大河ドラマ『西郷どん』で橋本左内が信頼する福井藩主・松平慶永(春嶽)役を、名バイプレイヤーとして有名な津田寛治さんが演じます。
松平慶永(春嶽)は、島津斉彬(薩摩藩主)、山内豊信(土佐藩主)、伊達宗城(宇和島藩主)らと並び、幕末の四賢侯と称された人物で知られていますが、松平慶永(春嶽)は「世間で四賢侯と言われるが、本当に賢侯だったのは島津斉彬公お一人。到底及ばない」と語ったという、とっても控えめなエピソードが残されています。
目次
【西郷どん】津田寛治が松平慶永(春嶽)を演じる!
松平慶永(春嶽)を今回演じる津田寛治さんはどんな人?と、思った人のために、次は津田寛治さんをご紹介したいと思います。
ドラマや映画で大活躍の俳優さんなので、みなさんお顔を見たら、「あぁ〜知ってるっ!!」となると思います。
津田寛治さんは小さいときからの映画好きで、映画俳優を目指して上京しました。
アルバイトで生計を立てて小劇場系の劇団員として活動していたそうです。
色々なアルバイトしていたみたいですが、そのうちの一つで、録音スタジオ内にある喫茶店でバイトしてた時、そこにたまたま北野武さんが来店してきたそうです。
そして津田さんは、たけしさんがトイレに行った時、ついて行って、トイレ内で
「自分は役者を目指しています。北野さんの映画で使って欲しい」って、直接売りこんだそうです。
その後、北野武監督作品『ソナチネ』にて映画デビューを果たします!!
すごいっ!!
喫茶店のボーイ役なんですけど、実はこのデビューの裏には、ちょっとしたエピソードがあるんです。
その、津田さんが働いていた喫茶店のママは、津田寛治さんの事をとても応援していたそうで、たけしさんにママが
「たけしさん、ひどいじゃないですか!」
「うちの子は、1年間たけしさんの映画に出ようと思って、色々な方にプロフィールを渡したり、お願いしたりしてるのにオーディションにすら呼んでくれないんですか!」
と、涙ながらに訴えたそうです。
しばらくしてたけしさんが津田寛治さんを呼び出し、ウエイター役で起用することを、その場でスタッフに説明したそうです。
同席したスタッフは、突然の提案に唖然としたそうですが、出演が決まってママも一緒に喜んでくれたそうです。
たけしさんは今でも、津田寛治さんに会うと「お母さん、元気?」と、ママ(喫茶店)の様子を尋ねるのだそうです。
こんなに応援してくれる家族以外の人がいる津田寛治さん。
心が真っ直ぐで応援したくなる素敵な人なんでしょうね。
そんな魅力たっぷりの津田寛治さんは、デビュー以後数多くの映画やテレビドラマ、舞台、声優などなどたくさん活躍されています。
受賞歴もある俳優さんなのですが、映画の規模などには特に拘らないそうで、インディーズ作品(自主映画)などにも積極的に出演している俳優さんです。
本当に映画が好きなんだなぁと思います。
2010年代には自分で映画の監督 脚本を務めるなど、さらに活動の幅を広げているパワフルな俳優さんです。
そして極め付けは、出身が福井県なので、今回の福井藩主・松平慶永(春嶽)の役はうってつけってことですっ!!・・・と、勝手に思ってますが。(^_^;)
色々な人が演じたことのある松平慶永役ですが、津田寛治さんはどのように演じられるのか、ドラマの登場が楽しみですっ!
