幕末四賢候の一人、山内容堂と土佐の脱藩藩士の坂本龍馬。

同じ土佐藩の藩主と藩士だったら出会っていたりするのでしょうか。

 

大政奉還を語る上ではずせない二人。

気になります。

 

酒と風流をこよなく愛した山内容堂。

しかも側室10人超えっ↑↑

 

今の時代では考えられないので、夢のある話ですよねぇ〜。(笑)

そんな山内容堂はどんな人生を歩んだのか。見ていきたいと思います。

 

 

スポンサーリンク
 

 

 

目次

土佐十五藩主・山内容堂

 

山内容堂

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

土佐藩15代藩主・山内容堂(豊信)は、幕末の名君の一人に数えられる人物です。

父は10代藩主・山内豊策の五男・豊著(とよあきら)

 

生母は下級武士の下士平石氏の娘で、豊著の側室でしたので、家督を継ぐ序列でも一番下の格式で、土佐城下で育ちました。

 

後に四賢侯の一人と称され、明察力に優れた人物として有名な山内容堂ですが、若い頃はあまり勉学せず、酒ばかり飲んでいました。

 

そんな時、13代藩主・山内豊熈、14代藩主・山内豊惇が相次いで亡くなるのです。

当時、豊惇の弟はまだ3歳と幼く、断絶の危機に。。。

 

そんな時、薩摩藩の助力と幕府の特別なはからいで、当時22歳になっていた分家の山内容堂が15代藩主に迎えられました。

 

豊惇の弟は16代藩主・山内豊範になります。

そして山内容堂は、今までの時間を取り戻すかのように読書に励みました。

 

因みに、山内容堂(やまうち ようどう)という名は、隠居後の名で、元服後から隠居までは豊信(とよしげ)と名乗っていました。

 

藩主となった山内容堂は、分家の出ということもあり、門閥・旧臣による藩政を嫌い、土佐の革新派の中心人物だった吉田東洋を起用したのです。

 

旧臣の家老を押しのけ、吉田東洋を参政職に任じ、大胆な藩政改革を推し進めていきます。

 

その噂は諸藩にも聞こえ、幕政と将軍継嗣問題にも積極的に介入し、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬と、幕末の四賢侯と称され、共に幕府主流派と対立します。

 

将軍継嗣問題は、彦根藩主・井伊直弼が大老となり、将軍世子は徳川家茂に決まりました。

そうして井伊直弼は、一橋派を弾圧していきました。

世に言う「安政の大獄」です。

 

それが元で、主である山内容堂は隠居・蟄居することとなります。

その後、桜田門外の変によって井伊直弼が暗殺されて政局はひっくり返り、山内容堂も謹慎が解かれて藩政を掌握し復帰しました。

 

山内容堂の謹慎中に土佐藩内では、武市半平太/瑞山を首領とする尊王攘夷派・土佐勤王党が台頭し、吉田東洋と対立。

土佐勤王党の党士に吉田東洋は暗殺されてしまいます。

 

八月十八日の政変以後、尊王攘夷派の勢いが衰えると土佐勤王党を弾圧。

公武合体派の山内容堂は、吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の大粛清に乗り出し、武市半平太を切腹させ土佐勤王党を壊滅させました。

 

山内容堂は尊王意識の伝統がある山内家で生まれ、徳川家にも強く恩義を感じていたので、朝廷と幕府を一体化させる公武合体を実現する道を模索し続けましたが、討幕のうねりを止めることはできませんでした。

 

そして、吉田東洋の甥の後藤象二郎を信頼して参政とし、後藤象二郎の提言に耳を傾けていきます。

 

後藤象二郎も時代を読み、藩政や幕政に奔走しながら元土佐藩士である坂本龍馬と出会い、坂本龍馬発案「船中八策」を後藤象二郎は山内容堂に進言します。

 

更に後藤象二郎は「大政奉還論」を聞いて賛同し、山内容堂に自分の意見として大政奉還論を提言するのです。

 

山内容堂は大政奉還論を妙案と考えて徳川慶喜に建白し、徳川慶喜は朝廷に大政奉還を上奏。

徳川幕府の時代を終わりました。

 

明治維新後、新政府で内国事務総裁に就任。

元家臣、領民の身分の人達と仕事をする気になれず、辞職します。

 

その後は何人もの妾を囲って、酒と女と詩に明け暮れ、柳橋や両国で豪遊する姿を度々見られています。

 

自称「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と言うほど、酒好きで、酒癖の悪さも有名でした。

(山内容堂いわく、鯨の様に酒を飲むのは自分だけだ!と言っていたそう。)

 

また、新政府でも圧倒的に土佐藩からの要職者は少なく、薩長に対抗できる者がおらず、武市半平太を切腹させたことを悔やんでいたと言います。

 

長年の不摂生のせいか1872年、脳溢血で倒れ46歳の生涯を終えました。

 

幕末の幕末四賢候とは

 

幕末の幕末四賢候とは

 

幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)は簡単に言うと派閥仲間で、幕末動乱期、存在感を誇示して活躍した4人の大名を言います。

 

幕末四賢候メンバーは、下記の4人です。

 

・福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽)

 

・土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂)

 

・薩摩藩第11代藩主・島津斉彬

 

・宇和島藩第8代藩主・伊達宗城

 

島津斉彬は安政5年7月(1858年8月)に急死しますが、その後も他の三侯は公私にわたる会議や会合に、薩摩の国父と呼ばれた島津久光を加えたので、島津久光を四賢候に加える場合もあります。

 

そうした会合は俗に「四侯会議」「四賢侯会議」などと呼ばれるようになりました。

 

幕末の四賢侯」という言い方は歴史教科書で使われている表現で、当時の本人たちが活躍していた時代から昭和の戦前頃までは、単に「四賢侯(しけんこう)」と呼ばれていました。

 

スポンサーリンク
 

山内容堂と坂本龍馬は出会っていなかったのか?

 

山内容堂と坂本龍馬は出会っていなかったのか?

 

さて、今回の大河ドラマ【西郷どん】でも山内容堂は登場しますが、坂本龍馬とは会っていない。というシーンがあります。

 

坂本龍馬の登場するテレビドラマや小説などでは、御前試合や勝海舟に付き添うシーンで、山内容堂と坂本龍馬が面識があるように思いますが、実際は山内容堂と坂本龍馬が会ったという記録は存在しません。

 

西郷どん】でもその様な設定になっていますね。

実は、山内容堂は誰にでも気さくに会うような殿様ではなかったようなんです。

 

坂本龍馬が唱えた大政奉還論も、後藤象二郎から進言できたのであって、坂本龍馬が山内容堂に直接提言することはできなかったと思われます。

 

しかし坂本龍馬が暗殺されなかったら、新政府の要人として出会っていそうですね。

少し違ったタイミングで亡くなってしまったり、出会ったり出会わなかったり・・・

 

運命なんでしょうか。。。

客観的に見ると不思議に思える事ってありますね。

 

大河ドラマ【西郷どん】あらすじ(ネタバレ)1話~最終回まで!

 

大河ドラマ【西郷どん】キャスト表!

 

【西郷どん】坂本龍馬の近江屋事件と寺田屋事件(騒動)の違いは?

 

スポンサーリンク