2018年大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』で島津久光役を演じるのは青木崇高さんです。
青木崇高さんといえば、ワイルドなイメージがあるんですけど・・・
今回演じる島津久光って、どっちかというと政治手腕も未熟で、坊っちゃん育ち!というイメージなので、青木崇高さんが演じる島津久光はどんな雰囲気になるのか、逆に楽しみですね。
目次
青木崇高が『西郷どん』に出演!
西郷隆盛を中心に描かれるドラマというと、主役の西郷隆盛はもちろん、それに幼なじみの大久保利通、この2人がかっこよく描かれるのは当たり前ですよね。
そして、二人の引き立て役みたいな立ち位置で描かれるのが、島津久光です。
そのためか、島津久光って良いイメージがない人って、結構いるんですよね。
西郷隆盛と、大久保利通の足を引っ張った人物だ。とか・・・
とにかく、西郷とはかなり敵対していましたからね~。
そりゃ、悪役の印象が強くなりますよ。
それに腹違いの優秀な兄、島津斉彬と比べられますから。
島津斉彬と比べられちゃ、久光さんも気の毒な話ですよ。
坊っちゃん育ちで、先見の目も全くなさそうなイメージですしね。(かなりヒドイ?^^;)
なのに斉彬と比べたら、西郷にとっては月とスッポン!と思うでしょうね。
兄の斉彬は ・・・ 時代を先取し、先端を走った人物
久光は ・・・ 実直に時代の安定だけを志向した人物
史上、そういうイメージはありますよね。
でも、実はここにこそ久光の凄味が隠れているのです。
久光は『俺ならできる』と、いう思いがあった上で、『兄には敵わない』と、いう客観的にかつ冷静に判断できる人物でした。
実権を握っても、あくまでも『斉彬公の遺志を継ぐ』ことに止まり、そこから先の冒険をしませんでした。
久光ほど頭がよく自信もある者が、失敗するとすれば、おそらく過信です。
久光が成功の鍵を握ったのは、『冷静に客観視し、自己の能力と役割とを見極めた上で、役割を果たしていく』といった部分です。
確かにこれに尽きると思いますが、この部分はあまり評価されていません。
政治活動が思惑通りに進まず、結果失敗した事に対し、政治手腕の未熟だ。などと、言われたのではないかと思います。
久光を知れば知るほど、魅力的で、紛れもなく幕末に絶大な影響力を与えた超一流の人物の一人だと言っていいと思います。
島津久光なくては幕末は語れない。そんな気さえします。
ただ、人とのコミニュケーションをとるのが苦手だったのか、思惑とは違う方向へながれていったり、誤解されたりと、歯がゆい結果となることも多々あった様です。
しかし、人間味に溢れた人だなぁと、感じます。
今回の西郷どんでは、個性派俳優の青木崇高さんが、島津久光を演じます。
青木さんは、島津久光を演じる事についてこうコメントしています。
「久光の数々のエピソードが人間らしく、愛しい。」
なんだか今までにない、島津久光に出会える予感がします!\(^o^)/
では、そんな青木崇高さんが演じる島津久光について、もう少し掘り下げて紹介したいと思います。
島津久光とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org
青木崇高さんが演じる島津久光とは、どのような人物なのでしょうか。
簡単に人物像を紹介すると。。。
◎ 倒幕を推し進めた薩摩藩主の父。
◎ 形式上、明治維新の最大の功労者とされた人物。
◎ 誤解を受けやすく、トラブルの中心にいることが多い人物。
◎ 良くも悪くも幕末をかき回した、ある意味キーマンだった。
◎ 類い稀な才能を持った兄・斉彬に憧れ、その背中を常に追い続け、ある意味理想に夢を抱き走り続けた人物。
◎ 西郷生涯の敵。
といった感じですね。
島津久光は、文化14(1817)年10月24日に、現在の鹿児島県鹿児島市の鹿児島城にて誕生しました。
久光の父は、10代薩摩藩主・島津斉興です。
母は側室のお由羅です。
兄の斉彬は、正室(弥姫)の子どもになるので、腹違いの兄弟になります。
兄弟は仲が良かったようですが、父・斉興が、お由羅に夢中になり、家督を久光に渡す話が出ていました。
正室の息子である斉彬に家督相続されると思っている者は斉彬派、斉興側の人間は久光派に薩摩藩は分裂し、ドロドロの御家騒動が勃発したのです。
そして、最終的には幕府が介入し、長男の斉彬が跡をとることになりました。
