大河ドラマ『西郷どん』で、「ふき」の働く〝磯田屋〝の常連客「ヒー様」を演じるのが松田翔太さん。
この「ヒー様」が何を隠そう一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)です。
のちの日本史史上最後の将軍・徳川慶喜です。
今回は松田翔太さんが演じる、ヒー様こと一橋慶喜について紹介していきたいと思います。
目次
『西郷どん』のヒー様こと一橋慶喜とは!
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
なぜ「ヒー様」かというと、徳川慶喜は一橋家に養子にいっていたので、一橋(ひとつばし)から文字ってつけたニックネームでは?と、いわれています。
まぁ、要するに一橋だからヒー様。。。てな事なんでしょうね。
一橋慶喜は、一見遊び人。でも、実は優秀。と、いうギャップ萌えな評判の人物です。
ドラマでは松田翔太さんが演じます!
なんだか雰囲気が、これまたピッタリ!って感じですよ。
ちなみに磯田屋のふきは、借金のかたに売られた貧しい農家のお嬢さん。
助けられなくて西郷どんが号泣してましたよねぇ〜。あの子が大人になって登場します。
大人になったふきは、高梨臨さんが演じますね。
慶喜は、水戸・徳川家出身なので将軍候補になることはないのですが、一橋家に養子に入ったことで、将軍就任の可能性が一気に膨れ上がりました。
慶喜は優秀だったそうなので、将軍にするために敢えて一橋に引っ張った。。。と言うことかもしれませんね。
徳川斉昭、島津斉彬らが慶喜を将軍にしようとする一橋派、一方、井伊直弼は水戸系将軍誕生を絶対阻止したいので、敢えて紀州・徳川家の慶福を14代将軍に擁立しようと画策しました。
紀州・徳川家は、8代目将軍から準本家筋みたいになっていたので、筋としては悪くはないのですが、当時徳川三卿から将軍を出すことが慣例化していたので、一橋慶喜がちょっと有利っぽい複雑な状況。。。
しかし結果は、井伊直弼が押し切り勝ちで14代将軍は慶福に決定します。
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
そして一橋派は粛清され、安政の大獄の始まりです。
この後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、歴史は一変し、一橋派が息を吹き返しますが、この時にはすでに島津斉彬が亡くなっていて、久光の息子が藩主をしていました。
息子より実質的には権力をもっていた久光は、島津家長という何の根拠もない不思議な立場で幕政への介入を図り、一橋慶喜は将軍後見職、一橋派だった松平春嶽が政治総裁職に就く、という前例のない荒業をやってのけます。
この背景に久光の画策あり。と、言われています。
ここまでは慶喜にとって、良い感じに見える久光ですが、慶喜は久光のことを全く眼中にいれていなくて、晩年に「久光のことは好きじゃなかった」と、言っていたそうです。
幕末の京で慶喜が政治の中心にいた時も、久光に対しては冷たく、酒に酔った勢いで〝天下の愚物〝と罵って、敢えて人間関係を破壊し、久光の政治介入を阻止しました。
久光はこの侮辱をきっかけに、慶喜を支えて幕政に参加する方針から一変します。
幕府を潰して島津の天下取りに方針転換し、対立関係に。
元々は2人とも斉彬のことを慕っていたようなので、直接は仲良くなくても、同じ目的を持って進んでいたはずなのですが、慶喜は斉彬に対する気持ちで久光とは付き合っていなかったので、アシストしてもらっていても、結局、感謝どころか嫌っていたみたいですね。
久光は優秀なんですけど、人間関係を気づくのが苦手というか、誤解を受けやすいタイプで、思っていた事とは違った方向へ進んでいった様です。
それと、慶喜は久光を軽く扱いすぎたのではないかと思います。
後に、自分に大きく響いて返ってくるとは思っていなかったのではないでしょうか。
分かち合えれば合わない2人ではなかったと思うのですが…。
もし、人間関係がうまくいっていたとすれば薩摩藩の討幕方針が打ち出されることもなかったので、慶喜が久光を排除し続けたのは失策だったと言えるのではないかと思います。
では、次に慶喜の一生を凝縮して紹介していきます。
それから、久光との関係が何故悪くなったのか・・・?について掘り下げてみたいと思います。
徳川(一橋)慶喜の生涯を簡単に紹介!
