大河ドラマ『いだてん』で登場する、柔道家で国際連盟事務次長の杉村陽太郎(すぎむら ようたろう)

 

その杉村陽太郎役を演じるのはイケメン俳優で知られる加藤雅也さん。

熟年の色気がある加藤雅也は、杉村陽太郎をどう演じられるのか楽しみですね。

 

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目次

杉村陽太郎役を加藤雅也が演じる!

 

大河ドラマ『いだてん』で、文武両道エリート外交官の杉村陽太郎を俳優でデルの加藤雅也さんが演じられます。

 

加藤 雅也(かとう まさや)さんは、物凄く有名なドラマや映画にたくさん出ておられますし、大河ドラマは過去にも出演されているので、老若男女に顔は知られていると思います。

顔を見たら「あっ!知ってる」「あぁー。あ役の人が加藤雅也さんかぁ!」と、なると思います。

 

最近のNHK関連で言うと、朝の連続テレビドラマ小説の『まんぷく』に出ていた喫茶店のマスター役。

スタイリッシュでマスターの衣装も似合ってましたよね~。

 

関西弁もお上手で、いい味出てましたし!

・・・って、それもそのはず!加藤雅也さんは、奈良県奈良市出身なんです。

 

ダンディーな雰囲気で、洗練されたお顔だちなので、もしかしてハーフ?なんて思ってましたけど、純日本人みたいです。

 

趣味&特技は、

・英語。

・マーシャルアーツ。

・居合。

・ボクシング。

・合気道。

・陸上競技。

・スキー。

・水泳。

 

・教員免許。

(小学校教員免許、中学校・高校 保健体育教員免許)。

・普通自動車免許。

・スキューバダイビング免許。

・大型自動二輪車免許。

 

サラ~と書いておりますが、すごい多才な内容で驚きです!

杉村陽太郎と同じく文武両道な人ですね。

 

高校は陸上部でインターハイ出場経験もありますし、教師になりたくて、横浜国立大学教育学部に進学。

大河ドラマ『いだてん』の杉村陽太郎役は、見ごたえありそうですねぇ~。

 

杉村陽太郎は柔道家で嘉納治五郎の愛弟子!

 

杉村陽太郎は柔道家で嘉納治五郎の愛弟子!

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

杉村陽太郎は、身長185㎝ & 体重100㎏ 超えの巨漢体型!

若い頃は、スポーツは何でもこなしたとか。。。

でも、スポーツ万能な人ってわりといるんじゃない。と、思いませんでしたか。

 

しかし杉村陽太郎は、サラ~と上手くこなすだけではありません!

トップアスリートなのです!しかも色々なスポーツで。

 

彼の豪傑さは、ある意味、名物男だったようです。

柔道は、なんと6段の腕前!!

 

しかも嘉納治五郎の“愛弟子”でもあります!

フランス大使時代は、フランスで柔道の普及に協力していたそうです。

 

水泳もお出来になったようで、富浦で遠泳を経験していたこともあったからか、古式泳法の水府流太田派の名手で大学時代に16kmの遠泳で、優勝しちゃったこともあるそうです。

柔道と思っていたら水泳も!凄いですよね。

 

それに嘉納治五郎は、改めて優秀な人材を育てるスペシャリストだなぁ~。と、思います。

登場する有名な人は、嘉納治五郎とどこかで繋がってるエピソードが多いので、知るたびに偉大さや嘉納治五郎自身が優秀な人だったんだなぁと、感じますね。

 

杉村陽太郎が東京オリンピック招致で貢献!

 

杉村陽太郎が東京オリンピック招致で貢献!

 

 

杉村陽太郎といったら、やっぱり東京オリンピックの招致活動で貢献した人物!という印象が強いですよね。

 

1940年、東京オリンピック招致活動では、強力なライバル国イタリアの首相・ムッソリーニと直接話をして、イタリアに引き下がってもらった。という逸話の持ち主です。

そんな杉村陽太郎とは、どんな人物だったのか簡単ではありますが、少しご紹介したいと思います。

 

杉村陽太郎は、旧盛岡藩士 & 外交官の杉村濬(すぎむらふかし)の長男として1884年明治17年9月28日に岩手県盛岡で誕生しました。

 

お父さまは1904明治37年に南米移民事業の為、率先してブラジル公使となりましたが、任地で病気になります。

そして58歳でお亡くなりになっています。

 

杉村陽太郎は、1901年(明治34年)高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。

 

1905年(明治38年)旧制一高(第一高等学校)時代、毎日新聞社主催「大阪湾10マイル遠泳」に参加し、浜寺~神戸付近まで2時間48分という記録で優勝しました。

この事は、新聞で大きなニュースとなり、日本スポーツ紙を飾ったそうです。

 

杉村は学生時代からスポーツ万能で、柔道は6段の腕前で、水泳の達人。陸上競技も得意!

