大河ドラマ『西郷どん』で登場する、あの有名な『勝海舟』を演じるのは、遠藤憲一さんです。
勝海舟といえば、『江戸城無血開城』を決めた事でも知られていますが、今回はその『江戸城無血開城』も簡単に解りやすく紹介していきたいと思います。
目次
江戸城無血開城を行った勝海舟を遠藤憲一が演じる!
江戸開城(江戸城明け渡し)って聞いたことありますか?
江戸時代末期(幕末)1868年旧暦の3月〜4月にかけて、江戸城の新政府への引渡し(明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた)、そこに至るまでの一連の交渉過程をさします。
戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件なので、交渉前後のエピソードは小説や演劇、映画などの恰好の素材となっていますよね。
その江戸城を無血開城した人が、勝海舟です。
勝海舟は幕府の下っ端役人だったのですが、実によく世の中が見えていました。
その上、顔が広いので、大事な仕事を任されていました。
新政府が江戸を攻めた時、西郷隆盛と話し合い、江戸城を明け渡して江戸を戦場にしないで守り抜くことができたのです。
明治維新で幕府の役人の大勢は仕事を失いましたが、仕事を見つけてあげたり、生活の面倒をみてあげたりしていたそうです。
歴史上の偉大人って、することが違いますよね。
しかも話し方は気風のいい江戸弁だったそうなので、誰からも慕われていたようですよ。
そんな勝海舟を演じるのは人気俳優の遠藤憲一さん。
遠藤憲一さんは、俳優として数々の受賞をされていて、ドラマは勿論、映画、CM、ナレーションなどなど、怖い人の役から優しい人の役まで、どんな役でもなりきって見事に演じる名俳優さんですよね。
最近は見ない日がないくらい活躍されていますよね。
大河ドラマ『西郷どん』では、どんな勝海舟を演じてくれるのでしょうか。
深みのある遠藤憲一さんの演技に期待大です!
勝海舟とは
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
勝海舟は江戸時代〜明治時代にかけて活躍した政治家です。
幕末の時代、鎖国を続けていた日本が開国を迫られ、外国と対等に渡りあうために尽力した人がたくさんいました。
その中の一人が勝海舟です。
勝海舟は1823年江戸の武士の家に生まれました。
生まれた頃は麟太郎という名前でした。
1838年(15歳)父、勝小吉が隠居したので勝家の跡を継ぎ、蘭学を志し永井青崖の下、地理学、後に兵学を研究して自ら蘭学塾も開いています。
家が貧しかったので、日蘭辞書「ヅーフハルマ」を2部筆写して1部を売ったという話は有名ですよね。
剣術は幼少期から島田虎之助に習っていて、直心影流免許皆伝の腕前の持ち主でした。
なので剣術に優れ、蘭学も詳しかったので、江戸幕府の偉い人に目をかけてもらって、長崎で最新の学問や航海術などを学びました。
1853年(30歳)黒船来航に伴い、海からの攻撃に対して国の守り方に関する意見書を提出します。
提出した内容がとても適格だったので、阿部正弘に認められたそうです。
オランダ語も話せたので長崎海軍伝習所教頭となって薩摩藩主・島津斉彬の知遇も得ました。
長崎留学中に未亡人と、屋敷に奉公に来ていた若い女中などなど、判明しているだけで、妾の女性8人との間に子を設けています。
しかも正妻・民子と妾が同居していてたみたいですが、不思議と波風が立つことはなかったというのがびっくりですよね。
1855年(32歳)長崎海軍伝習所で蘭学や航海術を学びました。
蘭学はもともと得意ということもあり、先生として教える側にも回っていたそうです。
1860年(37歳)日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節となり、〝咸臨丸(蒸気船)〝の実質的な艦長に就任。
1万円札で有名な福沢諭吉とジョン万次郎らと一緒に37日かけて渡米し、自分の目で直接、外国を見てきました。
当時は海外に行く人はいない時代だったので、この渡米は本当に凄いことです!
1863年(40歳)
帰国後、一時海軍から遠ざかりますが砲術師範など務めた後、将軍・徳川家茂に直訴し、神戸海軍操練所を創設。
欧米列強に対抗しようと幕府の海軍でない日本全体の「日本海軍」の建設を目指しました。
この設立が幕府から認められました。
この時期、脱藩していた坂本竜馬ら土佐藩士も受け入れて、航海術や操船技術を教えています。
1868年(45歳)幕府軍と新政府軍との間で、戊辰戦争が始まり、徳川慶喜に戦いの収拾を任され、戦わずに江戸城を開城する事に成功。
これが世に言う「江戸開城(江戸城明け渡し)」です。
江戸の住民150万人の命と家屋、財産が戦火から救われたのです。
1872年(49歳)海軍大輔(かいぐんたいふ)および海軍卿(かいぐんきょう)に任命されました。
他、多数の官職を授かりましたが、台湾出兵に不満を覚えて職を全て辞任しています。
西南戦争で、逆臣となった西郷隆盛の名誉回復に奔走し、天皇の許可を得るなど上野の銅像建立も支援しました。
明治時代になると勝海舟は、政治に参加するだけではなく、海軍の発展、現在の東洋大学や専修大学の発展に力を入れる教育に熱心な面もある人でした。
1877年には伯爵となり、そして1888年には枢密顧問官。
明治政府の欧米寄りを批判して、清国との提携を説き、日清戦争には反対であったといわれています。
足尾銅山鉱毒事件での政府対応も手厳しく批判し、田中正造を支援しています。
1899年(76歳)お風呂から上がってブランデーを飲んで脳溢血で倒れて死去。
最期の言葉は名言としてよく知られている「コレデオシマイ」だったそうです。
勝海舟は広い視野を持って世の中を見る事ができた人で、坂本竜馬、西郷隆盛らを開眼させた人物の一人だと思います。
幕府の海軍ではなく、日本の海軍の建設に務めるようになり、幕府や藩などを越えた人たち(西郷ら)と交流を持つ人物でした。
勝海舟は当時、幕府や新政府だと争っていると、その隙に外国の植民地にされてしまうと考えていました。
ですから、江戸が戦火となる事は避けたかったといいます。
全国に内戦が広がっている間に外国に入り込まれる恐れがありますからね。
西郷と勝の考えが同じであり、かつ2人の立場が江戸城無血開城を決断させたという事ですね。
江戸城無血開城を解りやすく紹介!
江戸の無血開城は、1868年3月14日に行なわれました。
幕府陸軍総裁の勝海舟と官軍(新政府軍)参謀の西郷隆盛との会談によって江戸城の新政府への引渡しを決めた事です。
この時、すでに鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍(官軍)に破れており、新政府軍は、徳川家が持つ広大な所領を奪います。
勝海舟と西郷隆盛の会談が終わり次第、江戸城への総攻撃の準備に取り掛かっていました。
薩摩藩屋敷の一室で勝海舟と西郷隆盛は会談していたそうです。
幕府側の勝海舟は江戸が戦火となれば、日本国は終わってしまうと心配していました。
そこで、新政府軍参謀の西郷に「徳川家に対する寛大な処分を行うならば、抵抗することなく江戸城を明け渡す。」と提案したのです。
それに対し西郷は「私が一身にかけてお引渡しいたします」と答えた事で、100万人以上が暮らしていた江戸の町は無事だったのです。
それが江戸の無血開城です。
西郷と勝の考え方が同じだった事が、江戸城無血開城を早く決断させたという事ですね。