織田信秀・信長の2代に渡って重臣として仕えたのが、『平手政秀』です。
特に織田信長に関しては、『うつけ』と呼ばれる程の奇行を繰り返した人物だった。と言われていますが、そんな一風変わった織田信長が尊敬し、影響を受け続けた人物が平手政秀でした。
うつけと呼ばれた激しい性格の織田信長が尊敬した人物というのも、なんだか興味深い話ですよね。
そんな平手政秀の最期は、『自害』を選んでいます。
その自害の理由は、織田信長が関係していると言われていますが、さて真実はどうだったのか・・・
確実な資料が無いからこそ、歴史には諸説が増えていくものなのでしょうね。
目次
【麒麟がくる】 平手政秀を上杉祥三が演じる!
画像引用元:http://office-psc.com/profile/uesugi_syouzou/index.html
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の平手政秀役を演じるのは、上杉祥三さん。
上杉祥三さんは、1955年12月14日生まれの現在63歳!
キリっとした顔立ちで、一見怖そうな雰囲気もある上杉祥三さん。
出身は兵庫県で、甲南大学法学部を卒業されています。
奥様は、女優の長野里美さん。
画像引用元:https://www.vip-times.co.jp/
長野里美さんは、2016年の大河ドラマ『真田丸』で、こう(清音院殿)役を演じていたので、ご存知の方も多いのではないでしょうか?
夫婦共に、美男美女って感じですよね。
さて、今回『麒麟がくる』で平手政秀役を演じる上杉祥三さんですが、大河ドラマ出演に関しては、ベテランの俳優さんです!
一番最近では、『おんな城主直虎』で水野忠重(徳川家康の叔父)役で出演されています。
上杉祥三さんの、過去の大河ドラマ出演をざっと上げてみると。。。
1984年 山河燃ゆ・・ 田中刑事役
1990年 翔ぶが如く・・ 徳川家定役
1997年 毛利元就・・- 河副久信役
1999年 元禄繚乱・・ 荻生徂徠役
2007年 風林火山・・ 高遠頼継役
2010年 龍馬伝第1話・・ 山本忠兵衛役
2014年 軍師官兵衛・・ 江田善兵衛役
2015年 花燃ゆ・・三条実美役
2017年 おんな城主 直虎・・ 水野忠重役
とまぁ、たくさんの大河ドラマに出演されています。
今回の平手政秀役も、ベテランの迫力ある演技を披露してくれるでしょうね!
織田信秀、信長に仕えた 平手政秀とは
平手政秀は明応元年(1492年)6月4日生まれで、織田信秀より19歳年上、信長よりは42歳も年上でした。
特に信長にとっては、『じいや』という感じだったでしょうね。
平手政秀じいは、茶道や和歌などに通じた文化人でした。
もちろん平手政秀の画像などはありませんが、茶道や歌道などを極める人物は、武術で支配する武将のイメージとは違って、穏やかなイメージが浮かんできます。
さて、そんな平手政秀は、尾張国春日井郡にあった志賀城の城主として織田信秀に仕えた重臣でした。
穏やかイメージを抱きつつも、内政・外交・財政方面で活躍した、なかなかの切れ者・・といった人物だったようです。
そして1530年には、織田家の家督を継いだ信秀の家老となります。
外交力もあったと言われる平手政秀は、その後、朝廷外交も担当します。
そんな朝廷活動では、1543年に信秀の名代として上洛し、皇居修理のための4千貫文を献上しています。
そして、信秀の家老となった5年後の1535年、平手政秀は、信秀の息子・信長の家老となります。
信長の家老となった平手政秀
1535年当時は、信長がまだ2歳だったので、平手政秀は傅役(もりやく)として仕えました。
信長は、幼少期から傅役(もりやく)として仕えていた平手政秀をたいそう慕っていたそうです。
というのも、信長の勉強については沢彦和尚がいる寺へ毎日勉強に通わせ、武芸などの技術を磨かせる事にも熱心だったと言います。
文化人と呼ばれる平手政秀ですから、丁寧にあらゆる教養を覚えさせていったようです。
そんな平手政秀の考え方や行動などに、信長は大きく影響を受けたと言います。
信長と濃姫との婚約を仕切ったのも平手政秀でした。
信長の初陣にも平手政秀が大きく貢献しています。
初陣時の敵は今川氏でした。
今川陣3,000人の部隊に対し、信長側は800人。
戦の中、風が強い日を選んで、その日に信長部隊が吉良の大浜に火を放ちます。
そうなると今川勢は慌てふためき、作戦もどこへやら・・兵はバラバラとなってしまいます。
そうして、人数では圧倒的不利な状況の中、勝つ事が出来ました。
そんな戦略を立てる武将に育てたのが平手政秀だと言われています。
1548年には、争っていた斎藤道三との間をおさめたのも平手政秀でした。
平手政秀の自害は信長のせい?
平手政秀邸址 画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
平手政秀が自害した理由は、一言で言うと、家老として仕えていた信長との関係がギクシャクしていったから。と言われています。
それは、信長が平手政秀の長男・五郎右衛門の所有していた馬が欲しいと言った事が始まりだという説があります。
五郎右衛門が所有していた馬は、とても優れた馬だったそうです。
その馬を信長が欲しがった訳ですね。
しかし五郎右衛門は、信長の命令?お願い?に対して、断った(もちろん丁重に)のです。
まぁ、要するに断られた信長がキレた。という事ですね。
それが理由で、信長と不和になってしまった平手五郎右衛門が、更に今度は信長と家督争いをしていた弟の信行の方に味方したと言います。
父である平手政秀は、そんな息子の行動に対し、責任を感じて自害した。とも言われています。
しかし、平手五郎右衛門が信長の弟・信行側に味方した。。。という事もはっきりとは解っていませんし、結局、平手家はその後も織田信長に仕えていますしね。
もちろん諸説あるので、真実は断定出来ません。
よく言われているのは、信長が『うつけ』と言われるほどの行動(奇行)を繰り返していた為、それを自身の死によって変わってもらいたい。まともになって欲しい。といった思いから自害した。という話です。
しかし、まともになって欲しい・・や、変わってもらいたい・・などといった思いで自害するものなのでしょうか?
現代人だから、その気持が解らない。と言われるとそれまでですが、本気でそういった思いがあるのなら、自害という手段ではなく、生きたまま思いをぶつけ、そこで、もしも切腹を命じられたら、その時に自害すれば?と思ってしまいますが。
それに信長は政秀寺を作っています。
天文22年(1553年)に織田信長は、平手政秀を弔うために小牧山(同県小牧市)に政秀寺(せいしゅうじ)を建てています。
信長は生涯、平手政秀を尊敬し続けていた事は間違いないでしょう。
といっても、平手政秀と信長の間に直接、問題があった訳ではないので、尊敬の気持ちに変わりはなかったとは思いますが、平手政秀は自害しなければならない程の理由って・・・結局、何?と思ったりします。
いずれにせよ、織田信長が関係している感じはありますが、結局のところ、平手政秀自身の力量不足を、自分で感じた事によっての自殺だったという部分は大いにある様な気がします。
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