オリンピックの歴史を語るには、外せない東京オリンピック返上のキーマンの一人、副島道正(そえじま・みちまさ)が、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』に登場しますっ!
大病を患いながらも彼は、オリンピック招致に向け尽力した人物です。
この人物を今回ドラマで演じるのは、塚本晋也さん!
では、どのような人物だったのか、さっそくみていきましょう。
目次
副島道正役をいだてんで塚本晋也が演じる!
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
NHK大河ドラマ『いだてん』で、登場する副島道正。
この人物名を聞いても??となる方は多いと思います。
では、少しご紹介していきましょう!
副島道正は、1871年生まれ。
伯爵の副島種臣の三男で、東京都出身です。
父・種臣は旧佐賀藩士で、尊皇攘夷運動に参加していた人物。
明治政府内では、『せごどん』でお馴染みの江藤新平、大隈重信たちと重要な地位についてたいわゆるデキル男で、明治維新の功労者。
英語が得意だった父・種臣は外務の仕事をしていたので、副島道正は幼少の頃から自然と異国の文化に触れて育ったのです。
成長した道正はイギリス・ケンブリッジ大学を卒業し、宮内省に入ります。
そこでは
・東宮侍従。
・式部官。
を務めました。
一方、実業家として
・京城日報社長。
・日英水電。
・早川電力役員。
なども、務めています。
1918年7月~1925年7月に、副島道正は貴族院議員になり、1934年5月には IOC総会(アテネ)で IOC委員に選出されました。
そして、1935年にムッソリーニと会談。
1936年8月~1947年5月、貴族院廃止まで再び貴族院議員を務めました。
ざっと流し見しただけでも、エリートな感じがする道正さんです。
さて今回、大河ドラマでこの副島道正を演じるのは、素敵な声と演技で魅了する塚本晋也さんです!
塚本晋也さんは、俳優やナレーターとしても活躍されているのですが、なんといっても映画監督としての実力がすごいんです!
数々の有名な作品があり、熱狂的なファンが世界中にいる映画監督の一人です。
で、何がすごいって、自分で何でもこなしちゃうんです!
・製作。
・監督。
・脚本。
・撮影。
・美術。
・編集。
・出演
これだけを兼ねる自主制作スタイルを貫いているそうなんですよ。
多才ですよね~。
多才といえば『いだてん』の写真を拝見しましたが、副島道正ご本人!?と思わず二度見してしまうくらい似ていました。
かなり近い容姿に仕上がっていました。
ホント役作り上手いなぁ~。と思いますね。
副島道正の顔をあまりご存じない方に、『いだてん』の衣装を着て撮った塚本晋也さんの写真を見せたら、「これが副島道正さんなのですね。」って、違和感なく受け入れてもいいでしょうね。
道正のイメージにはまり過ぎててナイスキャスティングにビックリしました!
ドラマでも重要な役所になると思うので、どんなふうに演じられるのか楽しみですね。
生死の境をさまよった副島道正がムッソリーニを感動させた?
