大河ドラマ【西郷どん】の30話から岩倉具視が登場しますねー。

その岩倉具視役を演じるのは鶴瓶さんです。

 

関西弁でふんわりした話し方が特徴の鶴瓶さんが演じる岩倉具視かぁ。。。

なかなか面白そうな岩倉具視が出来上がりそうな感じですよね。

 

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目次

500円札にもなった岩倉具視を鶴瓶が演じる!

 

 

大河ドラマ【西郷どん】で笑福亭鶴瓶さんが岩倉具視を演じます。

 

老若男女に知られている芸人さんですが、鶴瓶さんって実は演技にも定評のある方で、優しそうなあのお顔で、良い人役も悪い人役も、上手にこなすらしいです。

 

鶴瓶さんって落語家ですからねー。

人物の雰囲気を作るのが上手いので、どんなドラマをしていても見入ってしまう演技力があるんでしょうね。

 

岩倉具視は大久保利通との方が関わりが深かったようですし、西郷隆盛と岩倉具視は3歳くらいの歳の差なので、大河ドラマ【西郷どん】では、その辺りがちょっと違って違和感・・?とも思いますが、鶴瓶さんならそんな疑問も吹き飛ばしてくれると思います。

 

岩倉具視にはバランス感覚の優れた政治力や、出世欲に強い腹黒いエピソードが残されていますが、鶴瓶さんはこの白黒、両面の紙一重な岩倉具視をどう表現するんでしょうねー。

 

ところで。。。

明治維新といえば、真っ先にでてくるのが『西郷どん』こと西郷隆盛、ついで大久保利通、木戸考充の討幕派と呼ばれていた3人の藩士が浮かびませんか?

 

この3人の藩士が明治維新を成し遂げられたのは、天皇・朝廷と結びつくことができたからです。

そして、この結びつきに重要な役割を果たした人物が、岩倉具視です。

 

あ、そうそう余談ですが、俳優の加山雄三さんって、岩倉具視の玄孫(やしゃご)にあたるらしいですね。

80歳を過ぎてもパワー溢れる元気&活動力は、さすが、岩倉具視の子孫!!って思いました。

 

岩倉具視は500円札にもなっているので、どなたも一度は聞いたことあるのでは?と思いますが、何をした?とかどんな功績があるか?などについては、案外知らない人も多いかもしれませんね。

 

そこで次に、岩倉具視について簡単にご紹介したいと思います。

 

岩倉具視(いわくら ともみ)とは

 

岩倉具視(いわくら ともみ)とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

岩倉具視をざっくり言うと、討幕派と手を組んで、大政復古の大号令を成し遂げ、欽定憲法や天皇制の確立に尽力した人物です。

 

討幕派と手を組んでと書きましたが、実は幕府を倒すということはよろしくないと考えていて、幕府を潰すのではなく、幕府にできる『国を守る仕事』もさせましょう。というのが岩倉具視の考え方です。

 

では、生い立ちから。

 

岩倉具視は、1825年山城国(現・京都)で、父・公卿(くぎょう・国政を担う最高幹部)の堀河康親(ほりかわやすちか)の第二子として生まれました。

子どもの頃は周丸(かねまる)という名前でした。

 

小さい頃からとても聡明な子でしたが、反面変わった一面のある子で、大胆な発想や突拍子もない発言でいつも周りを驚かせ、ちょっと浮いていたようですね。

 

そんな岩倉具視をみた朝廷儒学者の伏原宣明(ふせはら のぶはる)は、「この子は将来大物になる!!」と予感。

そして岩倉家への養子縁組を進め、14歳の時に、公家の岩倉具慶(いわくら ともよし)の養子になりました。

 

養父・岩倉具慶は、つよい尊王(天皇を尊ぶ)派。

のちの岩倉具視の思想に大きく影響を与えていくこととなります。

 

岩倉家は、村上源氏久我家(むらかみげんじこがけ)の公家でしたが、下級とされ、権力を持てない日陰の存在で、弱い立場の家でした。

 

そこで、公家の中でもトップクラスの鷹司家の鷹司政通(たかつかさ まさみち)へ歌道を習いに行き、コネを使って孝明天皇の側近となりました。

 

