大河ドラマ『西郷どん』で、剣・書・禅を極めた「山岡鉄舟」役を演じるのは、最近の大河ではすっかりお馴染みとなった、元オリンピック選手の藤本隆宏さんですね!!

 

数々の逸話をもつ山岡鉄舟ですが、『西郷どん』では、江戸城無血開城の前に西郷吉之助を相手に一歩も引かず論戦を繰り広げ交渉する、という段階で登場して、勝海舟と江戸を戦火から救い活躍します。

 

その後はあまり出ることはないのかなぁ?と思われますが、今回は「幕末の三舟」の一人とされる「山岡鉄舟」の生涯について紹介していきたいと思います。

 

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目次

山岡鉄舟役は藤本隆宏!元オリンピック選手?!

 

 

大河ドラマ『西郷どん』で山岡鉄舟役を演じるのは、元オリンピック競泳選手の藤本隆宏さんです!

 

現在は俳優として活躍されていますが、ソウルオリンピック、バルセロナオリンピック2大会連続出場されている方なんですよね!

 

しかも、バルセロナオリンピックでは、400m個人メドレーで8位入賞!

決勝進出を果たしたんですよね~。

いや~、すごい!これは日本人初の快挙でした!!

 

・・・って、スポーツにあまり興味のない方は、芝居はどうなのよ?!元スポーツ選手だったら演技はできるの?なんて、思われてるかもしれませんが、藤本隆宏さんの演技が、これまたいいんですっ!!

 

たくさんの作品で藤本隆宏さん独特の良い味出してますからねー。

きっと顔を見たら『知ってる!』となる人も多いのでは?と思います。

 

NHK大河ドラマ『真田丸』にも出演されていましたよね。

たしか藤本隆宏さんは。堀田作兵衛役。

 

役柄は、農民と武士の掛け持ち的な立場で、農業を愛してやまない心優しく、男気溢れる真っ直ぐな性格がウリ!!っていう役。

 

台詞を話さなくても、そこに立って居るだけで、伝わってくる感情…。これが不思議。

こういったところが、藤本隆宏さんの魅力の一つであり、今回の山岡鉄舟役も一味違った雰囲気を出してくれると思いますねー。

 

あと、魅力と言えば、元競泳選手というだけあって、とにかく筋肉がかっこいい!!

あ、そういえば鈴木亮平さんも筋肉すごいですよね。(*´ω`*)

 

それに、藤本隆宏さんがふんどし姿で魅了したのは、やっぱりNHKのドラマ『坂の上の雲』広瀬武夫役。

このときの筋肉美は本当にすごい!!

 

あ、余談ですが、藤本隆宏さんはふんどしだけど、鈴木亮平さんは、変態仮面でこれまた何姿?か、よーわからん姿で魅了(?)してました。

 

しかし、まさに藤本隆宏さんって、筋骨隆々。。。

仁義に熱くて、ロシア人に最も愛された駐在武官を好演しています。

流暢なロシア語を話していたのも印象的でした。

 

藤本隆宏さんを見たい方は他にも、

・ドラマ『仁』の西郷隆盛役。

・大河ドラマ『平清盛』伊藤忠清役。

・朝ドラ『花子とアン』梶原総一郎役。

 

でも見ることができますよ。

どれも、貫禄あって素敵にその人物を演じています。

 

さて今回の大河ドラマ『西郷どん』では、山岡鉄舟役。

山岡鉄舟を知らない人も、藤本隆宏さんが演じる山岡鉄舟を見たら、惹かれちゃうのではないでしょうか。。。

 

貧しく育った山岡鉄舟の人生

 

貧しく育った山岡鉄舟の人生

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

幕末維新期「幕末の三舟」と言われているのは、勝海舟高橋泥舟(でいしゅう)、そして山岡鉄舟(てっしゅう)の三人です。

中でも勝海舟が有名ですが、江戸無血開城は、この三人がいたからこそ成ったのです。

 

特に山岡鉄舟は、無血開城の立役者で、西郷隆盛と勝海舟の会談の前交渉に命をかけたのです。

 

今回はそんな山岡鉄舟の生い立ちをから見ていきたいと思います。

 

天保7年(1836)御蔵奉行・小野朝右衛門高福の子として、鉄太郎(山岡鉄舟)は江戸で生まれました。

鉄太郎は、9歳の時から真陰流剣術を学びました。

 

弘化2年(1845)父が飛騨郡代(飛騨 (岐阜県北部) を中心とする幕府直轄領を支配した地方官の職名。)となったため飛騨高山に移住し、父は鉄太郎にスパルタ教育を施しました。

 

さて、そのスパルタ教育とは、何かというと。。。

 

◎「剣」

北辰一刀流・千葉周作門下の井上八郎を家に招き稽古を受けました。

 

◎「書」

弘法大師流入木道51世・岩佐一亭から学びました。

 

そうして「剣」の才能は開花し、「書」も15歳で52」世を継承。

一楽斎』と号するまでになりました。

 

そして鉄太郎は、15歳の時に「修身二十則」という20の掟を自分の戒めの為に作っています。

この修身二十則には、

 

・“嘘を言うな”

