1864年7月19日、長州藩と幕府軍は御所の立売門、堺町門、蛤門にて攻防戦を繰り広げました。

特に蛤門付近が激戦だったので禁門の変蛤御門の変とも呼ばれます。

 

ちなみに「禁門」と言う門は存在しないのですが、御所(天皇の住まい)は、侵せない場所「禁裏」(きんり)とも呼ばれたところから、御所の全ての門は「禁門」と呼ばれていました。

そこから「禁門の変」と言われる由縁となっているようです。

 

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八月十八日の政変により京を追放になった長州

 

八月十八日の政変により京を追放になった長州

 

なぜ長州藩は幕府の怒りを買うことになったのか。

そして幕府軍と争うことになったのか・・・

 

幕末の1863年8月18日

ペリーが浦賀に来航して日本は開国か、攘夷(外国人を追い出す)かで国論が真っ二つに。という頃の幕末。

 

長州藩は初めは公武合体派寄りでしたが、攘夷派が長州藩のリーダー的存在になっていき、長州は攘夷派へと移り変わり、外国船を長州藩単独で砲撃するなど過激な行動を起していくようになりました。

 

孝明天皇は、この長州藩の行動や朝廷での影響力の拡大をあまりよく思っていませんでした。

 

公武合体派の薩摩藩、会津藩の意見に孝明天皇も耳を傾け、遂に攘夷派を京都  朝廷から追い出すことになります。

長州藩からすれば、仲良しのはずの朝廷からいきなり出て行けっ!って言われて『???』だったでしょうね。

 

そうして公武合体派が、尊皇攘夷過激派を京都から追放した政変を『八月十八日の政変』といいます。

 

朝廷  孝明天皇を尊王とし、攘夷を唱えた長州藩を中心とした志士たちが1862年から活発な活動を京の市中で開始します。

 

1863年5月には長州藩が下関海峡で外国船砲撃事件を起こし、攘夷を示しましたが、他の藩は微動だにせず…。

 

【西郷どん】三条実美(さねとみ)が京を出た八月十八日の政変・七卿落ちとは?

 

そして、(孝明天皇に攘夷を約束した)将軍・徳川家茂に攘夷実行へと行動させるため、天皇による攘夷親征(大和行幸)を計画しました。

 

大和行幸の計画は、天皇が軍を率いて「攘夷」を実行させよう!!という内容。

 

それは長州藩  久坂玄瑞らの画策したもので、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸するときに、大坂城にいた家茂も同行させ、天皇から将軍に「節刀」(任命の印としての刀)させ軍議を開き、徳川幕府も攘夷を行うしかない状況に追い込もう!!と言う計画です。

 

公武合体派の会津、薩摩の両藩は危機感を感じ、松平容保に了承のうえ、薩摩藩士 ・高崎正風と、会津藩士 ・秋月悌次郎が側近の中川宮(久邇宮朝彦親王)を訪問します。

そして中川宮が参内し、長州藩が朝廷を利用しようとしていると説得。

 

孝明天皇も、軍の指揮を取ってまで攘夷する気は無く、むしろ公武合体策を支持していて、長州藩の無茶振りで幕府と仲が悪くなった事は、心外だったのです。

 

と、いうことで中川宮に長州藩を京から排除せよ!!密命が下ったのです。

 

そして長州が動いた【禁門の変】

 

そして長州が動いた【禁門の変】

 

さらに池田屋事件が長州藩に追い討ちをかけることになります。

 

長州、土佐、熊本藩らの攘夷派が、また過激な計画を立てているとして新撰組が旅館・池田屋に乗り込む事件が起こります。

 

この事件で長州藩の多くの藩士が亡くなることになるのです。

長州藩が失地回復のために京都に乗り込み、罪の回復を要求しますが、答えはノー。

 

そうして長州藩は、公武合体派の排除、京都奪取の決行に踏み切ります。

これが禁門の変です。

 

禁門の変は、1864年7月19日、長州藩が京都での復権を目指し、京都御所付近で会津藩の排除を挑んだ武力衝突です。

そして蛤御門が激戦地だったことから、蛤御門の変とも呼ばれます。

 

運命の元治元年(1864年)6月15日。

過激な言動で知られる長州藩の来島又兵衛が、遊撃隊300人を率いて出立しました。

 

翌日、久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎も、三田尻を出航しました。

長州藩兵三千名は、伏見、嵯峨、山崎に着陣。

 

これは、武力による揺さぶりをかけるためのもので、実戦を考えたことではありませんでした。

その頃京都の民衆は、気前が良くって粋な遊び方をする長州藩士に、好意的でした。

 

人々の同情や好意があれば、主張も通りやすいのではないか??

そんな考えもちょっとあったかもしれませんが、政権を掌握する将軍後見職にして、禁門守衛総督の一橋慶喜は「武力を背景とした嘆願など、認めるわけにはいかん」といった考えでした。

 

7月17日には、朝廷も長州に撤兵を通達。

 

翌日、長州勢の指揮官たちで今後の協議が行われ、過激な来島と慎重な久坂の間で意見が割れ、久坂は来島の激情に巻き込まれ、ついに武力による進撃が決定し、18日夜半、3人の家老が兵を率いて京へ出立し、大敗するのです。

 

戦闘の影響で、京都は大火「どんどん焼け」に見舞われ、公家邸はじめ約28,000戸の民家も焼失。

出火原因は、特定されていません。

 

時、京都の人々は長州藩士には同情的で、会津藩士、新撰組隊士が放火したせいだ!!と考えたかったようですが、市街地で火器を用いた戦闘をすれば、火災の発生は逃れられません。

 

禁門の変の終了後、孝明天皇の嫌悪感は頂点に達し、長州藩は「朝敵」認定されましたが、一方で、徳川慶喜、松平容保、松平定敬らに対する信頼感は高まっていきます。

 

こうした孝明天皇と幕府の取り組みに対し、危機感を抱いたのは薩摩も同じでした。

孝明天皇の強い要請により、長州藩はついに征討の対象となります。

 

薩長同盟は、薩摩藩が長州藩の朝敵認定取り消しを目指して接近したものであり、軍事同盟というほど強固ではないという見方があります。

 

そしてこのころ孝明天皇が崩御。

政治の潮目は劇的に変わっていきます。

 

薩摩と手を組み長州は政局に復帰、明治維新を成し遂げ、ついに勝者となったのでした。

 

蛤御門(はまぐりもん)へ向かった長州の運命は?

 

 

1864年7月19日。

長州藩と会津藩が京都蛤門付近で激突し、福岡藩が守る中立売門では長州藩が門を突破、京都御所内に入ると西郷隆盛率いる薩摩藩がこの戦いに介入し、長州藩は敗北しました。

 

長州勢は火を放ち、大火事にしたうえ逃走を図り、御所内に向け発砲したことから京都の人からは恨まれ、そして「朝敵」となってしまいました。

 

その後、長州藩は長州征伐や外国船砲撃の報復など続きますが、長州藩の藩論が倒幕に傾くと、敵対していた薩摩藩と薩長同盟を実現し、倒幕への道を歩んでいくことになったのでした。

 

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