日本が発祥国のスポーツといったら、やっぱり相撲が浮かびますよね。
他には?と聞かれたら、柔道とか剣道とか軟式野球みたいなところが浮かぶのでは?
さて、大河ドラマ『いだてん』では、駅伝が登場しますが、その駅伝も実は日本で生まれたスポーツの一つなのです。
どのようにして誕生したのか気になりますね。
発案は土岐善麿(とき ぜんまろ)という人ですが、聞いたことがあるような…。
駅伝の名付け親で有名なのは武田千代三郎でしたよねぇ~。
そして、吉岡信敬…
あれ…。!?
大河ドラマ『いだてん』では、土岐善麿が発案して相談されて決定するまでの道のりに、早稲田大学応援隊長の通称「虎鬚彌次将軍」こと吉岡信敬が登場するっぽいのです。
吉岡信敬は実在する人物なので、きっと見ている人にわかりやすく少し脚色されているのでは?と思います。
では早速、駅伝誕生の知られざる誕生ヒストリーを見ていきたいと思います。
目次
読売新聞記者 土岐善麿(とき ぜんまろ)とは?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
土岐善麿(とき ぜんまろ)は、明治18年6月8日、東京都浅草の真宗大谷派の寺院等光寺に(土岐善静の次男として)誕生しました。
明治〜昭和を代表する歌人です。
善麿の父は、僧侶で連歌に造詣 ぞうけい(知識が広く、すぐれていること)が深く、善麿はその影響を受け、中学時代には歌人・金子薫園主催の「白菊会」に参加。
早稲田大学に進学後、若山牧水と作歌にも取り組んでいます。
1908年 卒業後、読売新聞に入社。
社会部の記者として活動しながら創作活動を続け、1910年初歌集「NAKIWARAI」を「哀果(あいか)」の号で出版。
※「NAKIWARAI」は、当時の社会の関心を織り交ぜてある内容の歌集です。
ローマ字は一般に広まりつつありましたが、それをタイトルにいれるというのは、当時としてはかなり異色。
しかし、この歌集の評判は上々で、朝日新聞で働いていた石川啄木の目にも止まり、これをきっかけに親交をもつ事になり、意気投合します。
そして、雑誌「樹木と果実」の創刊を計画しますが、石川啄木は1912年4月13日に26歳という若さで亡くなってしまいます。
石川啄木の葬儀は善麿の実家、浅草の等光寺で行われました。
善麿は、石川啄木亡き後の遺族を支援しながら、遺稿をまとめ「悲しき玩具」を世に送り出しました。
そして、1912年「黄昏に」を発表。
善麿は、創作活動を続けながら仕事もきちんとこなし、この時、社会部部長に就任しています。
明治維新後、都が東京に移ってから50周年祝賀行事が計画されます。
その主催が読売新聞社でした。
日本中が盛り上がるには何をすべきか…?と考え、京都〜東京の「東海道五十三次を辿るレース」を発案します。
そうして「東海道駅伝徒歩競走」が開催され、大成功!
大成功したのはよかったのですが、予想以上にお金がかかってしまって、責任を問われ…。
結局、土岐善麿は、読売新聞社を退社する事になるのです。
そして1918年、土岐善麿は東京朝日新聞社に転職。
第一次世界大戦の反省から、
・国際協調。
・軍縮。
が叫ばれるようになり、1929年世界恐慌以降国の雰囲気が一変。
土岐善麿は「黄昏に」の頃から社会主義的な思想に触れていて、社会意識に目覚めた自由主義的知識人といった趣があり、批判を受けるようになります。
1940年、歌集「六月」を出版。
そして善麿は、朝日新聞社を退社します。
戦争中は沈黙することを余儀なくされ、田安宗武の研究に取り組みました。
1945年 日本敗戦。
戦後「田安宗武」で、土岐善麿は学士院賞を受賞します。
そして早稲田大学教授に就任。
明治―大正ー昭和と、激動の時代を生きた土岐善麿。
1980年 心不全で亡くなりました。
94歳でした。
時代の流れの中で感じたことを歌集にしてきただけでなく、他にも古典研究などもされています。
身近なところでいうと、全国の小中学校を中心に校歌を作詞されています。
その数、およそ100校!
あまり知らない人でも、身近なことですごい人だったことがわかると、なんだかテンションあがったりするものだなぁと思いますね。
東海道五十三次を辿る駅伝誕生
「駅伝」が日本が発祥国だとご存知の方は多いと思いますが、日本のどこから始まったかはご存知ですか?
