西郷隆盛(吉之助)と同じ時代に存在した『新選組』。

新選組もたくさんのドラマで描かれてきていますが、さて、『西郷どん』では新選組は登場するのでしょうか。

今回は、西郷隆盛(吉之助)との接点や関係についてまとめてみました。

 

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目次

西郷隆盛(吉之)と同じ時代を生き抜いた新選組

 

西郷隆盛(吉之)と同じ時代を生き抜いた新選組

 

幕府が江戸の浪人を雇い、将軍上洛時の治安維持を目的とした、京の警護職である「浪士隊」を結成。

これが新撰組の母体です。

 

当時、維新の志士は、商家を脅したり、人斬りをしたり、放火などなど、今で言うところの「テロ行為」を働いて活動資金を得ていました。

 

洛中の治安がひどく低下したので「新選組」が活動しはじめるのですが、新撰組を簡単に言うと〝幕府寄りの警察官〝みたいな感じで、西郷とは対立のポジションということになります。

 

接点があったという話は聞いたことはありません。

しかし同じ時代に存在し、政治に絡んでいますので、間接的には関わる事があったかもしれませんが、直接的な関係や接点はなかったのではないかと思います。

 

経済的にも軍事的にも大きな影響力を持つ薩摩藩。

その為、薩摩系の藩士(浪士)には新撰組や会津藩などの取り締まり隊も、手を出さないようにしていたそうです。

 

薩摩は1863年8月18日の政変で会津藩と組んで、長州を追放しました。

そういった事もあり、長州からは恨まれていますが、更に会津などの佐幕系からも警戒されていたようです。

 

それでも、佐幕系とみられていた土佐藩の後藤象二郎とは交流がありました。

徳川幕府に反発する長州藩が京で「攘夷決行」を進めようとしていました。

 

1863年8月18日、幕府は会津藩と薩摩藩に長州討伐を命じます。

これが「八月十八日の政変」です。

 

翌年の1864年、京を追放された長州藩。

御所に進軍しようとしたとき、薩摩藩の軍を率いていたのが西郷隆盛です。

 

のちに「禁門の変」となるこの戦で、会津藩と力を合わせて長州軍を破りました。

禁門の変の後、「第一次長州征伐」にも西郷隆盛は参加しました。

 

禁門の変での長州軍の御所への発砲で朝敵に。

幕府は長州に三十六藩からなる討伐軍を編成し、征長総督に元尾張藩主・徳川慶勝、総督参謀に西郷隆盛を任命。

 

長州藩内は「過激攘夷派」が戦意を消失。

禁門の変責任者として三家老に切腹をさせることで、討伐軍への降伏の意志を示しました。

 

西郷隆盛は「長州藩に戦意なし」と総督・徳川慶勝を説得し、「第一次長州征伐」では、長州と戦になることはなく終え、対する各藩の従順な姿勢に変化が生じ、西郷隆盛の中にも徳川幕府への懸念が広がります。

 

徳川幕府の衰退を感じ始め、再び長州藩内で桂小五郎高杉晋作ら攘夷派が勢力を盛り返し、実権を握った長州藩に、幕府は二度目の長州征伐軍を派遣します。

 

1865年「第二次長州征伐」が発令。

坂本龍馬の仲介で、長州藩の桂小五郎(木戸孝充)と1866年京都の薩摩藩邸内で密会し、倒幕へ向けて「薩長同盟」を結びました。

 

そして薩摩、長州両藩によって徳川幕府は追い詰められていき…。

 

徳川幕府を倒し、薩摩長州が権力をもちますが、西郷隆盛もまた新政府との軋轢により追い込まれていくことになります。

 

1877年西南戦争。

田原坂にて敗退。

同年9月24日鹿児島城山岩崎谷にて自決。

 

その後新撰組は、幕府が大敗して、一人抜け二人抜けみたいな言わば自然消滅的な感じで最終的に解散しています。

西郷どん」こと西郷吉之助(隆盛)は幕末を生き、大政奉還の立役者でありながら、新政府を相手に戦いました。

 

本当のことは今となってはわかりませんが、西郷らと幕府との間には、誤解が誤解を生んで後戻りできなかった結果だったのではないか。なんてことも、歴史を学んでいると感じます。

 

薩摩藩の富山弥兵衛が新撰組に潜り込んだ?

 

薩摩藩の富山弥兵衛が新撰組に潜り込んだ?

