦い」では朝倉義景を滅ぼします!

 

1574年(翌天正2年)「長島一向一揆」に従軍。

四女・豪姫(後の宇喜多秀家の正室)が誕生した年で、豪姫は数え歳で2歳の時、羽柴秀吉の養女となります。

 

1575年(天正3年)、「長篠の戦い」。

利家は深手を負いましたが、敵将・弓削左衛門の首級を挙げる大手柄を立てています。

 

その後、織田軍は「越前一向一揆」を殲滅。

これに利家も従軍。

 

戦後、柴田勝家は越前国の8郡を与えられ、北陸方面軍団・指揮官に任命。

 

・前田利家。

・佐々成政。

・不破光治。

の3名(府中三人衆)には、越前国の2郡(今南西、南条)が与えられました。

 

以後、柴田勝家の与力とし、府中三人衆は主に北陸方面の攻略へ移ります。

その他、

 

1578~1580年(天正6~8年)「三木合戦

1579~1580年(天正7~8年)「有岡城の戦い

 

にも参戦。

 

1581年(天正9年)には七尾城主となり、後に七尾城を廃城。

そして小丸山城を築城。

 

この頃の利家は、

・禄高→23万石。

・兵数→5千超。

 

と、驚異的な大出世を果たしたのです。。。

 

『賤ヶ岳の戦い』から秀吉側へ

 

『賤ヶ岳の戦い』から秀吉側へ

 

さて、順風満帆そうに見えた前田利家でしたが、再び苦難が降りかかります…。

 

1582年(天正10年)、「本能寺の変」が起こります。

そして、信長の弔い合戦と言われる「山城の戦いの時には、魚津城を攻略中だった為、参加できず、手柄は全て秀吉のものに…。

 

その為、「清洲会議」(織田の後継者決め)でも秀吉が主導権を握ることになり、織田家の筆頭家老・柴田勝家と秀吉との対立は確かなものとなっていきます。

 

その後、1583年(天正11年)「賤ヶ岳の戦い」では、利家は勝家の与力だったので、そのまま勝家陣営に。

利家は5,000人の兵を率いて柴田軍と布陣。

 

しかし、戦闘中に突如撤退。

柴田陣営は柴田軍の敗走と誤認。

 

撤退を始め総崩れ。

敗北が決定的に。。。

 

では、なぜ利家は撤退したのか?ですが、これには諸説ありますが、現代で有力とされている説は、旧友・秀吉 VS 上司・勝家の板挟みの苦しみに耐えきれなかった。という説です。

そしてその後利家は、越前府中城に籠城。

 

勝家は北ノ庄城へ敗走する途中、利家陣を訪ねたそうですが、この利家の裏切り行為に一言の文句も言わず、これまでの労をねぎらい、お茶漬け一杯所望した。という勝家のカッコイイエピソードが残されています。

 

利家は結局、秀吉に降伏。

最終決戦の地、北ノ庄城攻めで先鋒を務め、勝家は自害となり決着がつきました。

 

その後利家は、秀吉から領土を安堵される。+加増。

そして、本拠・小丸山城 → 加賀・尾山城(のちの金沢城)に移す。

 

その時に、利久(兄)と利益(利久の養子)に対し7,000石の領地を分け与えています。

そして、豊臣政権を支え、五大老へ出世し、秀吉の腹心として力を発揮していくのです。

 

1584年(天正12年)、「小牧・長久手の戦い」が起こります。

徳川家康 & 織田信雄の連合軍 VS 羽柴秀吉。

 

その戦の一つ「末森城の戦い」で、利家は2,500の兵で佐々成政(家康陣)15,000の兵を撃退します。

そして和睦。

 

1585年(天正13年)、秀吉が100,000の兵で北陸に侵攻。

すると、佐々成政は降伏。

 

利家はこの功績により、越中4群の内、3群が利家の嫡男・利長に与えられ、前田家は90万国の大名となります。

 

1590年(天正18年)、「小田原征伐」の総指揮として参戦。

多くの城を落とす活躍を見せ、北条家が降伏。

秀吉は天下人となります。

 

1592年(文禄元年)、秀吉 → 朝鮮出兵。

この時、名護屋で秀吉が陣頭指揮を取っていましたが、大政所(秀吉の母)の危篤で大坂に3カ月間戻る事になります。

 

その時に、代わって指揮をとっていたのが利家と家康です。

豊臣政権下において利家の存在がどれほどのものかがうかるエピソードですね。

 

1598年(慶長3年)、隠居を申し出ますが、利家の影響力の大きさから隠居は許されず、五大老に任命されます。

そして同年の8月に秀吉は病没し、天下は再び大きく動き出すことになりました。

 

前田利家の最期

 

前田利家の最期

 

秀吉の遺訓で、大名同士の婚姻は禁じられていましたが、徳川家康は伊達政宗福島正則といった有力大名と婚姻関係を築き、勢力の拡張を始めていました。

 

すると利家は、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家ら五大老と、加藤清正、浅野幸長、細川忠興、石田三成をはじめとする奉行衆たちを味方につけ、家康と対立します。

 

そうなると家康は「今ことを構えるのは得策ではない」と判断し、秀吉の遺訓を守ると誓詞を交わしました。

 

一見、豊臣家の危機は免れたかに見えましたが、この直後、利家は病で倒れ、妻・まつに遺言を書かせると、1599年(慶長4年)に亡くなりました。

 

秀吉の死から8ヶ月後のことでした。

そして利家亡き後は、誰も家康を止められず、時代は徳川へ…。

 

織田信長や豊臣秀吉といった英傑たちと歩んだ人生は、華やかで順風満帆にも見えますが、一つ一つ振り返ると波乱万丈な一生だったように思えますね。

 

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