ショーケン」の愛称で皆から愛されていた大物俳優萩原健一さん。

遺作となった大河ドラマ『いだてん』では、大物政治家の高橋是清役を演じられました。

 

高橋是清は、見た目がぽてっとした体格で丸〜いお顔なので国民に「だるまさん」って呼ばれて大変親しまれていたそうです。

 

また、財政面に対する信頼度が高く、高橋是清が大蔵大臣になると「だるまさんが出てきたからもう大丈夫だ!」と、言われる程だったとか。

 

では、萩原健一さんの集大成ともいえる大物政治家 高橋是清の人生を見ていきたいと思います。

 

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目次

萩原健一 最期の役が高橋是清!

 

 

大河ドラマ『いだてん』に登場する高橋是清役が萩原健一さんの最期の役となりました。

萩原健一さんが演じるのは、明治〜昭和初期にかけ、大蔵大臣や内閣総理大臣を歴任した高橋是清です。

 

いだてん後半の主役・田畑政治(阿部サダヲ)から、アムステルダムオリンピックへの選手派遣に国から補助金を出してくれるよう直談判を受ける、とても重要な役どころとなります。

 

萩原健一さんは『いだてん』の脚本を読んで「面白い!」と、出演依頼オッケーをだしたそうですが、ドラマの撮影の時には既に体は辛かったのではないかと思われます。

それでも、エネルギッシュな演技で大病なんて誰にも感じさせなかったそうです。

 

萩原健一さんは一度仕事が決まると、途端に集中し、周りの想像や期待をはるかに上回る素晴らしい演技を見せてくれる…。

そんな俳優さんだったようです。

 

萩原健一さんの初登場シーンは、6月末〜7月上旬予定(第25回)。

未収録のシーンに関しては放送に影響しないので、代役は起用しないでいくそうです。

 

主なシーンは撮り終えていて、編集して放送するとみられています。

ちょこっと撮影シーン拝見しましたが、カッコいいです!

 

見事な演技で画面の存在感が凄い!

さすがショーケン!といった感じでした。

 

大河ドラマファンはもちろんですが、ショーケンファンにはサプライズ的な出演になった後半の『いだてん』楽しみですね。

 

高橋是清とは

 

高橋是清とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

高橋是清の人生は本当に波乱万丈です。

簡単ではありますがご紹介したいと思います。

 

高橋是清は、安政元年に川村庄右衛門(幕府御用絵師)の妾の子として江戸芝露月町で生まれました。

幼名→和喜次(わきじ)

そして生後数日という幼さで、高橋豊治是忠(仙台藩士)の養子となりました。

 

慶応3年、藩の留学生としてアメリカへ渡り、奴隷になるなど苦しいこともありましたが、明治元年12月に帰国しました。

 

外交官権判事・森有礼(もりありのり)の書生となり英語を学び、明治2年に大学南校に入校。

少し経つと教官三等手伝となりました。

 

その後2年程、酒と女遊びに耽けてしまい教官を退きましたが、唐津藩の英語学校に赴任。

そこでは自らも勉学に励みました。

 

明治5年上京。

大蔵省下級官吏を振り出しに、文部省にも出仕。明治8年辞した後は、諸職を転々としました。

 

明治18年、欧米諸国を歴巡して帰国。

 

明治20年、初代特許局長となり、明治22年には農林学校長を兼ねましたが、ペルー銀山開発の為に渡航。

失敗。

そして翌年、帰国。

 

明治25年5月、日本銀行に入社。

・建築事務主任から支配役。

・馬関支店長。

・横浜正金銀行支配人。

・同副頭取。

を経て、明治31年3月日銀副総裁となりました。

 

日露戦争〜戦後にかけ、困難な外債募集を成功へ導いたことで、元老・重臣間の寵児となったのです。

明治38年、貴族院議員に勅選。

 

明治39年、横浜正金銀行総裁。

明治40年、男爵となります。

 

明治42年2月、日本銀行副総裁。

明治44年、日本銀行総裁となりました。

 

大正2年、第一次山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり、政友会に入党して積極財政を推進します。

 

そして大正7年、原敬内閣で蔵相。

大正9年には子爵。

 

大正10年11月、原敬首相暗殺。

 

後継内閣の首班として内閣総理大臣兼大蔵大臣となり、政友会総裁に推されましたが、高橋内閣成立後まもなく閣内不統一で翌年6月総辞職しました。

 

政友会も大正13年に床次竹次郎等の脱党で、第二党に転落。

官職&爵位を捨て、第二次護憲運動の先頭に立ち、代議士に初当選。

 

大正13年6月、第一次加藤高明内閣が護憲三派をもって組閣する時、農商務大臣として入閣。

翌年、商工大臣と農林大臣を兼任。

 

昭和2年、田中義一内閣の蔵相。

モラトリアムを施行し、金融恐慌の収拾にあたりました。

 

昭和6年、犬養毅内閣、斎藤実内閣、岡田啓介にてそれぞれ大蔵大臣を務め、軍需インフレ政策を推進。

井上準之助(前任)が主導していた金解禁(金本位制度復帰) の為の緊縮財政に反対し、

・低為替。

・低金利。

・財政支出拡大。

の積極政策をとったのです。

 

世間で「高橋財政」と呼ばれるのは、これらの財政政策を行い功績を残した高橋是清の名前ともじっているのですね。

 

大恐慌から日本資本主義を救い、「財政の守護神」的存在になった是清でしたが、昭和11年に二・二六事件で皇道派青年将校に射殺されました。

 

享年83(満81歳没)

 

総理大臣としては、業績はなく総理大臣になりましたが、総理大臣としてより、大蔵大臣として語られることの方が多い是清ですが、それだけの功績を大蔵大臣として残した証でもあります。

 

近代の財政家としては最重要人物とされ、松方正義と並び財政家として称せられています。

 

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高橋是清はアムステルダム大会の資金援助をした?

 

高橋是清はアムステルダム大会の資金援助をした

 

1924年(大正13年)、田畑政治は東京帝国大学を卒業し、朝日新聞社に入社。(所属は政治部。)

後の首相・鳩山一郎に気に入られていました。

 

そしてこの時大蔵大臣だった高橋是清に鳩山一郎の紹介で会うことができ、オリンピック出場の為の補助金の約束を取り付けることに成功したのでした。

 

さて、このシーンドラマ『いだてん』では後半に登場します。

阿部サダヲさん演じる新聞記者の田畑政治からアムステルダムオリンピックへ選手を派遣するに必要なお金を国の補助金を出して援助してほしい。と直談判を受けるシーンが描かれるそうです。

見どころの一つとなるシーンになりそうですね。

 

ちなみにこの1928年のアムステルダムオリンピックで日本は、水泳だけで11名の選手を派遣。

・金メダル1つ。

・銀メダル1つ。

・銅メダル1つ。

の成績を残し健闘したのでした。

 

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