大河ドラマ『いだてん』に登場する人物の一人、三島通庸(みしま みちつね)

 

三島通庸は薩摩出身で、精忠組の一人。

そして、あの寺田屋事件にも関与しています。

 

藩主・島津忠義から人馬奉行に抜擢されたり、戊辰戦争でも活躍したり、藩政改革に参加した時の業績が認められ、新政府に出仕しました。

 

で、この三島通庸がなぜ今回のドラマに登場するのかというと、

それは、日本初のオリンピック選手・三島弥彦と関係があるからです…。

 

西郷どん』を見ていた人は、ドラマの歴史に重なりや繋がりがあると、何だか続きを見ている気分になりますよね。

 

さぁ。どのような関係があるのか、妻の和歌子・息子の弥太郎も一緒に見ていきましょう!

楽しみ。楽しみ。(^^)

 

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目次

薩摩藩出身の三島通庸は西郷隆盛とは大違い?

 

薩摩藩出身の三島通庸は西郷隆盛とは大違い?

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

薩摩藩出身の、歴史上の有名な人物はたくさんいます。

その中でも未だに英雄で人々を魅力し続けファンも多いのが、西郷隆盛ですよね。

 

なので薩摩藩出身というだけで、どうしても西郷隆盛と比べられてしまいます。

三島通庸もその中の一人です。

 

三島通庸は西郷隆盛に比べ、庶民からあまり好かれてなかったようなのです。

とはいっても、三島通庸も数々の功績を残し、活躍しているのになぜなのでしょうか。

 

では、三島通庸を箇条書きで簡単にご紹介しますと…。

 

● 三島通庸は藩の鼓指南役の家柄の三島通純の長男として誕生する。

● 伊地知正治から三示現流剣術と兵学を学ぶ。

● 精忠組の一員として寺田屋事件に関与。

● 謹慎を命じられた後、西郷隆盛に取り立てられる。

● 藩主島津忠義から人馬奉行に抜擢。

● 戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いる活躍をした。

● 藩政改革に参加。

● 民事奉行、日向都城の地頭など務める。

→ 業績が認められ、大久保利通の計らいで新政府に出仕。

 

● 明治5年(1871年)東京府参事。

● 銀座煉瓦街建設の大任を果たす。

→ 後に、教部大丞。

● 明治7年(1874年)酒田県令(現在の山形県酒田市など旧庄内藩を所管)。

● 明治9年(1876年)〜明治15年(1882年)初代山形県令。

● 明治13年(1880年)那須野ヶ原に肇耕社(ちょうこうしゃ、後に三島農場)を開設。

● 明治15年(1882年)1月〜福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。

● 明治16年10月〜栃木県令。

● 明治17年(1884年)内務省土木局長(県令と兼任)。

● 明治18年(1885年)警視総監。

● 明治20年(1887年)5月24日、維新の功により子爵を授けられる。

 

といった感じで、三島通庸の経歴は素晴らしいようなのですが、県令就任時

 

自由党の撲滅はその一、帝政党の援助はその二、道路の開削はその三

 

と宣言しちゃってます。。。

 

民衆の事はなんとも考えていなかったんじゃないのっ?!

と、思われてもしかたありませんね。^^;

 

道路の開削の為に農民を不当に動員したことで発生した、三島通庸暗殺未遂事件もおきていますが、この時に農民を支援した自由党に対し、弾圧を加えています。

 

民衆に嫌われるのは当然っちゃ、当然ではないかと思われますね。

民の事を一番に考えてくれていた西郷隆盛とは・・・まぁ、大違いって訳ですね。

 

三島通庸は嫌われ過ぎて暗殺未遂もあった?

 

三島通庸は嫌われ過ぎて暗殺未遂もあった?