1858年、幕府老中の堀田正睦(ほったまさよし)が朝廷に「日米修好通商条約締結」に向け、孝明天皇に許可を求めてきたのですが、朝廷関白の九条尚忠(くじょう ひさただ)は、「幕府に任せる」とし、岩倉具視は条約反対派の公家88人と九条家を猛烈に批判しました。

 

これを「廷臣八十八卿列参事件(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)」といいます。

岩倉具視の発言・行動力が公家社会に大きな影響を与えた出来事でした。

 

この辺りから岩倉具視は頭角を現していきましたが、結果、幕府は天皇の許可なく条約締結をし、条約締結に反対した者を処罰する「安政の大獄」が始まりました。

 

その後、安政の大獄の主導者 伊井直弼(いいなおすけ)が、桜田門外の変で暗殺を機に幕府の力はどんどん失い始めます。

 

そして1861年、世間からの信頼を回復しようと、幕府は第14代将軍・家茂と孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)の結婚を朝廷に願い出ました。

 

幕府の願いを聞き入れるということは、朝廷が力を持つチャンスと岩倉具視は考え、公武合体(朝廷と幕府による政治)策による結婚に尽力。

 

1862年、攘夷派(身内で固める派)だったのに、朝廷の和宮との結婚に力を注いだ岩倉具視に対し、孝明天皇は激怒。

 

蟄居(ちっきょ・外出禁止)生活を命じました。

蟄居生活中には、攘夷派として天皇を中心とした国づくりを目指し、西郷隆盛、大久保利通らと交流を続けていました。

 

1867年 孝明天皇が亡くなり明治天皇が即位。

岩倉具視の蟄居は解消され、政界へと戻ってきました。

 

大政奉還が行われても、第15代将軍・徳川慶喜の政治関与は続き、慶喜派の山内容堂(やまのうちようどう)もいました。

 

ずっと一途に慶喜派をつらぬき、抵抗続ける山内に、具視が「刺すぞ」と言ったらようやく引き下がったそうです。

 

そして、大久保利通たちと一緒に王政復古の大号令を発し、明治天皇のもと新政府確立に成功したのです。

明治新政府では、まず「版籍奉還」「廃藩置県」の政治改革を行いました。

 

1871年 岩倉使節団のリーダーとして、不平等条約の改正と、日本国づくりの勉強のためアメリカ、ヨーロッパに視察に行きましたが、条約改正は出来ず、帰国。

 

欧米諸国との力の差を目の当たりにした岩倉具視は、「富国強兵」の政策をし、日本を近代化に導きました。

 

帰国後、西郷隆盛の征韓論(武力で朝鮮を開国しようとすること)に反論し、不平士族に襲われましたが、このときは九死に一生を得ました。

 

そうして1883年に岩倉具視は、咽頭がんで亡くなりました。

59歳でした。

 

明治維新に貢献したことで、日本初の国葬(国家の儀式として、国費をもって行われる葬儀)が行われた偉大な人物、それが岩倉具視です。

岩倉具視は、政治家として多くの功績を残しました。

 

岩倉具視と西郷の出会い

 

 

岩倉具視は公武合体派の公家での指導的存在でしたが、八月十八日の政変で、宮廷を追われ岩倉村に5年間、隠棲していました。

 

のすごーくみすぼらしい家だったようですよ。

一人でじっと考える時間はたっぷりあって日々考えているうちに公武合体に対し、ある疑問がわくようになってきました。

 

そんな状況下、ほとんど人は訪ねて来ることはありませんでしたが、たまに、薩摩藩の志士たちが、岩倉具視を訪ねて来ていました。

 

主に藤井良節や、井上石見です。

そして面会を重ねているうちに、気心が知れていき、岩倉具視が並みの公家ではないと知って、人物を知れば知るほど魅了されていくのです。

 

西郷隆盛は、井上石見らから岩倉具視の存在を聞き、岩倉村に出向き面会をしたと言われています。

 

出会ったときに、互いに確信し合い、日本国のために共に力を尽くしていくことになります。

この当時の世の中の動きとしては、薩摩藩が倒幕に傾きつつあった頃でした。

 

岩倉と西郷は征韓論で対立し、西南戦争を起こす原因を作った?!

