大河ドラマ『西郷どん』で近衛忠煕(このえただひろ)役を演じるのは、国広富之さん。

眉毛の位置にちょっとびっくりな人物ですが、この近衛忠煕は吉之助の人生にどの様な変化をもたらした人物だったのでしょう?

その半生を振り返りたいと思います。

 

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目次

国広富之が演じる近衛忠煕(このえ ただひろ)とは

 

 

ちょっと、ちょっと~!

国広富之さんっ!

 

顔こわいねんっ!

と、ツッコミたくなる画像ですが。。。(^_^;)

 

さて、気を取り直して・・・

近衛家といえば一般的な歴史ファンに『貴族の代表的存在』で知られていると思います。

 

戦国ファンの人は近衛の苗字だけきくと『織田信長と仲良しだった近衛前久さん!』を思い浮かべるかもしれません。

 

大河ドラマ『西郷どん』では、篤姫が輿入れをする前に養女になったエリート貴族です。

 

近衛忠煕は、幕末に公武合体派として活動した公卿で、近衛家は公家の中では名門中の名門。

 

忠煕は1808年、近衛基前の子として誕生しました。

母は大納言徳川宗睦の女・静子

 

近衛家は「五摂家(九条家、二条家、一条家、鷹司家、近衛家)」のひとつで、摂政・関白になれる藤原家の一派です。

 

先祖を辿ると藤原忠通まで遡れます。

なのでエリート中のエリートということです。

 

幕末公家といえば岩倉具視が有名ですが、近衛の方が格段に上になります。

そんでもって島津との結びつきが強いのです。


さて、その姻戚関係を見てみると…。

・忠煕の妻の郁姫(島津興子)が、島津斉興の養女(血縁的には妹)

・郁姫の実父は島津斉宣

・島津斉宣は、篤姫の父で今和泉島津家の当主である島津忠剛の父にもあたります。

・忠煕の妻の郁姫は篤姫の血縁上では叔母

・篤姫にとって、忠煕は叔母の夫

で、皆さんご存知の篤姫は、島津斉彬の養女になってから近衛の養女になり、徳川13代将軍・徳川家定へ輿入れしましたよね。

 

なぜこんなややこしいことをするのかというと、大名家分家の姫より大名家当主の姫の方がグレードがよくて、五摂家の姫になるとさらにグレードアップ!となるわけです。

 

将軍家へ輿入れのとき、篤姫には強力な老女が2人つきました。幾島村岡局です。

 

村岡局は長年近衛家に仕えたベテランで「清少納言の再来」とされるほど頭が切れる人物で、郁姫が既に亡くなっていたので、篤姫の養母役とされました。

 

このように篤姫周辺を固めるスタッフは、近衛家ゆかりの者たちに囲まれています。

これだけ見ても婚姻関係の深い家だということはわかりますよね。

 

なんとなく島津と近衛の結びつきの強さがわかったところで、近衛忠煕の生涯を年表で見てみたいと思います。

 

近衛忠煕(このえ ただひろ)の生涯を簡潔に紹介!

 

近衛忠煕(このえ ただひろ)の生涯を簡潔に!

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

1808年 誕生する。

1816年 従五位上、左権少将

1817年 従三位

1821年  正三位

1823年 従二位

1824年  正二位、内大臣

1834年 従一位

1847年 右大臣

1857年 左大臣

1858年 外交問題で揉めて、九条尚忠に代わって内覧となる。

 

そして近衛忠煕が歴史上で最も影響を与えたのが「戊午の密勅」。

 

戊午の密勅は、1858年幕政を批判し、改革を水戸藩に命じた秘密の命令のことをいいます。

秘密の内容は以下の3点。

 

・勅許なく「日米修好通商条約(安政五カ国条約)」に調印したことは許しがたい。説明を求める

・御三家および諸藩は、幕府に協力して公武合体の実をなすこと。幕府は攘夷推進および幕政改革を遂行すべし。

・上記2つの内容を諸藩に伝達するように、という副書

 

勅諚(勅命)を、本来は関白・九条尚忠の裁可が必要となのですが、飛ばして下賜して…。

 

つまり、必要な手続きを経ていないから秘密の命令である「密勅」と呼ばれています。

この密勅は、様々な事件を引き起こしました。

水戸藩では、密勅への対応で藩が二分化。

 

その1・密勅を重視し天皇家に忠誠を誓うか。

その2・徳川家に中世を誓うか。


そして、勝手なことを!!と井伊直弼が激怒。「安政の大獄」の引き金に。

 

【西郷どん(せごどん)】井伊直弼役を佐野史郎が演じる!安政の大獄についても解りやすく紹介!