徳川慶喜は江戸幕府、つまりは日本の最後の将軍です。
教科書でお馴染みの大政奉還や江戸城の明け渡しなどを行った徳川慶喜とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
簡単にまとめてみたいと思います。
徳川慶喜は水戸藩(現在の茨城県)で、1837年に水戸・徳川家の9代目藩主・徳川斉昭の7番目の男子として誕生しました。
徳川慶喜は小さい頃から賢かったそうで〝初代将軍 徳川家康と同じくらい〝と、言われるほどの才能の持ち主でもあります。
そのことは父の徳川斉昭も認めていて、長男に万が一のことがあった時は慶喜に跡を継がせようと思っていたと言われていました。
それゆえ父の他にも慶喜を次の将軍にしたいと考える人は少なくありませんでした。
では、ここからは大きなところだけ年表にまとめてみたいと思います。
1857年 20歳の時、徳川家の一族である一橋家の養子になり、一橋慶喜と名乗ります。
第十三代将軍 ・徳川家定の跡継ぎ有力候補となりますが、この時は慶喜派の人間の死により勢いを失い、井伊直弼の押し切りで第十四代将軍は徳川家茂(慶福)に決まります。
1859年 22歳。安政の大獄によって、政治の表舞台から退きますが、井伊直弼が暗殺され再び表舞台に復帰します。
1864年 27歳。禁門の変が起こり、幕府側の軍を指揮、長州藩(今の山口県)と対抗し、勝利。
1866年 29歳。十四代将軍の徳川家茂死去。
徳川十五代将軍になった慶喜は、日本の開国に積極的に取り組み、江戸幕府の再建に尽力しました。
世の中の動きはというと、薩摩藩、長州藩の倒幕派の動きが活発になってきて、江戸城(徳川家の本拠地)で、いつ戦いが起こってもおかしくない状況。
1867年 30歳。大政奉還。
徳川慶喜が幕府の持つ政権を天皇に返したことによって、倒幕派は幕府を倒す名目が無くなり、幕府へ攻撃する予定を止めることになりましたが、これは表向きの話で、実際はこの後も江戸幕府と同じような権利を徳川家が持つという予定でした。
これを知った倒幕派は〝天皇が権利を持つべきだ!!〝と、幕府に反発。
日本中を巻き込んだ戊辰戦争が起こりました。
戊辰戦争によって江戸城は明治政府に明け渡され、慶喜も明治政府へ抵抗しなかったので一命をとりとめます。
そうして徳川家も養子に継がせることで滅びることはありませんでした。
結果、大政奉還は徳川家を救ったとも言われてます。
1868年 31歳。江戸城を新政府側に明け渡したことにより、源頼朝がひらいた鎌倉幕府の世は終わりを告げ、以後、幕府制度や征夷大将軍の官職は廃止。
慶喜は日本史上最後の征夷大将軍となり、江戸を去りました。
その後の慶喜は、趣味の絵画や写真、弓道、サイクリング、手裏剣など、趣味に没頭した生活を送っていたようです。
1913年 76歳。風邪と肺炎により死去。
慶喜は日本の行く末をしっかりと考えて行動できた将軍だと思います。
特に、絶妙なタイミングでの大政奉還は、賢い慶喜だからこそだと出来た偉業だと思います。
徳川慶喜と島津久光はなぜ対立する事になったのか?
冒頭でも、一橋慶喜について紹介している通り、慶喜と島津久光は、あまり仲が良い関係ではなかった様です。
徳川慶喜は実に多くの敵に出会い、そして勝ち抜いてきたのですが、政治家人生において、特に島津久光という人物は、それはそれはやっかいな存在であったのではないかと思います。
事の発端は、島津久光が勅使随従を名目に江戸に兵を率いてやって来て、幕府に「一橋慶喜を将軍後見職に、越前・松平春嶽を政治総裁職につけろ」と要求したことです。
幕府は当然久光に好意を持つはずはありません。
こうなると必然的に薩摩にも良いイメージをもつはずもなく、『薩摩嫌い』となります。
続けて久光は、朝廷の攘夷方針を開国へと転換させた上での公武合体を目指し、5侯(松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、一橋慶喜、松平容保)による参預会議を成立させました。
それは画期的な幕議でしたが、横浜の鎖港問題で久光と慶喜がもめてしまい、数ヶ月で崩壊します。
(当時の幕府の本音は開国でしたが、朝廷に攘夷する約束をした手前、横浜だけ鎖港という攘夷とも開国とも取れない政策をとり、交渉のため使節を欧州へ派遣していました。)
久光と慶喜の論争は〝ああ〝いえば〝こう〝いう。みたいなことで、一向に寄り添う気配はなかったのですが、そもそもの考え方は同じで、久光は開国派ですが慶喜も本心は開国派なのです。
なのになぜこんなにも対立してしまうのか。
その理由の根本には『薩摩嫌い』が大きくあるのです。
当時、幕閣は「開国やむなしでも、薩摩の開国論だけには賛成できない」と主張していて、慶喜も同意していたのです。
要は、徳川が大事だということです。
慶喜が将軍就任後、四候・(松平慶永(前越前藩主) 島津久光(薩摩藩主の父) 山内豊信(前土佐藩主) 伊達宗城(前宇和島藩主))会議が行われました。
有力な藩の藩主で集まり、今後の政治に関する会議を行うのですが、薩摩は今後、政治的主導権について、今まで以上の権限を持ちたい。と考えていたようです。
この会議を取り仕切るのは徳川慶喜。
薩摩としては、過去に慶喜を将軍に推していた事もあったので、有利に事がはこべるのではないか。と、希望的観測もあったのですが、いざ会議になると、慶喜は特に薩摩を警戒していて、ことごとく藩主の進言を却下したのです。
結果、徳川家の主導権はまるで変わらない。
四藩には何ら効もなく、慶喜の勝利で終わります。
そうなると「せっかく、将軍に推したのに!恩知らずめ!」ってな具合に人間というのは思うもの。
どのように怒ったかはわかりませんが、薩摩が慶喜に対して怒ったのは言うまでもありません。
後に慶喜は排除されます。
慶喜は水戸で、尊王に篤い水戸学派でした。
そうすると、朝廷に頭が上がらないことを知っていて、排除しやすい慶喜を将軍に選んだという部分はあったようです。
慶喜は結局は、幕閣の圧力に押し切られて、自分の考えとは違う鎖国論を主張し、参預会議を瓦解(組織が壊れる)させた事になります。
そしてこの会議はのちに幕府にとって、非常に重要なターニングポイントとなり、参預会議の破綻で、諸藩の幕府離れは加速し、〝反幕、倒幕思想〝が大きく浮かび上がってくる転機と、なりました。
対立のきっかけは、当時の二人の間にはたくさんあったのかもしれませんが、この参預会議は最も歴史的に影響があった会議だと言われています。
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