大河ドラマ『いだてん』に犬養毅が登場します。

 

教科書に載ってなかった〜?

名前聞いたことあるわぁ〜。と、ぼんやりとした記憶があるって方多いのではないでしょうか。

 

犬養毅は、総理大臣まで上り詰めた人物なのですが、検索をかけると、西南戦争というワードもでてきます。

経験されたのでしょうか。

 

余談ですが、犬養毅のお孫さんはタレントの安藤和津さん。

奥田瑛二さんの奥様って言ったほうがよりわかりますね。

お孫さんなのだそうですよ!

 

と、ととととということは、安藤サクラさんは、ひ孫さん!

ということですね。

余談でした…。^^;

では、さっそく見ていきましょう!

 

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目次

犬養毅を演じるのは塩見三省!

 

 

犬養毅は明治〜昭和初期にかけ活躍した政治家です。

 

いだてん』で、この犬養毅役を塩見三省(しおみさんせい)さんが演じられます。

塩見三省さんは、177cmの長身、そして強面で知られていますよね。

 

たくさんの作品に出演されていて、受賞歴もおありです。

最近ではバイプレイヤーとしての活躍が多いですね。

 

少し強面で、怖い人の役はもちろんグッド👍なのですが、人情味溢れる役までめっちゃうまいんです!

この演技力は、見入ってしまいます。

 

お芝居じゃなくてドキュメント見ているような錯覚さえ覚えます。

これほどの俳優さんですがお顔とお名前が一致しない方もいるかもしれませんね。

 

出演本数は数えきれないほど。。。

数々の話題作にも出演されていますが、最近でいうと、

2013年NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「琥珀の勉さん」役で出ていた時には注目を集めていましたね。

 

大河ドラマにも常連さんではないかと思うほど、たくさんの作品に出演されています。

なので、見たら「この人知ってる!」となるのではないでしょうか。

今回の大河ドラマ『いだてん』では、どんな犬養毅を演じてくれるのでしょうか。

ドラマの中で印象深いシーンの一つになるのではなるのでしょうね。

 

犬養毅は西南戦争に従軍した?

 

犬養毅は西南戦争に従軍した?

 

犬養毅(いぬかい つよし)は1855年、備中国(岡山県)大庄屋・郡奉行を務めた犬飼源左衛門の次男として誕生しました。

(のちに犬養と改姓。)

 

父は水荘と称した備中松山藩板倉氏分家の庭瀬藩郷士。

庭瀬藩から名字帯刀を許される家格でしたが、コレラで父が急死。

 

それからの生活はとても苦しかったそうです。

この時、毅は2歳でした。

 

経世学者楠之蔚(同藩)の下、漢籍を修め1876年(明治9年)上京。

福沢諭吉の慶應義塾に入学し、一時共慣義塾に通います。

 

漢学塾・二松學舍では三島中洲に漢学を学び、1877年 慶應義塾在学中に、郵便報知新聞(のちの報知新聞)の記者として九州へ行き、西南戦争に従軍しました。

 

政府系の新聞は、「(官軍が)勝った!勝った!」と記事を書いていたのに対し、犬養は最前線まで行き、生々しい記事を書き上げました。

今で言うと戦場ジャーナリストのような感じになります。

 

抜刀隊が「戊辰の仇!」と叫び突撃した〉事は、犬養毅の取材によるもの。と言われています。(一説。)

内容が、かなり生々しく当時はかなり評判になったそうです。

 

1880年(明治13年)藤田茂吉と、慶應義塾卒業前に栗本鋤雲くりもと じょううん(郵便報知新聞社主筆)に誘われて記者になりました。

って・・・つまり中退ってことです。

 

そして「東海経済新報」を発刊。

記者として本格始動!をしていきます。

 

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総理大臣まで上り詰めた犬養毅の最期は?五・一五事件で命を落とす

 

総理大臣まで上り詰めた犬養毅の最期とは?

 

 

記者として活動していた犬養毅でしたが、1881年に福沢諭吉の推薦で役人になります。

 

大隈重信が「国会を開け」と主張。→追放。

それに従って犬養毅も政府を辞任。

 

1882年 大隈重信→立憲改進党を結成。

矢野文雄、尾崎行雄とともに入党。

 

尾崎行雄は「郵便報知新聞」などで、薩摩、長州藩出身者中心に動く政府を批判。

そして1890年に第一回衆議院議員選挙が行われ、犬養毅は岡山県で立候補し、当選します。

 

その後は17回連続当選し続け、ここから本格的に政治家人生がスタートしました。

1898年、大隈重信が板垣退助と協力し、作った内閣の文部大臣となりましたが、内部の争いで、4ヶ月で内閣は倒れ、1912年には桂内閣が発足。

 

長州藩の勢力と、陸軍を背景にあり、独裁政治のようになっていきました。

その為「憲法に基づいた政治を目指せ!」と「(第一次)護憲運動」が活発になりました。

 

1913年、犬養毅も先頭に立ち参加し、桂内閣を批判しました。

そのかいあってか、50日で桂内閣は潰れ、この結果、犬養毅&尾崎行雄は「憲政の神様」と呼ばれました。

 

1924年、清浦奎吾(きようらけいご)内閣発足。(貴族院を中心とする内閣。)

清浦内閣は議会を無視。

 

そして犬養毅は、他政党と再び「(第二次)護憲運動」を起こし、次の選挙で護憲派が勝利をおさめ、加藤高明内閣を発足させます。

そうして「普通選挙法」を成立させ引退しましたが、犬養毅を支持する民衆に後押しされ、再び政界へ戻りました。

 

1929年、犬養毅は立憲政友会の総裁になりました。

この年アメリカで株価が大暴落。(世界恐慌が発生。)

そして、長引く不況で経済的な行き詰まり感があり、政党政治家に対し不信感を持っていました…。

 

そんな中、軍主導で満州進出。

軍部は大陸に侵攻し、切り抜けようと満州事変を起こしました。

若槻礼次郎は軍を抑えられずに責任を取り総辞職。

 

そして、この時77歳だった犬養毅は、内閣を組織することになり、1931年内閣総理大臣となったのです。

 

1920年代〜30年代は、少しずつ軍力が強まった時代でした。

犬養毅は首相となり、軍部をおさえ満州事変解決に尽力。

 

しかし、右翼、軍部がどんどん政治へ口を出してくるようになり、軍部の力に押され…。

ついに、恐るべきことが起きてしまいます。

 

1932年5月15日の事。

国際社会の反発&軍の勢力拡大を警戒したのか、犬養毅は満州国を承認しようとせず、この日犬養は終日総理官邸にいました。

 

夕方5時半頃、政治に不満を持つ海軍青年将校らが総理官邸を襲撃。

この時なんと、犬養毅は襲撃者たちを客間に通しています。

 

話せば分かる」と自分の考えを説明しようとしたそうですが、「問答無用!」と襲撃者の一人が銃撃を命じ、銃弾を受け重傷。

 

そんな状態だったのに、駆け付けた女中に「今の若いものをもう一度呼んで来い、よく話して聞かせる」といったと言われています。

犬養毅は深夜には亡くなられました。

78歳でした。

 

この事件が、世に言う「五・一五(暗殺)事件」です。

この事件はその後の日本の動きをよくあらわした事件となりました。

 

この事件を機に、護憲運動から続いた政党政治(大正デモクラシー)が終了。

軍部が急速に力を強めていき、犬養内閣は戦前最後の政党内閣となりました。

 

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