これが『お由羅騒動』と、呼ばれています。
それから7年後、斉彬は『次期藩主は久光息子』と遺言を残し、死去。
翌年には、斉興も死去。
そうして薩摩藩主は、久光の息子である忠義が継ぐ事となりましたが、藩主の父である久光は、薩摩藩の実質上の最高権力者『国父』と称され藩政を握ります。
久光は行動力、エネルギーに満ち溢れる人物で、薩摩藩の政治〜日本の政治にまで介入し、国父として実権を握ってから1年後には、幕政改革を理由に上洛します。
久光は中央政界に進出をはかりますが、この異例の出来事が誤解を生み、上洛を『倒幕』だと勘違いした過激な尊王攘夷派の志士たちが挙兵へと動き始めたのです。
しかし、久光の幕政改革の目的は『公武合体』。
朝廷や幕府、雄藩などが、皆で力を合わせて政治を執り行っていこうという考え方でした。
久光にとって過激志士たちの行動は、迷惑だったのです。
その中には薩摩藩士もいて、過激な志士の薩摩藩士を、薩摩藩士によって粛清するという同士討ちを命じました。
これが『寺田屋事件』です。
これにより久光は、朝廷からの信用を得ることになります。
江戸時代は『幕府<朝廷・薩摩藩』という構図へと変わっていきました。
後に久光は、『文久の改革』と呼ばれる幕政改革を幕府に命じることに成功します。
そんな絶頂の時に、久光一行の通行を妨げたという理由で薩摩藩士がイギリス人を殺傷する『生麦事件』を起こしてしまいます。
結局、幕府がイギリスへ多額の賠償金を払いましたが、薩摩藩は犯人の処刑や賠償金を拒否し、『薩英戦争』へ展開。
(戦後はイギリスと手を組み倒幕に繋がります。)
この後も、公武合体を諦めず活動していきますが、思い通りに進みません。
他にもいくつか功績のある久光ですが、国父の久光が表舞台に出てこなかったので、結果的には倒幕・明治維新を主導した薩摩の志士たちが活躍できたのでしょう。
島津久光は、幕末の動乱で西郷が慕った斉彬の遺志を継ぎ、公武合体を夢見ていた人物だったのです。
西郷と大久保は島津久光に対して意見が違った
西郷隆盛は、自分を認めてくれた斉彬を敬愛し、斉彬の片腕として政治活動をしていました。
一方、久光も兄・斉彬のことを、尊敬していました。
両者とも斉彬のことを慕っていたのに、なぜ意見が違うのか?不思議ですよね。
西郷隆盛の『生涯の敵』とまで、言われる島津久光。
さかのぼること1862年の上京計画に始まります。
すでに、西郷は藩内外に名の通った名士で、評判高かった島津斉彬の片腕として、さまざまな政治活動を成功させていました。
その頃、久光はというと身分は『家臣』です。
斉彬の遺言により我が子が藩主となりましたが、身分でいうと家臣のままです。
〝父親を家臣として扱えない〝として『藩主の父』という特殊な立ち位置に置かれます。
しかし久光が、『藩主の父』という立場になった事により、西郷と久光の亀裂が後々まで尾を引いたのではないかと思います。
久光は、事実上の実権を握ることになり、政治活動に励み始めます。
心の奥では、斉彬の目指していた政治像があって、その実現に向けて取り組み始めました。
今まで、斉彬の側で政治に参加し、色々なことを見て、経験した西郷の目には、久光の行う活動には論外なことばかり。
最大の理由は『あの時と今とは政治事情が違う』ということ。
『斉彬の計画を継ぐ』というのが、久光のPRだったみたいですが、西郷はこれに思い切り噛みつきました。
『今回リーダーは斉彬じゃなく久光。うまくいくわけがない』といった思いが先立つのです。
結果、久光は華々しい中央政界デビュー戦を西郷に貶されたことで激怒しました。
以後、両者の間を取り持とうとした大久保利通の努力も虚しく、最期まで西郷を憎み続ける事となってしまうのです。
西郷と久光は、初めから考え方や意見が食い違っていたので、対立していく運命だったのでしょう。
久光の側近となった大久保利通が仲立ちをしていたみたいですが、うまくはいかなかったようです。
西郷は、久光の側近として忠誠的に活動する大久保に対して、理解する事が出来ませんでした。
確かに、それぞれの立場から考えると、お互いの考え方に違いが出来るはすでしょう。
その立場の違いが深い溝を作ってしまったのでしょうね。
少しずつ紐解いていくと、考え方は十人十色。
人を動かすのもまた才能。と、言ったところでしょうか。
立場が変われば、見える景色も違うので、分かち合えば、意気投合できたかもしれませんね。