松平慶永(まつだいら よしなが)(春嶽しゅんがく)とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
2017年は、幕末維新150年にあたる年で色々なイベントがありましたよね。
幕末に活躍した4人の大名は四賢侯(しけんこう)と呼ばれています。
メンバーは伊達宗城、山内容堂、島津斉彬、松平春嶽ですが、今回は、その松平春嶽にスポットをあててご紹介したいと思います。
松平春嶽は、徳川吉宗の二男「宗武」を祖とする田安徳川家の当主・徳川斉匡の八男として1828年に誕生しました。
諱を「慶永(よしなが)」「春嶽(しゅんがく)」は、後に名乗った号です。
幼い頃から読書と学問に勤しんでいたようです。
慶永は伊予松山藩主の松平勝善の養子になる予定だったのですが、1838年に越前福井藩主 ・松平斉善(なりさわ)が亡くなり、後継がいなかったことから、急遽こちらの養子となりました。
そうして11歳の若さで福井藩主になりました。
この時、福井藩は90万両の借金を抱えており、何とかしようと藩政改革に乗り出すのでした。
そして松平慶永(春嶽)は、
◎ 藩士の俸禄を3年間半減。
◎ 自身の出費を5年削減。
◎ 藩校「明道館」を創設。
◎ 洋式大砲を導入。
と、軍制改革にも努め、人材育成を図り西洋式の学問を教え、身分を問わない積極的な人材登用で殖産興業政策に力を注ぎました。
若い藩主でしたが、こんな改革をやってのけたので、さすが歴史に名を残すだけの人物だったことが伺えます。
春嶽は優れた人物ならば身分を問わず面会する人で坂本龍馬にも面会したエピソードがいくつか残っています。
勝海舟への紹介状も春嶽が書いたそうで、後に龍馬は勝海舟に弟子入りしています。
土佐藩主・山内容堂に、龍馬の脱藩を赦免も頼んでくれたみたいですよ。
勝海舟が海軍操練所を開設するため多額の資金が必要になり、龍馬は調達のため春嶽を訪ねました。
そしてその旨を話し、龍馬は春嶽を説得して、5千両(11億円)を借りたそうです。
春嶽は龍馬を見込んでいたことがわかります。
春嶽は「自分には優れた才能や知恵、特別な力もない。ただ、いつも皆の言葉に耳を傾けて、良いと思われる意見に従うまでだ。」という言葉を残しています。
坂本龍馬をはじめ、横井小楠や由利公正、中根雪江、橋本左内といった優秀な人を積極的に登用した春嶽。
このことは現代でも優れたリーダー像として評価されています。
ペリーが来航した時には、春嶽は攘夷を主張しましたが、開国派に転じます。
将軍・徳川家定の後継者を巡り、徳川慶福(後の家茂)を推す大老・井伊直弼らと一橋慶喜を推す春嶽は対立します。
また、日米修好通商条約を井伊直弼が無許可で進めたことに抗議をするため江戸城に登城しますが、無断登城ということで隠居、謹慎処分となります。
それから、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると春嶽は幕政に復帰します。
政事総裁職という重役に任命され、公武合体政策を推し進めます。
しかし、一橋慶喜をはじめ、意見がなかなか合わず、やきもきします。
1867年、山内容堂、伊達宗城、島津久光らと四侯会議を開き、幕府から主導権を雄藩へ移そう!!と画策しますが、慶喜に翻弄され、果たすことはできませんでした。
そして、薩摩と長州藩が討幕へと傾き、大政奉還となるわけです。
春嶽は倒幕反対派でしたが、戊辰戦争には新政府軍として参加して、新政府で民部卿や大蔵卿を務め、1870年に退き、1890年に63歳で亡くなりました。
幕府の存続を望みながら時代の流れに翻弄され、春嶽の思い描いた結果にはなりませんでした。
聡明だからこそ、様々な葛藤があったのではないかと思います。
春嶽の思い描いた結果にはなりませんでしたが、歴史にはしっかり刻まれています。
安政の大獄により松平慶永と橋本左内は・・・?!
藩主となった松平慶永は、藩政改革の他、幕政改革にも参加しました。
1853年ペリー来航以後、幕府の力が衰えていく中で、将軍後継問題が起こります。
慶永は薩摩藩の島津斉彬らと共に、一橋慶喜を14代将軍に就任させ、幕府を建て直しを考えますが、井伊直弼が推す徳川慶福(のちの家茂)が、最終的に14代将軍となりました。
この将軍後継問題に口出ししたこと、日米修好通商条約に反対したことなどを理由に松平慶永は、井伊直弼によって謹慎させられました。
松平慶永は、有能な人材を登用した名君として知られています。
橋本左内もそのうちの一人です。
橋本左内は医者の子どもなので、当時の身分はそれほど高くないのですが、松平慶永に才能を見いだされ、幕政改革に参加することになります。
将軍後継問題の時にも、春嶽の片腕として京都で活躍しました。
このことが原因で14代将軍が徳川家茂に決まると、橋本左内は井伊直弼の安政の大獄によって捕えられ、安政6年に処刑されます。
その後、1860年桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、松平慶永は謹慎を解かれ、再び幕政改革に参加します。
しかし、幕府の衰退を止められず、1867年15代将軍の徳川慶喜(一橋慶喜)が、政権を朝廷に返上する大政奉還を行ったことで、江戸幕府は終わりを迎えます。
大政奉還は、二条城で行われました。
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