大河ドラマ『西郷どん』で、井伊直弼役を佐野史郎さんが演じます!!
井伊直弼と聞いてピンときた人も多いと思いますが、2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』の主人公・井伊直虎の親戚筋の子孫ですね。
さて、井伊直虎でのイメージとは打って変わったイメージとなるのが井伊直弼です。
なぜ、直虎とは真逆なイメージなのでしょう。。。
目次
井伊直弼役に佐野史郎!違和感なし?
余談ですが、滋賀県彦根市のマスコットキャラクターで人気の〝ひこにゃん〝の赤い兜は〝井伊の赤備え〝伝来品をモデルになっているんですって。
直虎の養子の直政は、赤備えを着て闘っていて、士気がとても高く勇敢な将だったので、〝井伊の赤鬼〝と、呼ばれていました。
その呼び名を、井伊直弼も受け継ぎますが、意味合いは少し違います。
井伊直弼は、幕末期 江戸幕府において大老を務め、開国を唱える非常に優秀な人物で したが、井伊直弼は幕末に悪名高い〝安政の大獄〝を断行した人物。とか、〝桜田門で暗殺された人物〝〝嫌われていた人物〝と、ほとんど人は答えるのではないでしょうか。
実際に、〝安政の大獄〝で過酷な処分により、多くの人から憎まれていたことから井伊直弼は〝井伊の赤鬼〝と、呼ばれていたそうです。
確かに安政の大獄は暴挙でしたが、当時の井伊直弼にも事情があったのだと思います。
冷酷な表情の裏に秘めた思いにも触れることができたら、『そうだったのかぁ〜』と、ドラマが更に面白くなりそうだなぁと思ったりします。
その、井伊直弼を演じる佐野史郎さんといえば、一番初めに思い浮かぶのが「ずっとあなたが好きだった」の冬彦さん役ではないでしょうか。
佐野史郎さんだからこそ面白かったんだと、今でも思うほど印象的でしたよね〜。
このドラマで、大ブレイクしたあとは、数えきれないほど多くの 映画、ドラマに出演され、現在でも個性派俳優の代表格として根強い人気があり、時折登場する〝怪演さ〝なども話題です。
佐野史郎さんは、表情でも演技ができるので、一点を見つめる〝素〝の表情は、井伊直弼の冷めたさを感じる雰囲気も出せるでしょうね~。
想像しただけでもなんとも、不気味。
いや・・・いい意味で。^^;
井伊直弼役は佐野史郎さんにぴったりで、違和感なし!ですよ。
バイプレーヤーとしての演技も光ること間違いなし!!やね。
井伊直弼は嫌われ者?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
さて、その佐野史郎さんが演じる井伊直弼はなぜ嫌われ者なのでしょうか。
明治維新は、現代から見ると、『安全保障の観点から国防体制の強化を図るために、幕藩体制から近代的な中央集権国家を創ることを目指した革命である。』と、いわれています。
明治維新の特徴としては、倒幕側に立っていた坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作などは、魅力溢れる人物たちであったこと。
『これは、日本人として誇りに思える事業であった。』と、後の歴史がこの革命の正しさを証明しています。
江戸時代は平和な時代でしたが、飢饉(ききん)、天災などは、数多く記録されています。
社会的な動きについては、ほとんどなかった260年間でしたが、黒船が来航し、国際社会への対応のすべを知らない幕府は右往左往します。
そして時間だけが過ぎていき、日本が激動の中を進むことになりました。
そうした中で各地では〝国のために生命を捨てても構わない〝と、いう志士が出現します。
初めは水戸黄門でお馴染み、徳川光圀の水戸藩が中心となり、勤皇思想がはやり始めました。
こうした動きは幕府にとって大変危険な思想になってきて、この流れに危機感を抱いた幕府は、いわば切り札的に登用したのが井伊直弼だったのです。
幕府の立場から見ると、井伊直弼は、危険な人物を処罰した功労者です。
しかし、現代に生きている側から見ると、とんでもない事をした権力者にさえ見えてきます。
例えば、明治維新の思想の核を作った天才軍学者、吉田松陰を処罰したのですが、なぜ彼だったのか・・・?
わかりかねます。
安政の大獄で処罰をした人数は、大名、公家、志士、町人などなど、相当な数に及んでいます。
それだけ幕府側の危機感が強かったことが伝わってきますが、少し想像しただけでも恐怖を感じます。
その結果、井伊直弼は〝桜田門外の変〝により生命を絶たれますが、直弼に同情する人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
幕府側から見た井伊直弼としての立場を考える人が少ないという事でしょうし、それだけ重い罪、と捉える人が多いという事でしょう。
それで、現代の日本人からは嫌われているのではないでしょうか。
井伊直弼といえば『安政の大獄』
『安政の大獄』という言葉は聞いたことがあるけど、なんだっけ?と、いう方も多いと思います。
学校のテストでも出るので、暗記はするものの、内容については、さらっと流されがちです。
安政の大獄は幕末の歴史上重要な事件なんです!
