人見絹枝とは、日本女子陸上で初のオリンピック選手となった人物でありメダリストでもあります。
今回『いだてん』で、人見絹江役は世界的ダンサーの菅原小春さんが演じます!
当時オリンピックには、女子の参加は認められていませんでした。
現在では、普通に男女ともオリンピックに出場しているので、あまりピンとこない方もいるかもしれませんが、そんな大変な時代に、初めてオリンピックに出場し、メダルを手にしたのが人見絹枝。
それはそれは大変苦労されたのではないか。と思います。
女子陸上初のオリンピック選手の人生とは、どのようなものだったのでしょうね。
目次
人見絹江役を菅原小春が演じる!
画像引用元:https://matome.naver.jp/odai/2143550572163999001/2143551037466017603
人見絹枝役を演じるのは、世界で活躍しているダンサー。
菅原小春さんです。
菅原小春さんは、2018年紅白歌合戦で、米津玄師さんの「Lemon」の時に踊っていた方です。
はっきりとダンサーの顔まで覚えていない方は多いと思いますが、あの、幻想的な素晴らしいダンスは印象に残っているのではないでしょうか。
菅原小春さんは、10歳からダンスを始めて数々の賞を受賞している実力者。
高校卒業後、ロサンゼルスで独自のダンスを生み出し、
・NIKEのキャンペーン。
・国内外のアーティストとのコラボレーション。
・振り付け。
・バックダンサー。
・世界的な雑誌にも掲載。
といった、日本を拠点にヨーロッパ、アジアなど、世界中でダンスを教える有名なダンサーです。
ちなみに、人見絹枝の当時の身長は約170cm。
体重は約56kg。
スタイリッシュで、羨ましい~。
でも当時の女性は背の低い、いわゆる小柄な人が多かったので、人見絹枝は自分の体型はコンプレックスだったとか。。。
菅原小春さんの身長→170㎝。
人見絹枝さんと一緒です!
実在した役柄を演じるに当たり、見た目って大事ですよね。
ここポイント高いです!
人見絹枝さんは二階堂トクヨが創立した二階堂塾(今の東京女子体育大学)で、陸上競技で活躍するのですが、二階堂塾は体育でダンスの授業があるので、菅原小春さんのダンスが見られるのは楽しみですね。
女子初のオリンピック選手人見絹江とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
人見絹枝は陸上競技が得意で、
・100m&200m。
・走り幅跳び。
の世界記録を塗り替えました。
・やり投げ。
・走高跳。
・円盤投げ。
など、他の種目でも記録を残す女子スポーツ界の先駆者!
三島弥彦みたいですね!
では、人見絹枝のことを見ていきましょう。
人見絹枝は、1907年 明治40年に岡山県御津郡で生まれのちに、「紅い稲妻」と呼ばれたアスリートです。
女子陸上100m、200m、走幅跳の世界記録保持者!
すごいですね!
人見絹江の生い立ち
子どもの頃の人見絹枝はとても活動的で、文章を書いたり短歌を詠んだりするのが得意な女の子でした。
岡山県高等女学校に入学すると、テニス部で選手として活躍し、その後、陸上選手となりました。
高等女学校4年の時、岡山県女子体育大会に出場。
走幅跳で優勝しました!
この時の跳躍距離は、なんと!日本記録越え!
その後、二階堂体操塾(現在の日本女子体育大学)に入学。
たくさんの大会に出場し、日本記録を次々に出していきます。
となると、みんなに讃えてもらったのでは。。。?と、想像しちゃうところですが、当時、女の人が足を出すのは、はしたない。
という考えが一般的だったのです。
陸上のユニホームは短パンで競技を行うので、周囲の視線は冷たく、批判の手紙が大量に送られてきたそうです。
頑張っているのに、辛いですよね。
そしてそれは、人見絹江以外の女性アスリートも同じ。
耐えきれずに断念した方もいたとか…。
難しい時代だったことがわかりますね。
金栗四三さんもそうでしたが、新しい道の開拓者の苦労は並ではないですよね。
聞いているだけでも大変なのに、実際にそれを体験すると思うと、逃げ出したくなります。
この偏見&重圧に耐え結果を出した人見絹枝さんは本当にすごい!尊敬します。
そして、卒業後は大阪の新聞社に入社。
新聞社で働けるなんて、頭も良かったのでしょうね。
スポーツもできてまさに文武両道。
かっこよすぎ!
