大河ドラマ『いだてん』第2部・田畑政治篇で、河野一郎が登場しますっ!
河野一郎は実在する人物で、実力ある政治家 & 箱根駅伝出場の副総理 & オリンピック担当大臣になった人物で有名な方です。
ちなみに、河野一郎の息子さんは、元衆議院議長の河野洋平さん。
で、お孫さんは現在、衆院選8選まで当選を続けている河野太郎さん。
代々、政治家が続いているのは、それだけ支持されているからですよねぇ〜。
凄い大物感!ハンパないですね!
さて大河ドラマ『いだてん』で河野一郎役を演じるのは、2015・2016年度2年連続「CMタレント好感度ランキング」(CM総合研究所)の男性部門第1位を獲得した桐谷健太さん!
では、さっそく河野一郎について、どんな人物なのか見ていきましょう。
目次
河野一郎をいだてんで桐谷健太が演じる!
大河ドラマ『いだてん』で登場する河野 一郎は、日本の政治家です。
昭和中期の政界実力者の一人。
そして、1964年東京オリンピックで副総理 & オリンピック担当大臣として開催に尽力した実在する人物。と、いう設定。
実在の人物は、決断力 & 行動力などがあり、全てがスピーディー!
かなり仕事ができた方のようです。
河野一郎さんの写真を拝見すると、若い頃のは、爽やかで超イケメン!
晩年は貫禄も出て、また違った印象なのですが、熱い感じのあるお人柄で、これまた素敵です。
逸話の一つに、フルシチョフと大喧嘩して上手く外交できた。なんてのも残っています。
熱い方だったのですねぇ~。
政治行動は「横紙破り」 と呼ばれるほど、無理をしてでも自分のしたい事を押し通す!といった、行動力のある人物だったようですしね。
そんな河野一郎役を大河ドラマ『いだてん』で演じるのは、見ない日ってある?ってくらい、映画、ドラマ、CMと、ひっばりだこの桐谷健太さん!
桐谷健太さんは数々の賞を受賞されてますし、書ききれないくらいの出演作品の多さにびっくりです。ホント大活躍。
最近だと、NHK連続テレビ小説『まんぷく』にでていらっしゃいましたよねぇ〜。
口が達者で、この人は信用できるのかできないのか。。。といったキャラで、桐谷健太さんにとても似合ってました(笑)
というか、お芝居が上手だってことなんでしょうね。(笑)
歌手としても活躍されていて、桐谷健太さんの名前初のCD作品となるアルバム『香音-KANON-』もリリースしています。(2016年9月)
au三太郎シリーズのCMソングで『海の声』では『第58回日本レコード大賞』優秀作品賞に輝き、第67回NHK紅白歌合戦にも初出場を果たしています!
桐谷健太さんが出るって聞くと、何か面白い感じになりそうですし、しかも、クドカンさんですよっ!
ドラマ見たい度アップ↑しちゃいますよね~。
箱根駅伝で総合優勝を果たした河野一郎!
画像引用元:https://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1801L_Q0A820C1000000/
河野一郎が生まれたのは、神奈川県足柄下郡豊川村の豪農・河野家。
お父様の治平(じへい)さんは、
・豊川村長。
・郡会議員。
・神奈川県会議長。
などを歴任された方です。
のちに政治家として実力を発揮していったことが想像できますね。
スポーツとは無縁なのかなぁ〜?と思いきや、早稲田大学時代は金栗四三を師と仰ぎ、弟・謙三さんと陸上長距離選手として活躍しています。
1925年(大正14年)、第6回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)で、日本大学が学外の人力車夫を選手の「替え玉」として走らせたあるまじき不祥事が起こりました。
これは「人力車夫事件(じんりきしゃふじけん)」と呼ばれるものです。
往路第2区走者の前田喜平太(元警察官)が神奈川県藤沢中継所に到着した時、ふと見ると、むむむっ!?
第3区走者の選手とは別の人が待っていたのです!!!