では、井伊直弼と安政の大獄について簡単に説明したいと思います。
安政の大獄は、江戸幕府が行った大規模な弾圧行動のことを言います。
この時のリーダーが幕府の重役 井伊直弼です。
井伊直弼が指示を出し、色々な人を捕まえて〝邪魔だから謹慎〝〝危ない思想だから処刑〝と、いった具合に弾圧を行いました。
黒船来航の後、日本は港を開いて開国し、アメリカは外交官のハリスを日本に派遣して〝貿易〝を持ちかけます。
幕府が渋っているとハリスの援軍(大砲を積んだ軍艦)がきます。
撃たれたらまずいので仕方なく、幕府は天皇に貿易の許可をもらおうとします。
幕府は天皇から政治を任されているという立場なので重要な決定の際は天皇のお許しが必要でした。
しかし、当時の孝明天皇は重度の外国嫌いで、答えはNo。
天皇の許可はもらえない。ハリスも引いてはくれない。
ここで井伊直弼は天皇のOKのないままハリスにOKの返事をして、独断で日米修好通商条約を結び、貿易を受け入れました。
その条約内容は日本にとって不利なものだったので、井伊直弼と幕府は大バッシングを浴びます。
このことがきっかけで、天皇を敬う尊王の思想と、外国人を日本から追い出そうという攘夷の思想が高まりを見せ始め、この2つが一緒になった、尊王攘夷(そんのうじょうい)の運動が広まっていきます。
そうして尊王攘夷が活発化し、ついに安政の大獄へと踏み切ります。
安政の大獄で弾圧開始。
井伊直弼は自分が先頭に立ち、激しい弾圧を始めます。
尊王攘夷の活動家たちを中心として、幕府を批判する人たちを次から次へと逮捕・処罰しました。
その数100名以上。
刑罰は、謹慎など軽いものから、斬首や切腹などの死刑までありました。
これが安政の大獄と呼ばれる事件です。
結果的に幕府はさらに大きな反感を買うことになり、特に井伊直弼は不満を集め、暗殺されます。
これを、桜田門外の変と呼びます。
この後、幕府の権威はさらに下がり、尊王攘夷の思想は少しずつ倒幕の思想へ移り変わっていきます。
さて当時、吉田松陰は〝松下村塾〝という塾を開いて、身分に関係なく学問を説きました。
この生徒達がまた、吉田松陰先生よりもさらに有名人で、高杉晋作に桂小五郎、後の総理大臣・伊藤博文らが塾生でした。
吉田松陰は井伊直弼に捕まり島流しになる予定でしたが、『私は死罪でしょ』と、自ら申告して首をはねられました。
吉田松陰は“死んで名前(志)が残るなら、いつ死んでもかまわない”と、いうような言葉を残していたそうなので、本望だったのかもしれませんが、なぜ、吉田松陰が…?と、疑問に思うところではあります。
それと、後の徳川幕府最後の将軍、一橋慶喜(徳川慶喜)も、一度は追い込まれていました。
それは、日米和親条約を結んだ直後、当時の将軍 徳川家定が亡くなり、次の将軍を誰にするかで幕府内で揉めていて、将軍候補にあがったのは、徳川家茂と一橋慶喜の2人でした。
家茂はとにかく血筋がいい少年。
慶喜は血縁は薄いですが、めちゃくちゃ優秀で評判の青年。
血筋か能力かで揉めに揉めて井伊直弼が推していた家茂が将軍になります。
慶喜派だったメンバーはどちらかというと攘夷思考。と、いうことで、井伊直弼と意見は合わない&攘夷派。つまり、邪魔な存在だったので、安政の大獄の際には慶喜派の人たちも弾圧されたのです。
井伊直弼は、許しなく貿易を始めたり、弾圧を強行するなど、悪者のように感じますよね~。
なんといいますか、現代風にいうとパワハラに少し似ているのかも。。。と思ったりしますが。^^;
しかし、日本にとっては必要なことで、幕府を守ろうとしていたのは真意なのです。
尊王攘夷運動は安政の大獄をきっかけに、激しさを増し、過激な攘夷派だった長州藩は倒幕の意志を強め、薩摩藩も幕府に不満を募らせます。
そして薩長同盟が結ばれ、本格的な倒幕や大政奉還へと時代は向かっていったのです。
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勅許というのは阿部正弘が初めて取ったもので、慣例ではありません。江戸幕府200年、天皇の許しを得て何かしたというのは、日米和親条約が初めて。天皇の許可を得て鎖国したわけでもありませんので、本来は天皇の許可を得て開国しなくてもいいのです。
安政の大獄の第一の目標は、攘夷派の弾圧です。知識人は、戦争しても敵わないことを知っていますので、開国して力をためようと考えるのが普通(坂本龍馬もそうですね)。本当に水戸に実権が渡り、アメリカと戦争をしていたら、今の日本があるか謎です。
吉田松陰は、長州藩が捕らえ、幕府に引き渡したものです。長野主繕が京都で捕らえたわけではありません。長州藩内の権力争いですね。