川口雪篷(かわぐちせっぽう)役を大河ドラマ『西郷どん(せごどん)』で演じるのは石橋蓮司さん!

男が惚れる男の西郷吉之助にどうやら川口雪篷(かわぐちせっぽう)も惚れるっぽい展開になりそうですよ。。。

 

しかし、龍佐民(りゅうさみん)役の柄本明さんに続いて、川口雪篷(かわぐちせっぽう)役の石橋蓮司さんも、これまた違和感なし!ってな感じになりそうですね。(^_^;)

 

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目次

【西郷どん】で川口雪篷(かわぐちせっぽう)役を演じる石橋蓮司は違和感なし!

 

 

 

川口雪篷役を『西郷どん』で演じるのは、日本を代表する俳優、そして演出家でもある石橋 蓮司さんです。

 

なんとキャリア65年!!

そう思うと、まだまだ若いですし、特技は日本舞踊ってだけあって、着物姿が様になるんですよ。

 

演技力があるので、ピシッとした衣装を着ても、だらしな〜い衣装を着ても役にあった雰囲気で着こなしているので、画面ではリアルにその人(役)なんです。

 

川口雪篷役の石橋 蓮司さんにもきっと違和感なしなのでは?と思います。

役柄違和感なし大賞!』は柄本明さんと取り合いになりそうな感じですもん。

 

まずは吉之助が川口雪篷に、すぐさま心を開くということなので、きっと川口雪篷は温かみのある人間だったんでしょうね。

 

役者仲間からは川口雪篷同様、“あたたかい方”と言われている石橋 蓮司さん。

この役は他にはいないくらいのはまり役だと思います。

 

さて、その川口雪篷ですが、実家は代々江戸で勤務していた薩摩藩士の家。

陽明学”を修め、薩摩藩に学者さんとして仕えるようになったそうです。

 

この川口雪篷ですが、お酒が大大大大大大だぁ〜い好きで、ある時、どぉ~してもお酒を呑みたくなっちゃって失敗してしまいます。

 

ある日のこと、島津久光の書物を売ってお金に替え、事もあろうにお酒を買ってしまいましたぁ。。。

もちろん久光は大激怒。

 

ですよねぇ〜。

 

川口雪篷に沖永良部島へ島流しの命が下ります。

流された先は吉之助が流されている同じ沖永良部島。

 

もっと細かく言うと、吉之助がいる和泊村からは、だいたい3kmくらい離れたところにある沖永良部島の西原村というところに川口雪篷はいました。

 

全く同じ場所ではなかったのですが、川口雪篷はわりと好きに動けたみたいで、吉之助の牢に来ては、毎日、書や詩作を教えたりお互いの考えを論じていたそうです。

二人はあった時に即、意気投合したらしいです。

二人のエピソードや逸話は色々残されています。

面白いところを幾つかご紹介します。

 

◎ 間切横目(今でいう警察官)の土持正照が、吉之助は迷惑なのでは?と心配して『川口雪篷に、あまり来ないように言おうか?』と、吉之助に声をかけたそうですが、吉之助は『こんまんまでよか』と、案外歓迎していたらしい。

 

◎ 沖永良部へ島流しというのは、重い処罰のイメージがあるので、つい、悲惨な生活を送っていたのではないか?と想像しますが、川口雪篷は沖永良部でも酒豪で、お酒をいっぱい吞んでは酔っぱらって、そのまま昼夜関係なく庭先に寝てたらしい。

そういった事もあり、吉之助が川口雪篷につけたニックネームが「睡眠先生」。

そしたら、「酔眠(すいみん)先生」がいいと言ったとか。。^^;

 

川口雪篷はこんな感じで島で暮らしていたみたいです。

ちょっとエピソードを聞いただけでも、何だか魅力溢れる不思議な人ですよね。

 

川口雪篷は実在人物!島流しに合った理由とは?

 

川口雪篷の生涯

画像引用元:(川口雪篷 の書巻物)http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/?p=479

 

「川口雪篷(かわぐちせっぽう)」について、歴史に詳しい方はご存知かもしれませんが、あまり詳しくない方には馴染みのない人物なので、“もしかして『西郷どん』の架空の人物?”と思った方もいるのではないでしょうか。

 

いえいえ川口雪篷は実在の人物です。

川口雪篷は、薩摩藩士の川口仲左衛門の4男坊。

 

名前は川口量次郎

後に明治元年12月俊作と改名。

更に、明治5年9月19日、雪篷(せっぽう)と改めました。

 

陽明学を修め、江戸で菊地五山に漢詩を学び、書家でもありました。

書家としての号は香雲。書は唐様(からよう)が得意でした。

 

川口雪篷は沖永良部島に遠島処分になっていますが、処分になった理由には、諸説あります。

 

 

◎ 江戸居付馬廻役だった父の不始末で、連座して沖永良部島に遠島処分になった。

◎ 川口家に伝わる話では、島出身で島津久光の書生として重用されたのを恨まれて、落とし入れられた。

◎ 1862年に、西郷隆盛が沖永良部に流された時に、自分から沖永良部へ行って、吉之助に書や詩作の指導をした。

◎ 酒好きで、藩の書物を質に入れ酒を買い、久光が激怒した。

 

 

一般的には一番下のお酒の諸説が知られているようですね。

 

どの諸説が本当なのかは今となってはわかりませんが、沖永良部島に行ったことは事実のようです。

 

この沖永良部島で西郷吉之助と運命の出会いを果たしました。

二人はすぐに意気投合!!

