大河ドラマ『いだてん』の展開が、ますます楽しみになってきましたね。

東京オリンピックは決定までとっても大変そうですが、最終的に決めたのはラトゥールだったのでしょうか。

どんなふうに決まったのでしょうね。

気になります。

 

で、そこにイタリアの政治家ムッソリーニが登場します。

全く関係のなさそうな気もしないではないですが、実は関係しているのですね。。。

 

では、そのムッソリーニについて、さっそくみていきましょう。

 

 

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目次

ムッソリーニとは?

 

ムッソリーニとは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

ベニート・ムッソリーニは、イタリアの政治家です。

しかも、あの独裁政治で知られるアドルフ・ヒトラーと並ぶ独裁者です。

 

ヒトラーの方が若干有名な気もするので、ヒトラーの方が何か凄い?と思われる方もいらっしゃると思いますが、実は、ベニート・ムッソリーニ政権掌握は1922年。

ヒトラーは1933年。

 

という事は、ムッソリーニの方がヒトラーよりも10年以上前に政権を担っていたという事です。

そしてムッソリーニは「ファシズム」と呼ばれる独裁政治の元祖になるので、ベニート・ムッソリーニの手法をヒトラーが参考にしたのでは。と思われます。

 

ベニート・ムッソリーニは、若い頃から勉強がよくできて、4ヶ国語を操り、更にスポーツ万能!

女性にめちゃめちゃモテたようですが、人に心を閉ざすタイプで友だちも作らない孤独な一面もあったようです。

 

それでも人前での演説に長けていました。

知的に優雅に分かりやすく話すタイプ。

 

ムッソリーニはイタリア社会党に籍を置き、党の機関誌の編集のトップを務めていました。

その時、前触れなく第1次世界大戦の参入を唱えたことで、党から除名されることになりました。

 

そしてムッソリーニはその後、第一次世界大戦に従軍し、ミラノにおいて自身で新聞を発行しました。

 

1919年3月「イタリア戦闘者ファッシ」(新たな政治結社)を創設。

社会主義的な主張を孕んでいたこともあって、1919年の選挙では成功ならず…。

 

翌年1920年、組織の綱領の中から左翼的な文言をなくし、代わりに愛国心とかイタリアの栄光を讃える煽情的な主張を展開。

翌年、ファシスト勢力を集めたファシスト党を創設し、指導者となりました。

 

1922年10月、ファシスト党は党員40,000人以上となり、動員するとローマの中心部を占領。

ですが、ムッソリーニはこれに参加していません。

 

それでも、ファシスト党のこの行動に恐怖を抱いた国王の命で、ムッソリーニが首相の座に就くことになったのです。

 

1924年6月、社会党員が暗殺される事件が発生します。

(ファシスト党の暴力を議会で指摘した暗殺事件。)

 

他の議員、報道機関→ムッソリーニの関与を指摘。

そして、政権は窮地に立たされる事になります。

 

というのも、ファシスト党は批判とは逆の独裁制を提唱するのです。

求められなければ動乱を起こす」と脅迫し始めます。

 

ムッソリーニも翌年の1月、独裁制を公言。

国王 & 議会も抗うことが出来ず…。

事実上、イタリアの議会制度は失われました。

 

1926年、ファシスト党は反対勢力を排除して、ムッソリーニの暗殺事件を逆手にとります。

その結果、野党(全て)を廃止にする事に成功します。

という事は、ファシスト党の独裁が始まったという事です。

 

1924年、フィウメ(現在のクロアチアの北部に位置する。)を併合。

そして1926年には、勢力下にアルバニアを置き、武力を背景とした領土の拡張を推し進めます。

 

1935年、アフリカのエチオピアの併合。

国際連盟からの非難を浴びることになり、イギリス VS フランスが表面化。

 

ムッソリーニは、オーストリアへも領土的な野心を抱いていたことからドイツとも競合する関係にあり、ヒトラーの動きを警戒していたそうですが、スペインの内戦を共同で支援し、少しずつ歩調が合うようになり、1937年に、日本も入れた三国による枢軸国を形成しました。

 

1939年、第2次世界大戦勃発後も、中立の立場を標榜していたムッソリーニですが、1940年6月に参戦します。

ドイツの優位を確信。→「漁夫の利」を狙っての参戦。

しかし、イタリア軍は各地で敗れてしまいます。

 

1943年7月、連合軍がシチリアに上陸するとムッソリーニは幽閉。

ドイツによって一旦は、救出されたムッソリーニでしたが、1945年4月パルチザンによって捕えられ、処刑によって生涯を終えました。

 

 

独裁者と呼ばれたヒトラーとの違いは?

 

独裁者と呼ばれたヒトラーとの違いは?