そのまま襷を繋ぎましたが、このランナーいつもの癖で「アラヨット!」と声を上げて追い抜いていったので人力車夫だっ!と、発覚したのです。(笑)
事件と呼ばれるくらいなので笑い事ではないのでしょうけど、なんだかネタのような面白い話ですよね。
でも、公式記録は取り消されることなく、エントリーしていたランナー名での記載でオッケーだったようです。
日本大学は、不祥事の責任を第7回大会参加を辞退する形で取りました。
人力車夫からしたら脚力を誇示するチャンスだったかもしれませんね。
まぁ目的は各々でちがいますが。。。
駅伝に出るために形式上「専門部夜間部」に学籍を置く者がいたというくらい、長距離の速い人を探して選手に仕立て上げるというのは、各大学でされていたことで、箱根駅伝を始めた頃はそう珍しくない時代でした。
その頃、早稲田大学競走部の主将だった河野一郎が、この状況に対しこんな主張をしていました。
「新聞、牛乳配達し、夜間に通学している学生は、収入を得ているのでプロだ!」
最終的に関係者の投票に持ち込み、1923年(大正12年)第4回大会~夜間部学生の出場を禁じることになりました。
で、ここで起きたのが、純粋に「替え玉」(学籍を持たない人)をした事件です。
なお、大日本体育協会は、1920年アントワープオリンピック国内予選参加者に車夫、郵便配達夫、魚屋、挽子などは「職業競技者」から排除されました。
1922年、大日本体育協会のアマチュア規定自体もこれに準じた内容となりました。
初めは何にもないところからのスタートでしたが、こうやってルールができてきたんだなぁ。って感じます。
しかも選手の一人、河野一郎の主張から生まれたなんて、なんかすごいですね!
河野一郎はスポーツを愛し一生懸命懸命取り組んでいたことが感じ取れます。
そして彼は箱根駅伝に出場だけなく、総合優勝も経験されています。
田畑政治とは良きライバルで、時に励まし合い互いに向上していったのですが、報道の無力さに痛感し、このあと政界の道へ進むことになります。
そして、河野一郎は副総理&オリンピック担当大臣へ!
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
では、簡単に河野一郎氏の経歴を振り返ってみたいと思います。
1923年(大正12年)早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
朝日新聞社に入社。
1931年(昭和6年)犬養毅内閣の山本悌二郎農林大臣の秘書官になり、1932年(昭和7年)第18回衆議院議員総選挙に神奈川3区から出馬。
そして当選も果たす。
当選後、立憲政友会に所属。
それから政治家人生がスタートし、政治家としても活躍していくのです。
素晴らしい職歴の数々、是非ご紹介したいところですが、書ききれないくらいたくさんあるので、1961年代までワープしますね。
1961年(昭和36年)7月 内閣改造で農林大臣として入閣しました。
1962年(昭和37年)7月 内閣改造では建設大臣として入閣。
東京オリンピックに向け道路 & 施設の整備を、躊躇することなく的確に。
そしてテキパキと進めていきました。
1963年(昭和38年)7月15日の朝、河野一郎邸焼き討ち事件が発生。
大物右翼と呼ばれる野村秋介は松野卓夫と共に、神奈川県平塚市の河野一郎(当時は建設大臣)私邸に侵入し、応接間にガソリンをまき点火。
新築したばかりだった木造平屋建て(一部二階建て)251平米の建物は全焼しました。
反抗動機は「予てから、河野大臣が自民党内の派閥抗争を激化させているので、反省を求める為にやった。」と供述しています。
事件発生当日、河野一郎は名神高速道路の開通式に出席の為、関西に出張中。
野村が河野の秘書・紫藤研一らに拳銃で脅迫。
家人全員、家の外に逃がした後で、ガソリンをまいて点火したそう。
なので全員無事でした。
1964年(昭和39年)7月 第三次池田内閣の時代、河野一郎は副総理。
そして、東京オリンピック担当の国務大臣に横滑りしました。
この人事発表の時に河野一郎は
「オリンピックについては建設大臣のときにやるべきことはやった。」
「あとは文部大臣の管轄ではないのか」
とあまり歓迎しない反応を新聞記者に示しています。
1964年10月 東京オリンピック終了と同時に、池田総理が退陣表明しました。(病の為。)
河野一郎は、後継総裁候補の一人では?と擬せられましたが、池田の指名で後継総裁は佐藤栄作に落ち着きました。
1964年第1次佐藤内閣(11月9日発足)で河野一郎は、副総理兼体育振興のスポーツ担当大臣を務めました。
そして1965年(昭和40年)6月3日 内閣改造では、残留を拒否。
何かを感じたのでしょうか。。。
1ヶ月後の7月8日、大動脈瘤破裂のため急死。
67歳。
河野一郎は、「飯は外で自分より偉そうな奴と食うものだ」と名言を残しています。
もし、財界四天王の邪魔がなければ内閣総理大臣になれた!と言われる程の実力者でした。
志が高いお人だったのでしょうね。
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