薩摩の鉄砲玉!といったら、益満休之助。
鉄砲玉とは、一度行ったきり帰って来ないという事。
益満休之助はまさに鉄砲玉のよう。
生きて帰れる保証のない危険なミッションを与えられ、命懸けでやってのけた男です。
益満休之助は、西郷に極秘の命を受け江戸へ!
しかし捕らえられ命の危険にさらされます。
しかし勝海舟によって命拾いし、その勝から新なミッションが与えられます!
それは、敵地に乗り込む山岡鉄舟を無事駿府まで送り届けけるという重要なミッション。
成功しても失敗しても殺害される危険は極めて高い・・・
とにかく覚悟が必要な役目でしたが、なんとやってのけます。
しかも、山岡を西郷の所まで連れていき面会を成功させた上、無事、勝の元へ連れて帰りました!!
この活躍を知れば、益満休之助の存在を見逃すことはできません。
目次
益満休之助とは
益満 休之助(ますみつ きゅうのすけ)は、幕末の薩摩藩士です。
薩摩国鹿児島高麗町生まれ、天保12年(1841年) に益満行充の次男として生まれました。
幼名は新之助。諱は行武。
益満休之助は、江戸で活動する薩摩藩の尊王攘夷派。
1860年、通称・虎尾の会(清河八郎や山岡鉄舟を中心に結成した尊王攘夷党。)に加わり、翌年の1861年には伊牟田尚平らとヒュースケン(米国通訳)を暗殺したことは有名です。
1867年秋。
西郷隆盛の指示で江戸に赴き、浪士数百人を集め、江戸市中を撹乱して幕府や庄内藩を挑発しました。
それは意図的に市内を混乱させ、武力衝突を起こしたものです。
この急報が大阪城に届けられ憤激したのは幕臣、会津、桑名藩兵。
徳川慶喜は抑えが効かなくなり討薩を命じ、鳥羽伏見の戦いが勃発しました。(戊辰戦争の初戦のことを言います。)
薩摩藩の江戸藩邸が、江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、砲火により焼失。
これを、江戸薩摩藩邸の焼討事件と言います。
益満休之助は首謀者として江戸で捕縛され、処刑されかけましたが勝海舟の執り成しでセーフ。
助命されました。
1868年3月、新政府軍の江戸総攻撃の際には、勝海舟の命で幕府の使者、山岡鉄舟を駿府総督府へ送る大役を務めました。
そして薩摩兵の群れを通り抜け見事、西郷隆盛のところまで導くのです。
西郷隆盛と勝海舟の江戸無血開城を巡る交渉が実現したこの快挙から2か月後の同年5月、益満休之助は上野に立てこもった彰義隊(しょうぎたい)との戦いの渦中にいました。
薩摩藩は正面黒門口(最も激烈な戦闘だった所)の攻撃を担当。
50名近い死傷者を出しています。
益満休之助は右脚に銃弾を受け、不運にも傷から菌が入り、破傷風にかかってしまいます。
そして横浜の軍陣病院で治療を受けましてが、死亡しました。
享年28。
若すぎる死でした。
吉之助が極秘の命を与え江戸へ!
1867年、伊牟田と益満休之助は西郷隆盛の密命を帯び、江戸へ赴きました。
本拠を江戸薩摩藩邸にかまえ、約500名の浪人を集めました。
そして浪人を指導して江戸市中撹乱(強盗・放火等の破壊混乱工作)を行いました。
庄内藩は江戸取締役(江戸市中の警備みたいなもの)を務めていました。
1868年、薩摩佐土原藩(現宮崎県)が、庄内藩(駐屯所)への銃撃事件を起こします。
これは、薩摩藩・西郷隆盛の罠。
業を煮やした庄内藩は、
・(薩摩藩の起した)江戸市中撹乱を収めること。
・薩摩藩に対する報復。
を目的に、1868幕府軍(庄内藩が主力)として三田の江戸薩摩藩邸を襲撃。
焼打ちを行いました。
いわゆる江戸薩摩藩邸の焼討事件です。
これが、戊辰戦争のきっかけとなる事件になるのですが、
その狙いはというと、
・幕府の施政を妨害。
↓
・挙兵させる。
↓
・江戸を中心とした関東地区を撹乱する。
↓
・民衆の不満を煽る。
・尊皇攘夷の大義名分を得る。
・新政府実現へのきっかけとする。
といったところにありました。
そして、予想通りに庄内藩軍を主力とする幕府軍が江戸薩摩藩邸を襲撃。
知らせはすぐに大坂城に至り、会津藩及び桑名藩を刺激して、鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
庄内藩は伊牟田と益満休之助にとって、八郎と虎尾の会を苦しめた藩。
益満休之助は、八郎から庄内藩のことを聞かされていたので、ある程度は知識があり、そして対庄内藩意識もあったのでしょう。
そういった事からも益満休之助は、西郷隆盛にとって江戸市中撹乱作戦を任せられる適した人物だったのではないでしょうか。
そして結局、鉄砲玉益満が穏便に事を終わらせた?