 

沖永良部島での生活は、それはそれは過酷だったようですが、

川口雪篷の出会いは、いつしか吉之助の精神的な支えとなっていました。

 

吉之助が薩摩に戻った一年後、川口雪篷も帰還が許されました。

二人は島にはいる時に「先に帰還した人が、後から帰還した人を養う。」と約束していて、約束どおり川口雪は、ふら〜っと吉之助の家に現れ、そのまま食客になりました。(やるねー!)

 

吉之助以外にも家族がいるのに、さらっといけちゃうなんて。

なかなかの自由な方ですよね。あまり小さいことは気にしないのでしょう。

 

とはいえ、赦免され鹿児島城下に戻った当初は、親戚宅を転々としていたようなので、ちょっとは、遠慮してたんではないでしょうか。(そうかな?)

 

吉之助は相変わらず国事で忙しくて家を留守にすることが多いので、来客応対、信書連絡など留守を守り、吉之助の子どもたちに書や漢学などの教育も熱心だったようです。

『結構、厳しかった!』とも、伝わっています。

 

また、西南戦争の時には男子は出征しなければいけませんでしたので、家の中は女所帯となり、武村の屋敷が焼亡した後は鹿児島各地を転々としていました。

 

それは大変だった様でしたが、常に西郷一家と苦しい時をわかち、精神的支柱となりました。

 

吉之助の子どもの菊次郎が戦場で片足を失う重傷を負ったときは、義足の手配にかなり心を痛めたのが川口雪篷といいます。

 

また、西南戦争で西郷隆盛死没後に建立された、西郷隆盛の墓碑銘は川口雪蓬の書によるものです。

 

このように西郷家のために心を尽くした生活をこのあとも送ったことがわかるエピソードは、他にもたくさんあります。

 

少し知っただけでも、川口雪篷と吉之助のつながりの深さが伝わって来ますね。

 

川口雪篷は、西郷から賊将の汚名が消えて、維新の功臣として名誉が回復されたことを見届け、明治23年(1890年)に病没しました。

 

そうして、西郷家のお墓地に埋葬されました。

沖永良部島での出会い以降、死するまで西郷家に寄り添った人物。

 

川口雪蓬。享年73歳でした。

 

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吉之助と沖永良部島で運命の出会い

 

沖永良部島で吉之助と出会う

 

川口雪蓬と吉之助は1862年  沖永良部島で出会いました。

 

重複しますが、川口雪蓬の沖永良部島への流罪理由については諸説あります。

親兄弟を見てみると、川口雪蓬の父と兄は続けて不祥事をおこしたので連座して沖永良部島に流罪をされています。

 

お父さんは江戸詰めの薩摩藩士。

馬廻役に就いていたそうなので、決して低い身分ではないようですね。

 

川口雪蓬が沖永良部島にいつ流罪になったかははっきりしていません。

 

吉之助よりずっと前から沖永良部島に居住していたと考えられていますが、一方で、川口雪蓬は西郷隆盛を慕っていて、悪いこともしていないけど、沖永良部島に追いかけていった。という説もあるのです。

 

しかしこの説だと、二人の出会いは、島流し前でないとおかしいですよね。

 

この頃の西郷隆盛は、まだ無名の存在でした。

島津斉彬に見いだされて薩摩藩内や京都などで、一部に知られた存在になりつつありましたが、主君・斉彬の急死で立場が一転したので、この説は考えにくいかと思われます。

 

一般的に言われているのは連座ではなくて、島津久光に仕えていた頃、藩の書物を質にいれてしまい、それをお金替えて焼酎を買って飲んでいたことがバレて流罪になったと言う説です。

 

はっきりとしないですが、沖永良部島では実際に吉之助との出会いを果たしています。

 

久光にとって吉之助は、自分の命に背いたり、強く斉彬をリスペクトしているので、吉之助に意見されると否定されている気分になっちゃったのでしょうね。

 

吉之助は久光に、相当嫌われていましたから、切腹を命じられなかったのが不思議なほどの二度目の流罪。

 

なので二人は罪人として、沖永良部島生活送るので、当初劣悪を極めていたと伝えられています。

 

沖永良部島は海に囲まれているので逃げられませんが、罪人同士の交流は容易にできたようですね。

 

良家で生まれ育った川口雪蓬は大酒のみで性格は偏屈といわれていましたが、一方で、書を得意とし学識が豊かで、吉之助は川口雪蓬の論ずることに心惹かれたそうです

 

吉之助は1864年(元治元年)に赦免され、川口雪蓬も1865年(慶応元年)に赦免されます。

 

川口雪蓬の赦免については吉之助の尽力によるものと考えられています。

しかし、吉之助より川口雪篷の方が長く薩摩を離れさせられていたのは何故でしょうね。

 

川口雪篷が書物を質に入れて酒を買った事よりも、吉之助の方が罪が軽いと久光が考えるのもおかしいので、結局、川口雪篷は忘れ去られていたのかもしれませんね。^^;

 

そうして川口雪蓬は赦免され薩摩に戻り、西郷家を訪ね、そのまま西郷家に住むようになりました。

 

吉之助にとって沖永良部島で過ごした二年間は過酷なものだったと思いますが、川口雪蓬との運命的な出会は吉之助を精神的に支えてくれました。

 

余談ですが、吉之助は川口雪蓬と沖永良部島で出会ったことで、『敬天愛人”(天を敬い、人を愛す)』という人生の目標とした思想をもつ事が出来たそうです。

 

ひとことで「敬天愛人」というと簡単ですが、とても深いことばです。

吉之助がたくさんの出会いと哀しい経験から辿り着いた言葉。

 

之助の本質が語られていると言っても過言ではないでしょうね。

本当に誠実な英雄(ヒーロー)だった吉之助の大事にしていた言葉は、今なお人々の心にかたりかけています。

 

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