西郷どん(せごどん)』第27話で登場するのが、古高俊太郎(枡屋喜右衛門)です。

古高俊太郎は、薪炭商「枡家」の養子になるなり、表向きの顔は枡屋喜右衛門(ますやきえもん)という名前で、商家の主人となります。

 

さて、その古高俊太郎ですが、元治元(1864)年6月5日に、枡屋に新選組が踏み込んできます。

そして古高俊太郎は捕まり、ひどい拷問にかけられたそうです。

 

どうしてそんな事になったのか?

そのいきさつや、古高俊太郎について紹介したいと思います。

 

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目次

古高俊太郎(枡屋喜右衛門)

 

画像飲用元:http://www.digistyle-kyoto.com/study/histry/shinsengumi/shinsengumi_06.html

 

古高俊太郎は、大津代官所の手代・ 古高周蔵の子として、近江の古高村(滋賀県守山市)にて1829年4月6日に生まれました。

 

母は公家・広橋家の家来の娘で、豊臣秀吉の五奉行・増田長盛の直系とされます。

古高家は系図上、長州藩毛利家の遠縁にあたるそうです。

 

16歳のときに、父・古高周蔵が、山科の毘沙門堂門跡に仕える事になり、京都に移住。

その頃に俊太郎は、尊皇攘夷の梅田雲浜の弟子になりました。

 

そして1861年、京都河原町にある諸藩御用達の枡屋の養子に入ることとなり、名前を枡屋喜右衛門(ますや きえもん)と改名しました。

 

毘沙門堂の家士として仕える傍らに、偽装のため表向きは古器骨董商の店主をしていたようです。

 

そんな枡屋喜右衛門は、陰勤王志士たちをかくまったり、倒幕運動のための武器、弾薬などなど…集めていました。

 

特に長州藩士とは関係が深く、枡屋は諸藩との取引や筑前福岡藩の御用達でもあったので、京都の藩屋敷、公家屋敷に出入りが出来ました。

 

更に、長州藩の間者として情報入手などもしていたそうです。

そういった事もあり、武士が出入りしても怪しまれませんでした。

 

そうして古道具、馬具を取り扱いながら、早くから宮部鼎蔵らとも交流する事になります。

 

◎ 有栖川宮熾仁親王との連絡役

◎ 京の情勢を探る長州藩の大元締

 

などの情報活動、武器調達をしていました。

 

1863年8月18日、八月十八日の政変の約10ヶ月後、1864年6月5日の早朝、新選組が桝屋喜右衛門方を急襲。

そこで喜右衛門は捕まってしまいます。

この時

◎ 武器弾薬は押収

◎ 諸藩浪士との書簡、血判書を発見

 

そして桝屋喜右衛門は、壬生屯所の前川邸にある蔵に閉じ込められ、新選組局長の近藤勇、副長の土方歳三から厳しい取調べを受けたと言います。

取り調べというか、ひどい拷問にあって、

 

◎ 長州藩が御所に火を放ち

◎ 中川宮を幽閉

◎ 京都守護職 松平容保らを殺害

◎ 天皇を長州へ連れ去る

 

といった事を自白したとされていますが、自白には応じていないとする説もあります。

 

本当はどちらがわかりませんが、この時すでに潜伏していて、近々市中で同志の集会があると判明したのを阻止しようとされたのが新選組の池田屋事件です。

宮部鼎蔵、吉田稔麿ら多くの志士が命を落としました。

 

その後桝屋喜右衛門は、六角獄舎に収容されましたが、7月20日(8月21日)の禁門の変のどんどん焼けで獄舎近辺まで延焼、火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、判決が出ていない状態のまま他の囚人とともに斬首されたのでした。

 

享年36歳。

禁門の変』がきっかけで亡くなってしまったので、なんだかモヤモヤした気持ちだったのでは?と思ったりします。

 

池田屋事件とは?

 

池田屋事件とは?

 

1863年、八月十八日の政変が起こり、京都を追われた長州藩・久坂玄瑞高杉晋作らは情報収集のため潜伏します。

 

肥後、土佐、長州藩ら尊王攘夷の志士は、御所に火を放ち、その混乱で八月十八日の政変の黒幕の中川宮を幽閉&一橋慶喜松平容保らを暗殺&孝明天皇を長州へ連れて行く計画を立てました。

 

この計画は、尊王志士を支援していた枡屋・桝屋喜右衛門を捕縛した際に自白したので、新選組が知る事になったとも言われています。

 

この会合が行われる情報が入った事で、新選組・近藤勇らは市中を探索。

1864年6月5日の夜、池田屋で会合中の尊攘志士らを発見しました。

 

新選組沖田総司永倉新八藤堂平助らが踏み込み、あとから土方歳三井上源三郎斎藤一らも駆けつけました。

 

そして尊攘派吉田稔麿北添佶摩宮部鼎蔵大高又次郎石川潤次郎杉山松助松田重助らが命を落とす事になりました

 

池田屋の主人 ・池田屋惣兵衛も、尊王攘夷の志士を匿った罪で捕らえられました。

そんな中、桂小五郎は一度、池田屋を出ていた為、難を逃れています。

 

長州藩はこの事件をきっかけに挙兵し上洛。

7月19日に禁門の変となります。

 

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池田屋事件の原因は、本当に古高俊太郎の自白のせいだったの?

 

池田屋事件の原因は、本当に古高俊太郎の自白のせいだったの?

 

さて、池田屋事件は新選組を一躍有名にした事件です。

 

この事件でたくさんの大物志士達が亡くなりました。

長州藩はこれを機に禁門の変に続きます。

 

古高俊太郎は桝谷の養子となり、表向き桝谷喜右衛門と名乗って、小道具屋を商い志士達を援助していました。

それを新選組に知られ、捕まります。

 

捕まってしまった古高俊太郎は、一切しゃべらなかったので、しびれを切らした土方歳三が古高俊太郎を逆さに吊るし、足の裏に五寸釘を打って、突き抜けた釘に百目蝋燭(1本で375gもある大きなろうそく)を立てて、火をつけました!!

 

ロウが溶けて足の裏に流れ、さらにはスネまで落ちていく・・・という過酷な拷問に。

そしてついに長州藩士、土佐浪士たちとの秘密の話を自白してしまうんです。

 

内容はというと

風の強い日に御所に火を放ち、佐幕派の大名を殺害して天皇を長州に連れ去る。

というもの。

 

驚いた新選組は、長州藩士たちが談合に集まっていた池田屋を襲撃したのです。

 

そんな風に小説やドラマでは拷問の末、新選組が自白させて池田屋がわかった。というのが定説なのですが、実はこの自白、新選組のでっちあげだという話があります。

 

木戸孝允日記」によると、長州藩士たちが集まっていたのは、「俊太郎が新選組に捕まったのを、どうやって救い出そうか。」という会合だったと書かれています。

 

新選組は二手に分かれて会合場所を探索していたので、実際のところは場所もわかっていなかったようです。

 

そして長州藩は、池田屋事件により禁門の変に。。。

 

また、望月亀弥太が参加していた関係で、神戸海軍操練所が廃止されるということになったのも池田屋事件です。

池田屋事件が原因となり、大きく歴史が動いたと言えるでしょうね。

 

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