1928年 アムステルダムオリンピックに出場。
これが、日本女子選手初参加のオリンピックです。
このオリンピックで人見絹枝さんは、
・女子の個人種目全て。
・100m&800m。
・円盤投。
・走高跳。
にエントリー!
身体能力ハンパないですよね!
こんなに出場できるのは羨ましく思いますが、人見絹枝さん的には、メダルの獲得を目標にしていたので100mに絞りたかったそうです。
実は、人見絹枝さん。
800m走った事がなかったからです。
で、結果は100mの予選は1着通過。
準決勝で4着。
残念ながら決勝は逃しました。
悔しかったでしょうね。
「だから一本に絞りたかったのにーっ!」と心のなかで張り裂ける気持ちが込み上げてきたのでは?なんて想像します。
そして、欠場も考えた800m。
結果は驚きの2位!
銀メダル獲得!
走ったこともないのに「あっぱれ!」ですよね。
この時、1位のドイツのラトケ選手と2位の人見絹枝さんは、ゴールと同時に気を失い倒れ込みました。
まさに全力。
過酷なレースだったことがわかります。
ここまで自分を追いつめて頑張れたのはなぜだったのでしょう。
人見絹江の原動力の源とは?
アムステルダムオリンピック出発時、見送りに来ていた一般男性に「金メダルを取らなければ生きて帰ってくるな」と声をかけられた。という一説もあります。
これは、当時の人の考え方が現れていますよね。
・女性は足を出すのはNG。はしたない!
・女性が走るのはしたない。NG!
けど、出場するなら絶対に金メダルは取れよ!ってこと。。。
はいっ?めちゃくちゃじゃ~ん!
って、突っ込みたくなりますよね。
偏見 & 重圧が想像以上。
他の同じ女子メダリストも同じように苦しみに耐えていたというので、この時代に出場した女性は本当に大変だったのだと改めて思います。
そして、ロサンゼルスオリンピックで銀メダルを獲得し帰国後、祝賀会がありました。
そこでは、東京市長・永田秀次郎氏に「なぜ君は金メダルを取らなかったのか。0.1秒差ではないか。無念でたまらない」
と言われたそうです。
パワハラ発言!!
今の時代だったらありえませんよね!
その後に彼女に届く手紙の内容もこういったものばかりだったそうです。
聞いているだけで、歯がゆくて、いぃ~~~っ!ってなりますね。
人見絹江・人生の幕が閉じる
そんな人見絹枝さんの残された名言がこちら。
「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない」
凄くて強い心の内を訴えた内容ですが、今世界で日本女子選手が活躍しています。
先陣を切った人見絹枝さんたちがいたからなのだと、感じますよね。
その後人見絹江は、アムステルダムオリンピック後、講演会などで多忙になります。
そして、練習したり競技に出場したりできる時間が取れなくなり、だんだん成績も振わず…。
しかし世間は、前よりいい成果を要求していきます。
そんな中、1930年5月~9月の間、内外合計8つの大会に出場。
過密スケジュールをこなし、雨でも競技に出場。
新聞社の仕事 & 援助してくださった方への訪問 & 国際大会出場…。
過密なスケジュール & 重圧の中、競技大会に出場を続けた結果、人見絹枝さんは体調を崩し倒れて大阪の病院に入院したのです。
その後、1931年8月2日・・・
24歳という若さで亡くなりました。
肋膜炎から肺炎を併発したのが原因でした。
奇しくもこの8月2日は3年前のアムステルダムオリンピック800mで銀メダルを獲った日でした。
ちなみに戦争中は、メダル & トロフィーといった金属類は、全て供出されました。
オリンピックの銀メダルもそれに当てはまるので、残されていないと思われていましたが…。
それから随分たった2000年のある日、寝具の中に隠すようにしまってあるのが発見されました。
人見絹枝さんはオリンピックで結果を残した他に、全国高校野球大会で、入場の時に高校名のプラカードを掲げること。や、校歌の斉唱・校旗を揚げること。などを提案した人なんだそうです。
チェコのプラハには、日本女子初のメダリスト・人見絹枝さんの姿をかたどった記念碑があります。
これは、プラハの国際大会で活躍した人見絹枝さんの功績を称えて、チェコスロヴァキアの時代に、プラハの方々が建ててくださった記念碑だそうです。
そんな素晴らしい活躍をした人見絹枝さんのお墓は、青森県八戸市の本覚寺にありますが、チェコ駐日大使がそのお墓をお参りされたこともあるそうです。
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