その始まりは100年程前。。。
1917(大正6)年4月27日。
3日間かけ実施された東西対抗、京都ー東京間昼夜兼行「東海道五十三次関東関西対抗駅伝徒歩競争」が行われました。
これがつまり、日本初の「駅伝」となります。
関東VS関西の対抗戦で、この時のコースは京都・三条大橋~東京・上野不忍池まで516㎞を23区間に分けて行われました。
江戸時代の東海道五十三次における伝馬制からヒントを得たと言われています。
この時代は街灯などなかったので、夜は選手を大集団で囲み、手にカンテラや懐中電灯を持ってコースを明るく照らし、大きな川には橋がない場所もあり、渡し船で選手は運んだとか。
この駅伝が評判となって、3年後の1920(大正9)年、第1回箱根駅伝(正式名・東京箱根間往復大学駅伝競走)開催へと繋がっていくのですが、おそらく駅伝のきっかけとなったのでは?と思われる出会いがありました。
それは、遡ること1919年10月、上野駅。
汽車に乗り合わせた3人の人物こそが駅伝の誕生のきっかけとなったのです。
その人物とは。。。
・「日本マラソン界の父」と呼ばれた金栗四三。
・出口林次郎と札幌ー東京間(約830km)を22日で走破の実績をもつ沢田英一。
・東京高等師範学校体育課教授で、1924年パリオリンピックに十種競技代表選手として出場した野口源三郎。
彼らは鴻巣の小学校の運動会の審判員として招待され、向かう車中で出会います。
この時に金栗四三は「オリンピックで戦力となる長距離ランナーを育てるには駅伝競走が最適!」と熱弁。
と言っても内心は「下関ー東京間を、秋葉祐之(東京高等師範学校)と走破したし、日本はもう走り尽くしたなぁ。」と思っていました。
それは、沢田英一も同じく、札幌~東京間を既に走破していたのです。
で、そこで出た案は「アメリカ大陸横断駅伝」。
コースは…。
・サンフランシスコを出発。
↓
・アリゾナの砂漠越える。
↓
・ロッキー山脈越える。
↓
・アメリカ中部農村地帯走り抜ける。
↓
・ニューヨークへ!
と、いったスケールの大きい案。
ただの思いつきのようですが、これを実現すべく、3人は行動にすぐに移しました。
・報知新聞を説得。(陸上競技に大変理解があった。)
・資金の調達を試みる。
そして、東京都内の大学や専門学校の代表を集め選考会実施計画を協議。
「アメリカ横断駅伝」というスケールの大きさに驚きながらも皆、意義なし。満場一致で賛成でした。
そして駅伝が実現!
翌年の2月、出場選手選考会を開催することになりました。
と、ここで問題が…。
10人の長距離ランナーを揃えるのが難しい学校が多く、当初参加予定は13校→最終的に参加したのは
・早稲田大学
・慶應大学
・明治大学
・東京高等師範学校
の4校だけでした。
で、次に出てきた問題は、どこを走る?といった、いわゆるコース決めです。
最終目的をアメリカ大陸横断と考えると、アメリカ大陸には、
・険しい山脈地帯。
・砂漠。
などがあり、厳しい状況の中で、走ることが予想されるため、予選のコース決めはとても難航しました。
◎ 東京ー水戸間。
→平坦すぎる。NG!
◎ 東京ー日光間。
→片道コースになるので、交通の利便性が悪い。ボツ!
◎ 東京ー箱根間。
→交通の利便性。いいね👍
→箱根の山登りの勇壮さ。いいね👍
→往復コースにできる。いいね👍
と、いうことでコースは東京ー箱根間、東海道往復ルートに決定!
そして、1920年2月14日いよいよスタート。
スタートの号砲は、金栗四三。
箱根駅伝の歴史はここから幕をあげたのです!
それはそうと、アメリカ大陸横断は?というと・・・残念ながら実現にはならず…。
ですが、彼らの情熱は箱根駅伝に生き続け、今では正月恒例の国民的行事になりました。
アメリカ横断は実現しませんでしたが、結果、良かった様に思われる一方で、箱根駅伝の準備に注力するようになった分、マラソン、トラック競技の強化が後回しになってる・・・とか、箱根駅伝が選手強化の弊害をもたらしている・・・とかって言われる一面もあります。
元々駅伝は、長距離選手の強化をめざしていたので、まぁ皮肉な話ではありますね。。。
駅伝大会の開催に向け、尽力した金栗四三の功績が讃えられ、2004年の箱根駅伝より、最優秀選手に「金栗四三杯」が贈呈されています。
そうして「東海道五十三次関東関西対抗駅伝競争」にて、「駅伝」の名称が世界で初めて使われましたが、名づけ親は、当時大日本体育協会副会長、神宮皇學館館長武田千代三郎。
駅伝を発案した生みの親は土岐善麿。
駅伝開催に尽力した育て(温めた)金栗四三。
駅伝のみならずですが、たくさんの人の繋がりが生み出していたのですね。
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