結果、水戸は凄惨な内部抗争状態に陥る。「安政の大獄」で失脚し、内覧、左大臣を辞して出家謹慎。

翠山と号します。

 

1862年 復飾、関白内覧になります。

1863年  尊王攘夷派に排斥され、関白を辞任。

1867年 再び参朝停止

1868年 参朝を許される

1869年 麝香間祗候となる

1873年 退隠

1878年 従一位に復叙

1885年 勲一等に叙し、旭日大綬章を賜わる。

1896年 90才  長寿のため、旭日桐花大綬章を授けられる。

1898年 死去。享年91。

 

みてわかる通りの浮き沈みが細かく激しいギザギザ人生ですよね。

 

公卿というと特になんの苦労もされていないのかと思いきや、幕末ともなると色々大変だったようですね。

 

この時代、失脚するのはよくあることで、運が悪いと、暗殺されることだってありえるのに、91歳まで生き抜いた忠煕は、色々な意味ですごいっ!!ですよね。

 

あまり人から恨みをかうようなタイプではなく、温厚な方だったのか、世渡りが上手だったのか…浮き沈みの激しい生涯でしたが、明治まで生き抜いた無欲で堅実な人物だったようですね。

 

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近衛忠煕は吉之助の人生に大きな影響を与えた人物?

 

近衛忠煕は吉之助の人生に大きな影響を与えた人物?

 

時を遡ること1858(安政五)年の夏。

尊敬する斉彬が病死。

 

全てをかけて斉彬の側で活動していた吉之助は、尊敬する師を喪い心は空っぽ。

斉彬のあとを追って死のうとまで思いつめていたようです。

 

そんな時に、僧の月照に「残された者が、斉彬公の考えを受け継いで、働くのが恩に報いる道」と、諭されて、吉之助は死ぬことを思いとどまったと伝わっています。

 

時代は変わり、次第に徳川幕府打倒の風が吹き始め、危険を感じた幕府は政治に反対する者達を厳しく取り締り、死刑や牢に入れるなど徹底していきます。

 

月照も幕府の政治を変えなければならないという考えの持ち主だったので、幕府の追手に追われる身となりました。

 

当時、月照と親しかった公家の近衛忠煕は吉之助に「月照をかくまってくれないか」と頼みました。

 

吉之助は月照を迎える準備のため、ひと足さきに鹿児島に帰りましたが、薩摩藩は揺れに揺れていて、斉彬の死後の幕府を恐れる人たちの力が強く、月照を鹿児島へ連れて来て匿うことを拒み、月照を連れて日向高岡へ行くように命じました。

 

日向送りというのは表向きの言葉で、つまりは〝途中で斬り捨てる〝と言う暗黙の申し合わせ。

 

吉之助はそのことを理解していたので、師も失い、藩にも見捨てられ、絶望感はそれはそれは大きなものだったようです。

 

そして、1858(安政五)年の冬。11月16日の明け方、吉之助は、京都清水寺成就院の住職月照と一緒に死のうと、二人は抱き合ってそのまま錦江湾に飛び込みました。

月照46歳、吉之助31歳。

 

しかし、二人は助け上げられました。

吉之助はなんとか息を吹きかえしたのですが、月照は亡くなってしまいました。

 

月照は大久保利通などによって南林寺の西郷家墓地に葬られました。

現在も南洲寺の境内にあります。

 

吉之助は自分は息を吹き返し、月照だけが亡くなったことがわかるととても悲しんだそうです。

 

吉之助はその後、大久保らの同志たちと薩摩藩を動かす程の力を手に入れ、長州藩、雄藩を味方につけ、幕府を打倒し、明治維新を実現しました。

 

吉之助が一緒に死のうと思ったのは、ただ全てに絶望しただけでなく月照の人柄が備わっていたからではないでしょうか。

 

斉彬の後を追おうとしたときに月照に止められていなければ、この後の吉之助の活躍はなく、日本の歴史も大きく変わっていたことでしょう。

 

その月照に会えたのは近衛忠煕と月照が親しい間柄だったからで、近衛忠煕が吉之助の人生に変化を与えたと言っても過言ではないと思います。

 

近衛忠煕がいなければ吉之助は月照とも会わなかった

 

月照は和歌を通じて近衛忠煕と交際を持っていました。

 

月照も近衛忠煕も、物静かな性格で、お互いに気が合ったらしく親しくなっていったと言われています。

 

薩摩藩の藩主・島津斉彬の右腕として活躍していた西郷隆盛は、京都や江戸で働いていたので近衛忠煕に近い存在だった月照とも自然なかたちで出会いました。

 

とはいえ月照と吉之助の具体的な出会いのきっかけについてははっきり解っていませんが、斉彬に仕える吉之助と月照とは、ともに勤皇の志を持つ者同士として深い親交を結んだのでは、と言われています。

 

近衛忠煕と月照が親しくしていたことがきっかけで、吉之助と月照は出会うことができたのは間違いなさそうですね。

 

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