江戸薩摩藩邸焼討ち事件により、益満休之助は首謀者として捕えられ処刑される事となります。
しかし処刑直前に、「いずれ役に立つ男。」と、益満休之助は勝に身請けされ、自宅に匿ってもらう事となり命は助かりました。
その3ヶ月後、薩長軍(5万人)が江戸攻めをする直前、山岡鉄舟は上野で謹慎中の徳川慶喜の恭順の意を伝え、江戸を戦火から防ぐための交渉を目的に駿府にいた官軍・西郷隆盛に会いに行く許可を、勝に願い出ました。
そして勝の計らいで、駿府までの道中の案内役に薩摩藩の益満休之助に同行を依頼し、そこで山岡と益満休之助は再会しました。
なぜ勝は益満休之助を同行させたのかというと、道中には薩摩藩兵士、長州藩兵士が多くいて、その中を進まなければならないといった状況。
幕臣の山岡一人ではそれだけ危険。ということです。
しかし危険なのは益満休之助も同じです。
生きて帰ってこられる保証がないのです。
つまり鉄砲玉。
一度死にかけて、勝に救ってもらった命とはいえ、このミッションは過酷ですよね。
2人は命をかけ、西郷が駐留している駿府(静岡市)へと向かいました。
そこで、薩摩藩士の益満休之助が「対薩摩長州兵調整役」として活躍するのです。
六郷河(現東京都と川崎市県境)~神奈川駅(現横浜市)までは 山岡が先頭。
次に、長州藩士が多くいた神奈川駅~ は、益満休之助が先頭。
そしてその中で、「薩摩藩!」と名乗りながら、2人で5万人の敵陣の間を進みました。
薩摩の人は訛りが強く独特の言葉を使うので、他人が成りすますのは極めて困難。
真性の薩摩人である益満休之助だからこそできる役目というわけです。
「薩州藩人でござる」と言って通じたのです。
途中斬られかける危険な場面もありましたが、無事駿府までたどり着くことが出来、山岡は西郷と事前交渉を成功させました。
それは益満休之助が一緒にいたからこそ、なし得たことです。
地味ではありますが、江戸無血開城に重要な役割を果たしたのです。
しかし、たくさんの兵士がいる中を通り勝のところまで生きて帰らなければ、まだ成功とはなりません。
実際帰路では、品用駅番兵に質問され、山岡の胸を狙った発砲事件が起きました。(奇跡的に弾は雷管のみ発して不発。)
とても緊迫した状況であったことは間違いなく、無事に行って帰って来ることがどれだけ難しいか…。よくわかります。
後に、歴史としてみると、イギリス公使パークスの圧力が背景にあったとされています。
江戸総攻撃を企図する新政府に対し、強い憤りを示していたパークス。
西郷は勝との会談の時には非戦の方針を決めていた。とされていますが、戦争中止のタイミングは極めて難しく、山岡の話は丁度よかったのでは?と思ったりします。
とにもかくにも、益満休之助がいなければ西郷に事前に会うことはできなかったかもしれません。
江戸城無血開城が成立し、穏やかな結果となった裏では、山岡と益満休之助の命をかけたこの行動があったのです。
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