 

新撰組には敵対する薩摩出身の新撰組隊士がいました。

その名は富山弥兵衛といいます。

 

富山弥兵衛って?と思った人も多いので、ちょこっとかいつまんでご紹介しがてらお話しすると・・・

 

富山弥兵衛は1843年、薩摩藩士の子弟として生まれました。

 

富山弥兵衛の新選組加盟のきっかけは、内田政風大久保利通間者として送り込ませ、加盟したとされています。

 

富山弥兵衛は出身が薩摩藩だったので、近藤や土方は薩摩の密偵ではないか?と疑われましたが、当時、近藤に信頼されていた伊東甲子太郎が口添えをしてくれたので加盟を許され、何とか潜入に成功しました。

 

なんで伊東甲子太郎が口添えをしてくれたのか?

薩摩のつながりがあったのでは?

なんて事も、その後言われています。

 

そうして富山弥兵衛は1864年、新選組に加盟。

七番大砲組に属しました。

 

1865年伍長を勤めます。

大して目立った活躍はないようで、記録には

 

・慶応元年七月伊東甲子太郎らと奈良に赴いて潜伏浪士の調査を行なった。

・「人物怯懦」で新選組をクビになった川島勝司が、隊名を騙って(かたって)金策したのを捕らえて断首した。

ことが残されています。

 

薩摩藩御家流ともいうべき示現流の実力に注目した土方が、富山弥兵衛から剣筋を披露してもらい、対策を研究したりした。。。という話もありますが、定かではありません。

 

富山弥兵衛は薩摩脱藩隊士なので、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通など要人の事などを薩摩藩の内情を知り合いにしゃべってしまっています。

 

しかも、悪い事に弥兵衛が喋った内容がその知り合いを通して新選組の谷三十郎に漏れてしまっています。

 

富山弥兵衛には「間者だ!」という自覚があまりなかったのか…。

お調子者だったのか…。

おしゃべり好きな男子だったようですね。(^_^;)

 

慶応3年3月新選組が分離し、伊東甲子太郎らは山陵奉行配下の禁裏御陵衛士となると、富山弥兵衛も伊東甲子太郎についていき御陵衛士に加わりますが、正式な同志ではなく” 衛士随従同志と『秦林親日記』に記されています。

 

油小路事件では何とか脱出したあと、薩摩藩に匿ってもらい、鈴木三樹三郎ら御陵衛士の残党と行動を共にして、近藤勇を襲撃しました。

 

そして、鳥羽伏見の戦いには薩摩軍に属して参戦しますが、銃弾に当たって大怪我をしてしまいます。

 

戊辰戦争では薩摩藩に属して、越後出雲崎で会津藩の動向探索に従事しましが、その時水戸諸生党に捕まりますが、なんとか逃走します。

 

逃げるために歯を全部抜いて顔を変えていたそうですが、追い付かれ、4、5人と抜刀ひて闘い、全身50数ヶ所を斬られ、斬死しました。

 

享年26歳。

真実は分かりませんが、西郷隆盛の手によって立派なお墓に移してもらい埋葬されたとか。

 

たくさんの修羅場をくぐり抜け抜けてきたようですね。

お喋りで口の軽さがたまに傷ですが、人の中に溶け込むことができる人懐っこい雰囲気があったのではないかと思います。

 

伊東と薩摩・大久保のパイプ役として活躍した富山弥兵衛

 

あまりにも若すぎる最期だったので、勿体無い気がします。

富山弥兵衛については資料が少ないのですが、油小路の変の動機の一つをつくったキーマンなのかも?と思います。

 

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吉之助(隆盛)は知っていたの?富山弥兵衛は本当に間者?

 

吉之助(隆盛)は知っていたの?富山弥兵衛は本当に間者?

 

富山弥兵衛は本当に間者だったのですが、大久保利通の間者として送り込まれているので、この頃の西郷隆盛は大久保利通がしていることあまり知らなかったのではないかと思います。

 

しかも、間者なのでこっそり命をだして進めていたと思われます。

 

新選組始末記』に掲載された手帳の原文には、「子荷駄方」とでてきます。

 

新選組隊士の一員となれた富山弥兵衛ですが、その仲立ちだった伊東甲子太郎大久保利通が知り合う事があったとしても、御陵衛士と薩摩藩という組織的繋がりはなかったと思われます。

 

色々な説があるので真実は分かりませんが、富山弥兵衛の墓があまりにもへんぴな所にあったので、西郷隆盛が立派なお墓に移してくれたみたいです。

 

直接的な関わりがなくても、情に熱い西郷どんならありえるエピソードだなぁと思います。

 

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