大河ドラマ【西郷どん(せごどん)】で、26話に登場する三条実美(さんじょう さねとみ)は、八月十八日の政変』にて『七卿落ち(しちきょうおち)』という、不名誉な目に遭っています。

さて、八月十八日の政変や七卿落ちとは、一体どの様なものだったのでしょう?

そんな体験をした三条実美の人生を振り返ってみたいと思います。

 

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目次

長州藩と親交の深かった三条実美

 

三条実美とは

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

三条実美(さんじょう さねとみ)は、天保8(1837)年に、父・三条実万(さんじょう さねつむ)と母・紀子の三男として生まれました。

幼名は福麿(ふくまろ)と言います。

 

実美は、次兄の三条公睦(さんじょう きんむつ)が早く亡くなった為、安政元年(1854年)、17歳にて家を継ぐ事となります。

 

文久2(1862)年に実美は、国事を審議するための役職である国事御用掛に就いています。

 

これは、安政の大獄で処分された父・実万の思考と同じだった実美が、尊王攘夷派の公家の立場から、天皇が派遣する使者として江戸へ赴き、14代将軍・徳川家茂に外国の侵略を打ち払うよう、督促した事がきっかけです。

 

そんな実美は、長州とも深く関係を持つ事となります。

京では、孝明天皇自身も公武合体政策を推し進めていて、薩摩藩や会津藩もそれを後押しします。

 

そうなると攘夷派の長州藩は、更に反発する事となり、実美は桂小五郎や高杉晋作ら攘夷運動を起こしていた長州藩と共に活動を始めます。

 

そして、同じく尊皇攘夷激派の公卿である姉小路公知(あねこうじ きんとも)と共に、幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇による大和行幸(春日大社で攘夷を祈願し、さらに攘夷親征の軍議を行い、伊勢神宮まで参宮するという)を企画しました。

 

孝明天皇も攘夷派でしたが、あまりに横暴な長州藩や三条実美らを、しだいに快く思わないようになっていきます。

 

そんな攘夷派の長州藩や三条実美らに対し、どうしたものかと頭を抱える孝明天皇に代わって、薩摩藩・会津藩らが起こした行動が、長州藩を京から追放する『八月十八日の政変』だったのです。

 

八月十八日の政変が起こり、七卿落ちとなる

 

八月十八日の政変と七卿落ちを解りやすく紹介!

 

さて、攘夷派の長州藩や三条実美らを京から追放した『八月十八日の政変』とは一体どんなものだったのでしょう。

 

攘夷派としての運動が激しくなり、大和行幸が企画された事によって会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派は、攘夷派の長州藩や三条実美らを一掃する計画を立てました。

 

そして薩摩藩150名、会津藩は、その10倍の1500名を動員し、政変が行なわれる事となったのです。

 

文久3年8月18日早朝、まずは中川宮と松平容保らはじめ、会津藩、薩摩藩、淀藩たちにより御所九門の警備を行います。

 

そうして、京にいる諸藩主達にも皇居に参上させ、代わりに攘夷派の長州藩や三条実美らには、一定の場所に滞在させ、他人との面会禁止を命じました。

更には国事参政、国事寄人の二職が廃止させられる事となります。

 

こうして大和行幸の延期や、尊攘派公家、長州藩主・毛利敬親らの処罰が決定する事になったのです。

尊攘派公家七人とは

 

三条実美

三条西季知

四条隆謌

東久世通禧

壬生基修

錦小路頼徳

澤宣嘉

 

ら七人です。

この七人と長州藩が京から追い出される形となりますが、公家の七人に対しては、『七卿落ち(しちきょうおち)』と呼ばれる事となります。

 

この『七卿落ち』の七人ですが、この中で三条実美と三条西季知の2人だけが公卿の列にあたりますので二卿五朝臣という言い方もありますが、一般的には『七卿落ち』と呼ばれています。

 

さて、この公家と公卿の違いについてですが、公家とは(武家を除いた)朝廷に仕える人々の事を言います。

その公家の中でもランクづけがされています。

 

公家は、官職を『官位』と呼んで位置づけ(ランクづけ)していて、公卿はランクが3位以上の上位ランクに位置づけられています。(また、参議という官職の場合も公卿と呼ばれる)

 

貴族という言葉をよく聞くと思いますが、位階五位以上(従五位下 以上)だと貴族と呼ばれ、更に三位以上になると公卿と呼ばれますので、八位以下もある官位の中で三位以上の公卿と呼ばれる人物というのは、かなり格式高いお家柄・・・といったイメージですよね。

 

そんな立派な立場の三条実美は、八月十八日の政変により朝廷を追われ、京から離れ長州へ移る事となるのです。

 

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七卿落ちのその後、三条実美はどうなった?

 

七卿落ちのその後の三条実美はどうなった?

 

 

さて、三条実美と共に、激しい尊王攘夷派としての活動を行った長州藩ですが、まだまだ彼らの野望は消える事なく、上洛のチャンスを伺いながらの生活を続けます。

 

そうして1864年7月8日、池田屋事件が起こります。

池田屋事件は、京の旅館・池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派志士達を、新選組が襲撃した事件です。

 

それを期に長州藩は京へ出兵し、会津藩・薩摩藩らと戦になります。

それにより京都市中は、約3万戸が焼失するなどし、大きな被害をもたらす事になってしまいました。

 

さて、三条実美ですが元治元(1864)年に長州から福岡藩へ預けられる事となり、その後は太宰府へと移送され、約3年間の幽閉生活を送る事となります。

 

そうして大変な生活が終わる事となるのが慶応3(1867)年でした。

三条実美は再び京都政界に議定として復帰する事になったのです。

 

そして1868年には、新政府副総裁に任命される事となります。

しかし、1873年の征韓論をめぐる政府内での対立では、征韓派の西郷らと征韓反対派の大久保らとの間で板挟みとなります。

 

基本的に実美は、温厚な性格だったからか、その心労からくるストレスは大きかったようで、とうとう政務も行う事が出来なくなってしまい、辞表を提出します。

 

ここで登場するのが、実美の後任となった岩倉具視です。

征韓論で争った西郷の、朝鮮派遣案を却下し、後に西南戦争へ繋がる事となります。

 

実美ですが、その後、総理大臣の候補にあがる事となりますが、英語が話せるという理由から(その影響が強いとされる)伊藤博文に敗れてしまいます。

 

明治24年(1891年)、インフルエンザ罹患により死去。

享年55歳。

 

いやぁ・・・55歳若いですね。

戦死という訳ではないですし、インフルエンザが原因ではありますが、気苦労が耐えず心身ともに病弱になっていたのかも?なんて思ったりもします。

 

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