河ドラマ『西郷どん』で、有村俊斎(ありむらしゅんさい)役を演じるのは、高橋光臣さん!

有村俊斎は、西郷吉之助(隆盛)が子供の頃からよく知っている薩摩の郷中時代の仲間です。

後に、海江田信義(かいえだ のぶよし)に名を改めます。

 

結構なお調子者な役柄の様ですが、実際の有村俊斎(ありむらしゅんさい)はどんな人物だったのでしょう。

 

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目次

有村俊斎(海江田信義)を演じる高橋光信!お調子者役は得意?

 

 

西郷どん』で、有馬俊斎を演じるのは大阪府出身のイケメン俳優、高橋光臣さん。

 

身長は、176cm。

高校時代はラグビーの名門、啓光学園でバックスとして汗を流していたそうです。

 

モテたでしょうねぇ〜。

趣味は野球、バスケ、剣道、乗馬らしいので、かなりのスポーツマンです!

 

高橋光臣さんを知っている人は、真っ直ぐで情熱的な人物だと、皆さん言うそうですよ。

 

高橋光臣さんは、映画『ラストサムライ』を観たことがきっかけで、俳優業に興味をもち、目指すことになったそうです。

 

デビューは、BS日テレの『それいけ!アンパンマンくらぶ』のお兄さん役なので、お母さん方で印象に残っている人もいるのでは?

 

そして初主演は、戦隊ものなんですよね。

轟轟戦隊ボウケンジャー』の、ボウケンレッド役!

 

ま、戦隊ものって『レッド』が主役ですもんね。。

松坂桃李さんも、侍戦隊シンケンジャーの『シンケンレッド』役から、有名になりましたからね。

 

高橋光臣さんも、これからもっとブレイクしていくかも!

 

今回の西郷どんでは、『ラストサムライ』に出ていた、渡辺謙さんと夢の共演を果たし、気合いも十分でしょうね!

 

しかも、出身は大阪ということで、世渡り上手でお調子者の俊斎役は、お得意なんじゃないの?!と思ったりします。

 

高橋光臣さんが演じると、愛されお茶目キャラの俊斎が、ドラマを面白くしてくれそうで楽しみです。

 

有村俊斎(海江田信義)とは

 

有村俊斎(海江田信義)とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

有村俊斎は、薩摩藩士 有村仁左衛門の次男で、幕末から明治に生きた武士であり政治家です。

俊斎は11歳で島津斉興の茶坊主となりました。

 

茶坊主というのは、職名の一つで、将軍や大名の周囲で、茶の湯を給仕したり、手配したり、来訪者の案内接待をはじめとする、城中の雑用が仕事です。

 

刀を帯びず剃髪していたので〝坊主〝と呼ばれていますが、僧ではなく武士階級に属します。

 

そして俊斎は17歳の時、島津家の〝お由羅騒動〝に巻き込まれ、父と共に薩摩藩から追放されますが、島津斉彬が藩主になると、薩摩藩に戻ることができるようになります。

 

そうして20歳の時には、江戸の薩摩藩邸での勤務になり、尊王論など多くのことを学びました。

 

江戸勤務中は、西郷隆盛とも接点が多く、自分の先生、水戸藩の藤田東湖に西郷隆盛を紹介したのも俊斎だと言われています。

 

この俊斎、なかなか優秀でつかえる男なんですが、西郷隆盛や大久保利通が目立っちゃって、影が薄いというか、あまり世間に知られていないのが…残念。

 

残されている肖像画は、長い白髭で、貫禄があってシブい印象ですね。

では次に、有村俊斎の人生についてもう少し詳しくご紹介してみたいと思います。

 

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有村俊斎(海江田信義)の生涯

 

 

有村俊斎は、薩摩藩士・ 有村仁左衛門兼善の次男として生まれました。

幼名は太郎熊。

 

11歳で、島津斉興の茶頭に出仕して茶坊主となり、その頃に俊斎と称する事となりました。

ですので、幕末期は有村俊斎の名で活動しています。

 