 

三島通庸は、戊辰戦争での活躍が認められ明治政府に仕えます。

そして、

・山形県令(県知事)。

・福島県令。

・栃木県令。

などの要職を歴任します。

 

その後は、警視総監を務めた人物です。

そんな三島通庸が栃木県令を務めていた頃の事です。。。

 

1884年(明治17年)9月23日。

加波山事件(かばさんじけん)と呼ばれる、栃木県令・三島通庸等の暗殺未遂事件が起きました。

加波山事件とは、民権激化事件の一つです。

 

三島通庸は、自由民権運動を厳しく弾圧していたあおりを受けて、急進的な考えを抱いた若き民権家たちから命を狙われます。

 

そして民権家たちは、三島通庸県令や集まった大臣達を爆殺する計画を立てましたが、その計画に参加していた鯉沼九八郎が誤爆したことで計画がバレて、茨城県の加波山山頂付近に立てこもりました。

 

※ 鯉沼九八郎は、爆薬調製中の事故で左手首から先を失うという誤爆事故を起こしています。

 

民権家たちは、加波山に立てこもりながらも

・「圧制政府転覆」

・「自由の魁」などの旗を掲げる

・ビラを配布。

・警察署、豪商の襲撃。

するなどして、決起を呼びかけました。

そして、警察署や豪商を襲撃したりしています。

 

実は、この加波山事件は爆発物を使った事件ということもあって、逮捕者と死刑者が沢山でいます。

そして、後の規制にも大きな影響を与えることになった事件でした。

 

三島通庸は「鬼県令」と呼ばれるほど、県令時代は反対派を押し切って、強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」と呼ばれるほどの剛腕だったようですが、ちゃんと結果を残すのでその分、大久保利通伊藤博文からの信頼は厚かったそうです。

 

相当な実力者だった、ってことは伺えます。

それでも三島通庸は、西郷隆盛とは違い、反感を買っていた人々が多かった様ですね。

 

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三島和歌子・弥太郎とは

 

三島和歌子・弥太郎とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

三島弥太郎

 

三島和歌子は日本初のオリンピック選手・三島弥彦の母です。

そして三島弥太郎もオリンピック選手・三島弥彦の兄なので、三島和歌子と親子ということになりますね。

 

三島和歌子は1845年薩摩藩士(柴山家(旧姓)下級武士。)の家に生まれます。

14歳の頃(森岡家)と結婚しましたが、兄・柴山龍五郎(薩摩藩士(尊王攘夷の志士))が寺田屋事件にも参加し、謹慎処分を受けた事を聞いた森岡家から離縁されてしまいます。

 

その後、三島通庸(みちつね)と再婚したのです。

三島通庸も寺田屋事件に参加した志士だったので、三島家と柴山家は家風が似ていたのかもしれませんね。

 

和歌子は元々、三島通庸に好意を抱いていたと言われているので、結果オーライですね。

真相ははっきりしていませんが…。

 

加波山事件が起きた後は、三島通庸が散歩に出かけると、刺客を警戒して後ろからついて行ったり、来客にも用心したり…。

とにかく和歌子は、命をかけて夫を守っていました。

 

当時、三島通庸には妾がいたようなのですが、和歌子の夫・三島通庸を必死に守っている事を思うと、純粋な夫への愛情が伝わりますね。

 

そんな愛が溢れる夫婦には、二人の子どもがいます。

一人は、日本初のオリンピック選手となる三島弥彦。

もう一人は、後に日本銀行総裁を務める三島弥太郎(みしまやたろう)です。

 

三島弥太郎

 

三島弥太郎は、1867年5月4日鹿児島城下高麗町で誕生しました。

 

下高麗町ってどっで聞いたことあるなぁ〜。と思いませんでしたかっ?

そう!

2018年大河ドラマ『西郷どん』を見ていた人はもうお気づきですよね!

大久保利通の出生地です!

 

それはさておき・・・

成長した三島弥太郎は父と東京に移り、駒場農学校(現在の東京農業大学)に入学します。

 

成績優秀だった三島弥太郎は国の援助金でアメリカ留学し、マサチューセッツ農科大学で農政学を学びます。

その後、コーネル大学大学院に入ると害虫学を学びました。(神経痛の為、中退)

 

帰国後、貴族院議員に1897年に当選します。

後、横浜正金銀行の頭取を経て

 

1913年 第8代日本銀行総裁に就任。

1914年 第一次世界大戦が勃発。

 

国際経済は大きく混乱する中、三島弥太郎は日本銀行総裁としての激務をこなしますが、終戦半年程たった後の1919年3月7日に亡くなりました。

享年51。

 

和歌子が命をかけて守り抜いた三島家。

そして、そんな母が守った三島家を引き続き、必死に守った弥太郎。

 

和歌子や弥太郎が果たした貢献は今の日本に続いています。

三島和歌子は大正13年に79歳で亡くなりました。

 

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