・”父母のご恩を忘れるな ”

・“自分の知らないことは誰でも師と思って教えをうけろ”

・“己の善行を誇り顔して他に知らせるな。わが行いはすべてわが心に恥じぬために努力するものを心得よ”

 

…など。本当に15歳?!と驚くような深い内容の掟も記されています。

 

◎「禅」(17歳~)

この修行を始めた一年の間に相次いで両親を亡くし、突如困窮生活に陥ります。

 

安政2年(1855)「剣」の才能を見込まれ、師の援助で講武所に入ることとなり、5人の兄弟と江戸に戻ることになりました。

 

異母兄の小野古風の所へ身を寄せた鉄太郎たちでしたが、この異母兄は酒癖が悪く冷たい人で、暴力を振るう事もあったそうです。

 

弟たちを暴力から守り、末の弟はまだ乳飲み子だったので近所に乳を貰いに回り、夜は重湯を作ったりと、とても苦しい生活を強いられ、「ボロ鉄」とあだ名がつくほどでした。

その後、苦渋の決断で、弟たちを旗本の養子に入れる事となるのです。

 

それから鉄太郎は「剣」の修行を再開。

千葉周作の玄武館に入門します。

 

同時期、入門した忍心流槍術の山岡静山が急死。

鉄太郎は静山の弟・高橋泥舟に請われて山岡家の婿養子となり「山岡」姓になりました。

 

それから山岡鉄太郎は剣術稽古に取り組み、玄武館で凄腕となっていきます。

向かうところ敵なしだったので、相手になる者は居なかったそうです。

 

そういった事もあり、あだ名は「ボロ鉄」から「鬼鉄」へ。

講武所の世話役として取り立てられました。

 

さて、山岡鉄太郎というのは、規格外の大男でした。

身長188㎝・体重105㎏!!!

 

確かに強いでしょうね。。。

一説によると「武士道」という言葉をつくったのは24歳の山岡鉄舟である。とされています。

 

武士道とは、

“ 神道でも儒教でも仏教でもない、この3つが融和してできた思想であり、中古の時代から主として武士の階層においていちじるしく発達してきたもの 

と表されています。

 

そして、混迷する日本国を嘆き、安政の大獄を機に講武所の清河八郎と尊王攘夷を掲げた「虎尾の会」を結成しました。

 

文久3年(1863)将軍・徳川家茂の上洛にあわせ設立した浪士組に参加し、浪士組取締役に任じられます。

 

そして、清河八郎と浪士組を率いて上洛を果たしましたが、幕府が清河八郎の動きに警戒を抱き、呼び戻しを命じてやむなく江戸に帰参。

 

その後、清河八郎暗殺。

山岡鉄太郎は謹慎処分となります。

 

そうして山岡鉄太郎は、日本が尊王攘夷派と佐幕派に分かれて激動の時代を迎える最中、活躍の場を完全に失っていました。

 

それでも「」への情熱は消えず、「三羽烏」の異名を持つ中西派一刀流の浅利又七郎と試合を行います。

 

体躯が勝っていたことや過去に「鬼鉄」と呼ばれていたこともあり、自信を持っていた山岡鉄太郎でしたが、気迫に負け金縛り状態。

全く動くことができず、その場で改心し、浅利又七郎に弟子入りする事になります。

以来、稽古に励みました。

 

それでもなぜか、浅利又七郎との稽古となると、打ち込もうとしても後ずさり…。一歩が出ず…。を繰り返していました。

 

慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いを受け、山岡鉄太郎は精鋭隊歩兵頭格(幕府要人や江戸市中警護を任務とする。)として復帰。

 

徳川慶喜の身辺警護にあたりました。

新政府軍が江戸城攻略を目指し、東上を開始。

 

勝海舟が西郷隆盛との会談を図り、この使者を高橋泥舟に依頼しましたが、高橋は義弟の山岡鉄太郎を推薦しました。

 

山岡鉄太郎も事態打開に新政府軍への恭順だっ!!自分が赴き交渉したい!!と、幕府重臣に相談していたこともあり、勝海舟は山岡鉄太郎が相応しいと判断し、大役を任せることにします。

 

そうして事前交渉に山岡鉄太郎が選ばれました。

江戸の命運がかかった大一番。

 

使者となった山岡鉄太郎は、街道にひしめく新政府軍の中を「朝敵・徳川慶喜が家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大声で堂々と駆け抜けていきました。

 

西郷隆盛との事前交渉では、降伏した後の徳川慶喜を備前藩に預けるかどうかで意見が対立しましたが、意見を曲げず「立場が違って西郷先生が私ならどのようにご返事なさいますか?」との切り返しによって、西郷隆盛をうならせたのでした。

 

正式な処分案は勝海舟との会談に持ち越されましたが、この事前交渉でその後の会談はスムーズに進み、条件を少し手直しする程度で済みました。

 

会談後、西郷隆盛は、

金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。

と、山岡鉄舟を賞賛しました。

 

明治維新後、山岡鉄舟は徳川宗家の16代当主・徳川家達に従い駿府に下り、静岡藩の藩政に関わります。

 

