日本に初めてバスケットボール & バレーボールをもたらした大森兵蔵と妻のアニー。
今回、2019年大河ドラマ『いだてん』に登場します!
大森兵蔵は、金栗四三と三島弥彦が日本人として初めてオリンピックに出場するストックホルムへ監督として一緒に旅立ちます。
もちろん、妻のアニー(安仁子)も同行します。
アニーは、四三たちの海外でのマナーや通訳の手助けをする為です。
アニーと大森兵蔵は国際結婚。
昔の国際結婚は、現代よりもまだまだ珍しい時代です。
ストックホルムオリンピックの監督だった大森兵蔵と、アニー(安仁子)は、いつ・どのように出会い結ばれたのでしょうか。。。
そんな二人の愛溢れる美しき生涯に迫りたいと思います。
アニー役を演じるのは、シャーロット・ケイト・フォックスさんですが、シャーロット・ケイと・フォックスさんといえば、朝の連続テレビ小説『マッサン』のヒロイン役を演じていましたね。
とっても綺麗な方なので、記憶に残っている人も多いはず!
そして、なんと!
大森兵蔵役は竹野内豊さん。
ビジュアル美し過ぎやしませんかっ?!
あぁ~ドラマ楽しみぃ~。
目次
大森兵蔵と妻のアニー(安仁子)とは
大森兵蔵 画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
アニー(本名はアニー・シェプリー)は、安政3年(1856)12月7日、アメリカ・ミネソタ州にあるシェプリー家で生まれました。
アニーが生まれた家は元々、イギリス → アメリカに来た開拓民。
そして、とても裕福だったそうです。
幼い頃の夢は画家になることでした。
しかし17歳の頃、父を亡くし、一度夢を断念します。
その後従兄弟の支援もあり、なんとかボストン美術館大学へ進学する事が出来たのでした。
大学では、アニーの才能は高く評価され、ますます上達していきます。
絵の才能を認められたアニーは、翌年にニューヨークで絵の教師となります。
そうしてアニーは、画家として生計も立てれるほどになり、アメリカのコネチカット州で家を購入します。
それからアニーは、ますます画家として、絵画の制作に没頭していくようになるのです。
さて、絵画制作に没頭するという事は、家の家事などは、当然おろそかになってしまいますよね。
そこで、アニーはハウスキーパー(家政婦)を雇う事を思いつきます。
若く、テキパキと家事をこなしてくれる若者が良いと思ったのでしょう。
アニーがハウスキーパーの募集をかけたのは、国際YMCAトレーニングスクール(現在のスプリングフィールド大学)でした。
さて、一方の大森兵蔵ですが、明治9年(1876)岡山県で生まれました。
兵蔵は、東京高等商業高校(現在の一橋大学)を経て、アメリカのスタンフォード大学に留学します。
そこで、アメリカ人との体格の差に驚いた大森兵蔵は、体格向上の為スタンフォード大学を中退。
国際YMCAトレーニングスクール(現在のスプリングフィールド大学)で専門的なスポーツ知識を学ぶようになります。
そんな頃にアニーがハウスキーパーを募集したのですね。。。
アニーがハウスキーパーを募集した時、大森兵蔵は30歳。
そして、アニー・シェプリーは49歳の時でした。
大森兵蔵と妻のアニー(安仁子)の出会い
アニーが出した、ハウスキーパーの募集に大森兵蔵が応募します。
そして、面接を受けると大森兵蔵は、即合格します。
そうして夏休みの間だけ雇われることとなりますが、そもそも生まれた国が違うので、大森兵蔵が作った食事はアニーの口には合わず…。
雇われてから2日後には、アニーが自分で料理をするようになっていたのでした。
頑張りたくても、結局、料理が口に合わないのですから、大森兵蔵の気持ちは複雑ですよね。。。
思い悩んだ挙げ句、大森兵蔵は『家政婦を辞めさせて欲しい。』とアニーに申し出ましたが、アニーはそれを了承せず、料理人は新たに雇って、大森兵蔵を使用人として雇い続けました。
どうやらアニーは最初から大森兵蔵を気に入っていたようだったのです。
そしていつしか2人は惹かれあうように…。
そうしてとうとう夏休みが明け、雇用期間が終わる事になります。
その後2人は、文通をする関係になります。
文通を通じてお互いますます惹かれ合い、そして付き合うようになったのでした。
そんな2人が結婚を意識し始めると・・
・国籍の問題。
・年齢差問題。
大森兵蔵の実家は、アメリカ国籍のアニー・シェプリーとの国際結婚に猛反対。
乗り越えなければならない問題がたくさんありましたが、二人は愛の力で乗り越え、明治40年(1907)10月1日アメリカで結婚式を挙げました。
アニーが日本人と結婚することは、地元の新聞で報じられたそうです。
当時の国際結婚は珍しいという事もありましたが、アニーはお嬢様ですからね。。。
新聞に報じられたという位ですから、どれだけの名門の令嬢であったかがわかりますね。
大森兵蔵は31歳。
アニー・シェプリーは50歳の時でした。
大森夫婦がオリンピックに関わる!