副島道正は、イギリス・ケンブリッジ大学卒業後、宮内省(当時)に入省しました。
1940年に東京オリンピックの開催招致をする為、1934年5月、IOC総会(アテネ)で副島道正は、IOC委員に選出されました。
でも、心のなかでは…。
「オリンピックの開催地はイタリアに譲ったらいいんじゃない?」と、思っていたそうなんです。。
しかし、岸 清一(親友)の遺志を継ぎ、日本人で4人目となるIOC委員となることを決意したのです。
そして、嘉納治五郎たちのオリンピックに対する熱い気持ちに、道正は少しずつ心を動かされていきます。
1935年(昭和10年)、最大のライバル都市ローマのオリンピック立候補撤回を求める事をムッソリーニに直談判する為、副島道正は杉村陽太郎(イタリア大使)とローマに行きました。
しかし、なんとこのタイミングで道正は、インフルエンザ & 肺炎を発症し、生死の境をさまよいます。
そうしてムッソリーニとの会談は予定していたよりも遅れる事になってしまいました。
現代でも、インフルエンザ & 肺炎を発症したら結構ヤバい状況ですよね。
当時ならなおのこと、タミフルもない時代。
そう考えると凄い生命力だし、凄いパワーだと思います。
オリンピック招致のかかったこの会談に、副島道正は本気だったことが伺えます。
さて、会談は遅れてしまったのですが、運がよかったのか悪かったのか・・・
道正のオリンピックに対する姿勢と情熱にムッソリーニが感動し、(本当にしたのかどうかはわかりませんが)ムッソリーニの心を動かします。
そして見事、ローマの立候補撤回を約束してもらえたのです。
しかしその後、実はムッソリーニが、「立候補する!」「やっぱり撤回する!」…。と、(どんなふうに言ったのかはわかりませんが…。)二転三転したりしましたが、最終的にローマは立候補を撤回しました。
そうして翌1936年、副島道正は招致決定に功績を挙げ、IOC委員長のラトゥールを日本に迎えたのでした。
そこでは日本の状況や思考を説明し、好感触を得ることができました。
それは国際感覚に優れていた道正だからこそ、成し遂げた大仕事だったでしょう。
そして、IOC総会(ベルリン)に出席。
アジア初となるオリンピック開催を東京が勝ち取り、人々は歓喜に沸きました!
日本でのオリンピック開催までの準備期間はわずか4年。
その道のりは平坦ではありませんでした。
その準備期間、嘉納と道正の意見が対立したり、スタジアムの建設費でモメたり…。
書くと長くなるので、カットしますね。
とにかく問題が次々と出てきてなかなか進まず、官民一致しなければ!と道正は思いましたが、それとは裏腹に事態は悪化していきます。
1937年7月7日に盧溝橋事件が起こります。
そして日中戦争勃発。。。
この時、東京オリンピックまであと3年…。2年…。と時間が過ぎていきましたが、開催準備は遅れていてIOCも危機感を抱いていました。
そんな中で行われたのが、IOCカイロ総会。
そこではオリンピック準備状況の報告を求められましたが、準備の遅れの原因は中国との戦争。
もちろん非難は予想されていましたが、なんとか嘉納の奮闘のおかげで、開催の取り消しといった事はありませんでした。
しかしIOCは、まず戦争を早期に解決するように嘉納に勧告します。
そしてその帰国の途、嘉納は船の中で病に倒れ帰らぬ人となったのです。
残された道正ら開催委員会は、決意を新たにしますが、スタジアムを作ろうにも資材がなく、戦争の終わりを待つ以外、手段はなくなってしまったのです。
しかし大陸での戦争は長期化しそうな様子。。。
このままでは欧州の多くはボイコットするだろう・・と色々なことを考えた道正は組織委員会に相談せず、近衛らと面会します。
政府首脳人に、「政府は、東京大会を積極的に援助する意図があるのか?もしできないのであれば、国家の威信と国際的責務のため、その事実をすぐに公表することが必要ではないか?」と、問いただしました。
すると「オリンピック開催を支持できない」という見解。
これを聞いた副島道正は決意し、組織委員会とオリンピックの中止を政府に要請しました。
そして7月15日閣議決定。
1940年東京オリンピック開催権は日中戦争の悪化などで、返上となってしまいました。
この時、道正は何を思ったのでしょうね。
道正は批判されることに…。
そして、IOC委員の辞任を申し出ましたが、ラトゥールは
「辞表はIOCの理事会で満場一致で否決された。理事会は全員、あなたのオリンピックに対する素晴らしい態度を評価している。」とのコメント。
東京オリンピック開催権の獲得に大いに活躍し、色々な意味でキーマンとなった副島道正は、1948年77歳で死去。
そして平和の祭典が復活するのは、戦争終結後の1948年でした。
大河ドラマ【いだてん】あらすじ(ネタバレ)1話~最終回まで!
【いだてん】再放送と見逃し配信情報!過去の大河ドラマもお得に視聴する方法!