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

独裁政治で知られるムッソリーニアドルフ・ヒトラー

ムッソリーニ = ヒトラー → 独裁政治と思っている人は多いのではないでしょうか。

 

どちらも独裁政治で有名ですが、名前が覚えやすいせいか、ヒトラーの方が若干名前知られてる?気がしませんか。

二人の違いはどこにあるのか、みていきましょう。

 

二人ともどこの国の政治家なのかというと、ムッソリーニはイタリアの政治家で、ヒトラーはドイツの政治家です。

ムッソリーニは高学歴、一方のヒトラーは高卒の一兵卒。

 

ムッソリーニの演説は知的に優雅に分かりやすく話すタイプ。

ヒトラーは感情的にまくしたてるタイプ。

 

実は、ベニート・ムッソリーニ政権掌握は1922年。

ヒトラーは1933年。

 

先程も少し触れましたが、ムッソリーニの方がヒトラーよりも10年以上も前に政権を担っていました。

ファシズム」と呼ばれた独裁政治の元祖になります。

 

ムッソリーニの政権時に行った実践、体制の総称が「ファシズム」。

なので、ベニート・ムッソリーニのこの手法を、ヒトラーが参考にしたのだろうと考えられます。

そして、その影響を受けているとされるのが「ナチズム」(ヒトラー政権)です。

 

あと、ミュンヘン一揆もムッソリーニのローマ進軍に影響を受けています。

そういった事もあり、ムッソリーニはヒトラーを自分より格下と思っていました。

 

そんな二人に決定的な違いがあるとすれば、本国における現在の人気!でしょうね。

ムッソリーニは独裁政治で知られていますが、イタリアではそれほど悪いイメージではありません。

 

むしろ一部ではヒーロー!

ってゆーか英雄!

 

今でも、熱狂的ファンがたくさんいて、お墓参りに来ているそうです。

どちらかというとムッソリニーは、弱い立場に立って考える人だったようですしね。

 

ヒトラーは…。というと、ドイツでの評価はよくありません。

この違いはなぜなのかというと、ムッソリーニはユダヤ人を迫害せず、擁護しようとしていたのに対し、ヒトラーは、ユダヤ人などに、組織的な大虐殺をしたことはあまりにも有名ですよね。

 

表向きは二人とも、独裁者。

でも、対称的な二人だったことがよくわかりますね。

 

 

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IOC会長・ラトゥールの決定で東京オリンピックが決まった?

 

IOC会長・ラトゥールの決定で東京オリンピックが決まった?

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

ラトゥールとは

 

バイエ=ラトゥールは、ベルギー貴族。

第3代の国際オリンピック委員会(IOC)会長を務めた人物です。

 

ざっとご紹介すると、

1903年、バイエ=ラトゥールはIOCメンバーに仲間入り。

後にベルギーオリンピック委員会の共同創設者に名を連ねます。

 

1920年夏季、アントウェルペン(アントワープ)オリンピックの組織委員会にも加わっていました。

1925年、クーベルタン(近代オリンピック運動の提唱者)がIOC会長辞職。

 

その後、バイエ=ラトゥールが新会長に選出されました。

1936年、ベルリンオリンピックのときには、ヒトラーに対し開催地変更をちらつかせるなど、ヒトラーと対等に戦った人物でもあります。

 

大物感ハンパないですね。

さて、この頃の日本ですが、1894年に日清戦争勃発。

 

1904年、日露戦争。

1914年、第一次世界大戦。

 

…。と、大戦を経験し、万博&五輪開催への思いが強くなっていました。

1931年(昭和6年)東京市会での五輪の招致が決定。

 

1932年(昭和7年)ロサンゼルス五輪と併催されたIOCロサンゼルス総会で、日本代表は招致宣言。

 

名乗り出たのは日本以外にも、

・ローマ(イタリア)

・ヘルシンキ(フィンランド)

が立候補しています。

 

日本(東京)と合わせて三都市になります。

そして、1935年(昭和10年)に開催されたIOC総会に持ち込まれました。(ローマ)

 

実は日本は、イタリア首相のムッソリーニと直接交渉し、「ローマは候補地から辞退する」と約束を取り付けていましたが、「外部からの介入はダメだ!」と、IOC会長のアンリ・ド・バイエ=ラトゥールにこの事を問題視され、開催は見送りに…。

 

諦めきれない日本は、受け入れ体制のアピールするためにバイエ=ラトゥールを日本に招致するのです。

 

1936年(昭和11年)に来日したラトゥールは、日本各地を見て回り、日本は好感触を得ました。

それにラトュールは、二・二六事件を乗り切ったばかりの昭和天皇に謁見しています。

 

その年の夏、IOCベルリン総会が開かれました。

日本代表演説は、嘉納治五郎!

日本が遠いと言う理由で五輪が来なければ、日本が欧州の五輪に出る必要はない」と演説し、迎えた決選投票。

 

結果は……。

・東京36票。

・ヘルシンキ27票。

 

IOC会長のラトゥールの「トーキョー!」の一言で、アジア初となる東京五輪開催が決定!

日本が沸いた瞬間でした。

 

しかも、このあと、1937年(昭和12年)、IOCワルシャワ総会では、札幌冬季五輪の招致が決定します。

嘉納治五郎たちの長年の念願が叶ったのでした。

 

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