結婚して、晴れて夫婦となった二人は、明治44年(1911)日本に渡り、アニーは帰化しました。
自国の国籍を捨て、他国の国籍を得て他国民となることは、相当な決意がいることですよね。
アニーの兵蔵に対する愛の大きさを感じますね。
翌年明治41年(1908)二人は日本に帰国。
日本に帰った兵蔵には、
・アメリカ留学で学んだ知識を日本で伝えたい。
・日本人の体格の向上も目指したい。
という夢がありました。
アニーは兵蔵の思いを理解し、応援することを決意します。
そして帰国後、大森兵蔵は東京 YMCA に就職。
そこで大森兵蔵は、体育指導主事となります。
そうして、バスケットボール & バレーボールを初めて日本に伝えた人物となったのです。
日本人の体格向上には、幼少期からの運動が必要!と考えた兵蔵は、日本の学校に体育館やプールの建設を計画します。
しかしその計画自体に批判が集中します。
理由としては、予算がない事と、身体的鍛錬は軍隊で行われるもの。といった内容でした。
そういった事もあり、大森兵蔵は明治42年(1909)、わずか1年ほどで東京 YMCA の体育指導主事を辞めることになりました。
そして、明治44年(1911)兵蔵とアニーは、有志の夫人たちを集め、有隣園(児童福祉施設)を設立します。
その有隣園というのは、
・授産所
・幼稚園
・図書館
などを備えた複合施設です。
まずは子どもを指導していく事に重点を置き、後に保育園も取り入れられるようになります。
明治44年(1911)、結婚から四年経った頃、やっと大森兵蔵の両親はアニー・シェプリーとの結婚を認めてくれました。
そして、アニー・シェプリーは「大森安仁子」と名乗り始めました。
明治44年(1911)、ストックホルムオリンピックの参加に伴い、大森兵蔵は大日本体育協会(現日本体育協会)を設立します。
そこで兵蔵は理事長となります。
オリンピック選手となった、マラソンの金栗四三と短距離走者の三島弥彦は、海外でのマナーなどもわかりません。
それを教えたのがアニーでした。
日本の監督となった兵蔵を支えるためレース以外の面で、(言葉やマナーなど。)アニーは貢献しました。
兵蔵が亡くなった後のアニーは?
いよいよストックホルムオリンピック!
ですが、ストックホルムまでは、船 + 鉄道 → 17日間!かなり遠く、想像しているよりもキツかったようです。
その時、兵蔵は結核を患っていました。
病状が進行していて、オリンピック中は寝たきり状態で、とても日本に帰ることはできませんでした。
帰国途中、アニーの親戚に会いにアメリカに渡った時には、兵蔵の病状は更に悪化し、残念ながら亡くなってしまいました。
兵蔵には、私財で設立した児童福祉施設(有隣園)があったので、アニーは兵蔵亡き後も、日本で暮らすことを決意。
兵蔵の意志を受け継ぎ、有隣園の運営を行っていくのです。
この時、世の中は戦争中で、相手は自分が生まれた国。
夫が日本人、そして自分自身は帰化したとはいえ、日本に残るのは相当の覚悟が要りますよね。
なかなかできることではないですよね。
兵蔵への愛の深さが伝わってきます。
戦時中は反米意識から運営が困難になることもありましたが、昭和15年にアニーの社会貢献は表彰される事となったのでした。
その翌年の昭和16年(1941年)
アニーは85歳で亡くなりました。
兵蔵が亡くなった後、アニーは黒い服ばかり着て喪に服したそうです。
夫を敬い続けたアニーって、本当に素敵な女性ですよね。
【いだてん】再放送日と過去の大河ドラマをもう一度観たい方必見!