と、何でもできちゃう万能選手として知られていました。

 

1908年(明治41年)東京帝国大学法学部を卒業。

同期には満鉄理事、木村鋭市らがいます。

 

その後外務省に入省。

お父さんと同じ外交官の道を歩んだのです。

 

1910年(明治43年)

リヨン大学(フランス)において、杉村陽太郎は日本人で3人目の博士号を次席で取得。(他2名→梅謙次郎、富井政章)

 

1919年(大正8年)

本省条約局第2課長。

 

1920年(大正9年)

財務参事官。

 

同年には国際連盟概説』(杉村陽太郎著・国際連盟協会)を刊行。

 

1921年(大正10年)の11月にワシントン会議出席。(日米英など9カ国が参加)

・海軍軍縮。

・中国・太平洋問題を協議(~1922年)。

 

会議では日本のこれまでの強硬姿勢を、各国との強調を保つ新しい外交政策に転じました。

しかし、のちに杉村陽太郎は破局の道を辿ることになります。

 

杉村は同年に軍縮縮少問題研究資料』を出版します。

内容は『ハーグ平和会議』。

・軍国主義打破。

・海洋の自由・パリ平和会議。

 

1923年(大正12年)駐フランス大使館一等書記官。

ついで参事官に就任。

法学博士の学位を授けられ、フランスでは柔道普及に協力しました。

 

1927年(昭和2年)に国際連盟事務局次長に就任。

(日本の国際連盟脱退まで事務局長兼政治部長を6年間務めました。)

 

イギリス人事務総長ドラモンド伯、各国人の部下も彼の活動ぶりを見て心から尊敬していました。

欧米外交官連に「真にもののあわれを知る日本人」と言われ、少数民族問題を「四海同胞」の念で対処。

 

四海同胞とは

「人と接する時には、真心と礼儀を持つと人は兄弟のように親しくなれる。ということ。

「四海」は四つの方向の海のことから全世界という意味があります。

 

満州事変後、対日不信感に対する了解工作では、特にイタリアの好意をとりつけました。

第一次大戦後の欧州政局とは縁遠い立場でしたが、忍耐強く対処したそうです。

この時、奥さま(花子さん)も社交場に出て、夫を支えたそうです。

 

1928年(昭和3年)

軍縮準備委員会・安全保障委員会事務局総長に就任。

 

1930年(昭和5年)

連盟十年・世界平和を築く人々』を刊行。(杉村陽太郎・国際連盟協会)

 

1931年(昭和6)年9月18日夜に柳条湖事件が起こります。

 

1933年(昭和8年)

柳条溝を巡る連盟討議では、日本は当事国で公然たる活動ができませんでした。

舞台裏工作も失敗。

松岡洋右全権の連盟脱退宣言となります。

 

任期満了。→スイス公使。

国際オリンピック委員会(IOC)委員に選出。就任。

 

1934年(昭和9年)、イタリア駐箚特命全権大使。

 

1935年(昭和10年)12月15日、スエーデンのオリンピック委員会に出席。

1940年の『第12回オリンピック大会を東京に!』と、ありとあらゆる機会に奮闘しました。

 

東京か?はたまたフィンランドか?フィンスキーか?

杉村陽太郎は、問題を決定すべく日本の運動界を代表し出席。

東京開催を好条件なものにしていきました。

 

1936年(昭和11)年7月

IOC委員を辞任。

 

1937年(昭和12年)4月

フランス駐箚特命全権大使。赴任。

 

1938年(昭和13年)1月

胃癌が発覚。帰国。

 

1939年(昭和14年)3月24日

正三位勲一等杉村陽太郎薨去(官報第3677号)。

 

現職のまま死去。56歳。

日本の外交に多大な貢献をしたとして、外務省葬がとりおこなわれました。

 

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