俊斎は、薩摩藩を中心に伝わった古流剣術、示現流剣術や古流剣術、野太刀自顕流など、様々な剣術を学んでいます。

 

そんな有村俊斎は、実はたくさんの活躍をされている人物です。

では、特に大きな出来事を中心にご紹介したいと思います。

 

有村父子は、島津家の『お由羅騒動』に巻き込まれ、藩を追われ貧困となります。

しかし、島津斉彬が新藩主になったときに藩に復帰することができました。

 

このころ俊斉は、西郷隆盛と大久保利通、伊地知正治、税所篤、吉井友実、長沼嘉兵衛らと出会い、〝近思録〝を輪読する会を結成します。

 

近思録と言うのは、学問思想の精髄を選りすぐって編纂した朱子学の入門書で、伝習録とともに学業の最後の段階で学ぶものとされていて、現在でも、知識者階層や経営者に広く読まれています。

そして、この後〝精忠組〝を結成しているんですね〜。

 

有村俊斎(海江田信義)は、幕政改革や日本の近代化を考えるようになったのもこの頃からで、江戸藩邸勤めで多くの勤王家と知り合い、藤田東湖、戸田忠太夫に師事し尊王論を学びました。

この藤田東湖と西郷隆盛と引き合わせたのは、有村俊斎といわれています。

 

さて、1858年の安政の大獄が始まると、俊斎も尊王の志士とみなされて追われる立場となります。

 

有村俊斎は、大久保利通らと関白・九条尚忠や京都所司代・ 酒井忠義の暗殺計画を藩に知られます。

 

そうして島津久光より、軽挙妄動を諌める親書を受けたことにより〝突出〝は中止になり、それ以降、藩政に従うこととなったのです。

 

攘夷派に対する慰撫はすべての藩士にいきわたらず、三弟・有村次左衛門が、井伊直弼を水戸浪士とともに襲撃し、その後自刃しています。(桜田門外の変)

 

水戸浪士と行動していた次弟の雄助は、鹿児島にて大久保利通ら、精忠組の面々の立ち会いの下、自害。

 

二人の弟が自害となった有村俊斎は、安政の大獄で捕縛され獄死していた薩摩藩士 ・日下部伊三治海(江田訥斎連の子)の次女まつと結婚します。

 

婿養子で氏を継ぎ、海江田武次信義と改名しましたが、その後も有村俊斎の名を使う事が多かったようです。

 

島津久光に従って上洛する道中にて西郷隆盛の京都での動静を知り、伝えたことから、心ならずも西郷隆盛を失脚させてしまいます。

 

寺田屋事件では、有馬新七ら薩摩藩士を藩命にて説得しますが失敗。

 

生麦事件では、島津久光の行列を遮って、斬られたイギリス人のチャールス・リチャードソンに、有村俊斎(海江田信義)が止めを刺したとも言われています。

 

戊辰戦争では西郷隆盛を支えて東海道先鋒総督参謀を務め、勝海舟らとの交渉役を果たし、江戸城無血開城に江戸城尽力します。

 

しかし、強硬派の長州藩 大村益次郎とは意見が合わず対立。

出世街道から脱落してしまいます。

 

有村俊斎(海江田信義)は犯人処刑に異議を申し立て、謹慎処分となりますが、大久保利通の尽力にて政府の官職に復帰し、奈良県知事となりました。

 

その後解任されると、一時、薩摩に戻り、政府に不満を持つ島津久光との調停もしています。

これが評価され、海江田信義は、左院四等議官として復帰し、島津久光の上京を成功させました。

 

その後、病で鹿児島に戻り、西南戦争での西郷隆盛の死、大久保利通の暗殺と、悲しみを悼んだあと、元老院議官となっています。

 

ヨーロッパ  ウィーンに遊学ののち、貴族院議員、枢密顧問官となり、勲一等瑞宝章を受章します。

そして勲一等旭日大綬章のあと、75歳で死去。

 

安倍内閣にて、女性活躍担当大臣などを歴任した参議院議員  有村治子氏が、有村俊斎の末弟  有村國彦(有村国彦)のご子孫にあたる方だそうです。

 

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