そして、牧之原台地開墾での「」の生産(幕臣の救済事業)を助言。

現在の「」の名産地、静岡県の原型を作りました。

 

明治2年(1869)明治天皇の京都行幸の時に天皇から手土産の相談を受けた山岡鉄舟は、山本海苔店に依頼したところ、そこで「味付け海苔」が創案されたのでした。

その後、廃藩置県に伴い新政府に出仕し、静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令などを歴任。

 

明治5年(1872)に西郷隆盛の希望で、山岡鉄舟は明治天皇に10年間の約束で侍従として仕えます。

 

侍従時代には、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇を諫言して反省させたり、明治6年(1873)皇居仮宮殿が炎上した時には、いち早く駆けつけるなど、相変わらず豪胆なエピソードを残しています。

 

そしてその10年後の明治15年(1882年)、西郷隆盛との生前の約束どおり山岡鉄舟は引退。

明治16年(1883)山岡鉄舟は維新に殉じた人々の菩提を弔うため、全生庵を建立します。

 

」は頼まれたら書き、生涯に100万枚の揮毫を残したとも言われています。

 

有名どころで言うと、あんぱんで有名な「木村屋」の看板の書。

これは山岡鉄舟によるものです。

 

」においても印可を与えられるほどまで極め、「」では天龍寺で座禅した時に悟るところがあったといいます。

 

そして、師である浅利又七郎と再戦し、迷いの消えた山岡鉄舟を見るなり「お前は師たる私をすでに越えた」と褒め、その場で一刀流夢想剣の認可を与えたと言われています。

 

明治18年(1885)一刀流小野宗家から道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承。

一刀正伝無刀流を開きました。

 

明治20年頃山岡鉄舟は体調を崩し、勧告に従って「絶筆」と称し揮毫を基本的に断るようになっていましたが、全生庵を通じた依頼は例外として引き受けました。

 

といっても、この例外だけで8ヶ月間に10万1380枚書き、剣術道場の建設のため、布団の上で扇子4万本の揮毫をしました。

 

謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでいた山岡鉄舟。

貧乏で困った人が助けを求めてくると、その本箱からお金を取り出して惜しげもなく与えたそうです。

 

謝礼は全部人におやりになるのですか」と尋ねると、山岡鉄舟は「字を書いて礼を貰うつもりはないが、困った者にやりたいので、くれるというものはもらっているだけさ」と答えたという。

 

明治21年(1888)、見舞客が訪れる中「そろそろだな」と言い死装束に右手に扇子、左手に数珠、懐にはお経をともなって皇居の方角へ向かって座禅を組み、そのままの姿で大往生されたのだそうです。

 

人の為に生き、自分は貧乏な暮らしを続けた山岡鉄舟。

死因は胃癌。享年53。

 

山岡鉄舟の葬儀は豪雨の中で執り行われ、明治天皇の内意もあって葬列は四谷の自邸を出たあと、皇居の前で10分ほど止まり、明治天皇は高殿から葬列を見送り、山岡鉄舟に別れを告げました。

 

その後、全生庵での会葬者は5千人にも上り、門人たちの中には、殉死の恐れがあり警察に保護されたり、全生庵の裏山で殉死寸前で発見されたり、止められた者、実際に墓前で割腹して殉死した者までいたそうです。

 

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西郷との交渉にて山岡鉄舟は斉彬を引き合いに・・・

 

西郷との交渉にて山岡鉄舟は斉彬を引き合いに出す

 

さて、山岡鉄舟が西郷との面会の際、斉彬の話で例えたという内容についてお話したいと思います。

運命の慶応4年(1868年)3月9日。

 

山岡鉄舟は駿府(静岡県)で西郷隆盛との面会にこぎつけました。

そこで山岡鉄舟は、勝海舟から託された親書を西郷隆盛に渡しました。

 

その提示条件は以下のものでした。

 

・江戸城を明け渡す

・城内の兵士を向島に移させる

・兵器を全て差し出す

・軍艦も全部引き渡す

・将軍慶喜公の身柄を備前藩に預ける

 

山岡鉄舟は殆ど呑みましたが、最後の慶喜の身柄についてだけは不承知でした。

幕臣として納得ができず、涙を流し切々と訴えました。

 

もし立場が反対で、お仕えしている島津のお殿様が同じ条件を出されて西郷さんはのめますか?同じ立場でも、島津様を人質になさると言うのですか?

 

当初こそ、“ 天皇の命令 ”を盾に、幕府の言い分を蹴ろうとしていた西郷隆盛でしたが、そう言われると(斉彬の事になると)反論できないのです。

 

西郷も元々は情に厚い男なので、主君と幕府を思う山岡鉄舟の一言に心が動かされました。

 

西郷は納得し、山岡鉄舟に酒を進め、通行許可証を渡しました。

その対応に山岡鉄舟は感謝し、涙したそうです。

 

そして急ぎ勝海舟の元へ戻り、山岡鉄舟立ち会いのもと話はスムーズに進み、西郷隆盛と勝海舟の会談は成功。

江戸城無血開城の背景には山岡鉄舟の奔走があり、江戸は戦火から守られたのでした。

 

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