 

岩倉と西郷は征韓論で対立し、西南戦争を起こす原因を作った?!

 

明治4年11月12日(1871年12月23)〜明治6年(1873年9月13日)

 

岩倉使節団が、欧米諸国の視察に出ている間の政府の留守を預った、西郷隆盛を首班とする政府が、武力をもって朝鮮を開国させることを目的とした主張を『征韓論』といいます。

 

当時、朝鮮は鎖国政策で、それに対し日本は軍隊を送って開国させよう!

という考えが主流となっていました。

 

西郷は征韓論派の一員とされていますが、西郷隆盛の考えは他のメンバーとは少し違っていました。

 

西郷は朝鮮への出兵には反対。

まずは自分たちが使者として朝鮮に赴くと。

 

そして、「遣韓論」と呼ばれる立場にたって、主戦派を抑える側に回っていました。

征韓派の主なメンバーは

 

西郷隆盛

板垣退助

江藤新平

副島種臣

後藤象二郎

 

です。

 

そして非征韓派のメンバーは、

 

岩倉具視

大久保利通

木戸孝允

大隈重信

大木喬任(おおきたかとう)

 

です。

 

征韓論に対して真っ向から反対した理由としては、欧米を視察してきて、欧米と日本の国力の違いをいやというほど見てきたからです。

 

日本にとって第一に考えるべきことは、内政の充実、国力の増強。

琉球の帰属問題や樺太、千島列島の領有権問題、不平等条約の改正などなど・・・

 

他にするべきことがたくさん抱えており、国外に干渉したり戦争をしたりする余裕がないことを肌で感じたからです。

なので、朝鮮出兵は時期尚早と猛反対したというわけです。

 

結果、朝鮮派兵は中止。

しかし、明治6年(1873)10月、西郷隆盛朝鮮派遣が閣議で決定します。

 

なぜかというと、当時の明治政府は、薩摩・長州出身者が大きな力を持っていたのですが、その中でも影響力のある薩摩の代表格の西郷が、閣議で「朝鮮派遣が認められない場合、辞職する」と発言したのです。

 

これを受け、当時太政大臣の三条実美は、西郷隆盛が辞職したら薩摩出身者が明治政府から大量離脱するのでは?と懸念した結果、西郷の朝鮮派遣賛成となったのです。

 

大久保利通はこれに対し反対の意志を、辞表を提出することで示しました。

三条実美は朝鮮使節派遣の賛成派と反対派の板挟みになり重圧からか倒れてしまいます。

 

そうした中、岩倉使節団の代表 岩倉具視が太政大臣代理に就いたのです。

西郷隆盛らは岩倉具視に使節派遣を明治天皇に上奏することを求めました。

 

派遣を止めたかった岩倉具視は派遣決定の上奏とともに、自分の意見、派遣中止も上奏しました。

結局、明治天皇は朝鮮使節派遣中止を選ばれたので、西郷隆盛の朝鮮派遣は幻となりました。

 

この決定に憤慨した西郷、板垣、江藤らは辞表を提出。

参議などを辞職。

明治政府を去りました。

 

明治政府の中でも影響力が大きかった彼らの辞職を受け、約600人もの官僚・軍人が続けて明治政府を辞職します。

この一大政変を「明治六年の政変」といいます。

 

このとき明治政府から離脱した征韓派たちが後に、各地で不平士族の乱や自由民権運動の主導者となっていきます。

そして最後には、西郷隆盛による西南戦争という日本最後の内戦へと至ってしまったのです。

 

西郷隆盛は戦争がしたかったわけではないので、この結果は避けられなかったのかなぁ?なんて思いますが、西郷隆盛を慕ってくれていた者たちの思いや行動を受け、影響力のある自分は戦争の先頭を走らなければならない。あとには引けない。周りからの状況もどんどん変わっていって、自分で止めるには…。など、誰にも言えない複雑な葛藤があったのではないかと想像します。

 

この征韓論の対立があったので、西郷隆盛と岩倉具視は中が悪いと言われていますが、立場が変われば見方も変わって、考え方も変わります。

 

岩倉具視と西郷隆盛は、お互いのベストを尽くし日本のために意見を対立させただけのことだと思います。

 

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