孝明天皇を知れば幕末の動きが、より解りやすくなると言われています。

とはいえ、大河ドラマ『西郷どん』で孝明天皇は「天子さま」と呼ばれて、名前ではちょくちょく登場していますが、何となく存在感が…。

 

しかし、明治維新へ突き動かしたのは、孝明天皇の一挙一動が少なからずも影響を与えたとされています。

 

36歳という若さでこの世を去ることとなった孝明天皇。

死因ははっきりしているにもかかわらず、暗殺されたんじゃない?と疑われています。

 

果たして本当に孝明天皇は暗殺されたのでしょうか?

そしてもし暗殺されたのであれば犯人は一体誰だったのでしょうか?

紐解いていきましょう。

 

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目次

孝明天皇とは 生涯を簡単に年表にて紹介!

 

孝明天皇の生涯

 

では、孝明天皇の歴史を簡単に年表にまとめてみたいと思います。

 

・1831年7月22日

仁孝天皇の第四皇子として誕生しました。母は藤原雅子。

煕宮」と命名され、養育係は近衛忠煕

 

余談ですが近衛忠煕は、妻が島津斉彬の叔母。

薩摩藩にはそんな縁もあり色々と協力してくれたお方です。

 

記憶にあるであろうところで言うと篤姫は、近衛忠煕の養女になって、徳川家定に嫁いでいますよね。

 

・1835年11月8日

親王宣下を受けて「統仁親王」となる。

 

・1840年4月16日

立太子を受けて「皇太子」となる。

 

・1846年2月21日

仁孝天皇 崩御。

 

・1846年3月10日

践祚。孝明天皇誕生。

 

・1852年11月3日

孝明天皇の第二皇子として、後の「明治天皇」である「祐宮(さちのみや)」様が誕生しました。

 

・1854年3月31日

日米和親条約締結。

 

・1854年5月2日

内裏が炎上し、避難した孝明天皇を目にした京都市民は「柏手」をうち祈りをささげました。

 

・1858年7月29日

日米修好通商条約締結。

 

・1858年10月

戊午の密勅」が起こる。

大老 井伊直弼による「安政の大獄」が始まりました。

 

・1858年11月

徳川家茂14代将軍に就任。

 

・1860年12月26日

和宮降嫁が持ち上がる。

 

・1863年

徳川家茂京都へ。

孝明天皇→賀茂神社と石清水八幡宮へ行幸。

八月十八日の政変」も勃発。

 

・1867年

崩御。

宝算36歳。死因は天然痘。

 

孝明天皇の存在は幕末に必要だったのか?

 

孝明天皇の存在は幕末に必要だったのか?

 

孝明天皇は、勉強好きで、「学習院」を創設したことでも有名な方ですが、政となると、何となく朝廷・公家は徳川幕府の元にあるようなイメージがあって、そもそも思想とかあるの?と疑問を抱かれる方も多いと思いますが、孝明天皇は、外国を嫌いかつ強い「攘夷」思想を持っていました。

 

孝明天皇が在任した頃の情勢は、

・欧米列強がアジアに進出。

・日本が開国を迫られた。

このような時期。

 

1858年に老中・堀田正睦が米との通商許可を求めた時も、開国に反対し勅許を与えませんでした。

 

幕府が開国を認める条約を朝廷の許可なしに結んだときは憤慨したので、部下には怖い存在だったようですし、黒船来航で開国要求を受けた時も、食事が喉を通らないほど悩んでいて、ノイローゼ状態だったとも言われています。

 

攘夷」と常に強気で推している態度とは裏腹に、気弱な人だったのかもしれませんね。

 

当時、孝明天皇を巡って対立していたのは、明治維新を目指すグループと幕府存続志望のグループ。

 

当の孝明天皇は?というと、外国と交流するのが嫌なので、幕府を応援していて公武合体政策にも協力し、攘夷を求め、幕府との関係強化を望んでいました。

 

孝明天皇のこの考え方は、明治維新派(薩摩藩、長州藩)には困ったものでした。

それは幕府を倒し、いずれ政治の中心に。と考えていたので。。。

 

しかし1867年1月、孝明天皇は35歳の若さで崩御。

 

この頃は、孝明天皇が幕府を支持していたことがあり、まだ幕府側が勢いを持っていましたが、孝明天皇が亡くなった後、薩長派は明治天皇の心をつかみ「討幕の密勅」という形で大義名分を持つことを主張しました。

 

そして孝明天皇の死を境に、討幕派の動きは一気に加速します。

1868年 戊辰戦争を経て新政府成立そ、討幕が実現しました。

 

薩長両藩は薩英戦争や下関戦争の敗北で、新政権を幕府を武力で倒し築くことを目指すようになっていましたので、幕府を応援していた孝明天皇の存在というか、考え方は薩長両藩の目指す討幕実現にとっては、目の上のたんこぶだったということです。

 

とはいえ、孝明天皇存在は幕末に必要でした。

もし幕末に孝明天皇がいなかったら、明治維新はありませんでした。

 

それに孝明天皇がいなかったら倒幕後、薩摩と長州の覇権争いで日本国内は大規模な内戦状態になったかもしれません。

薩摩も長州も徳川幕府に代わり、政権交代を考えていたのではないでしょうか。

 

天皇家を護るために、徳川家を倒す」という大義名分を立てた以上、薩摩、長州は徳川幕府崩壊後、自分たちが覇権争いをしたくても出来なくなるのです。

 

あくまで「政権を天皇陛下に返上する」ための倒幕なのです。

そして天皇家の存在のおかげで、日本は守られたという事です。

 

実際、アジアの国内戦に欧米がつけこみ、アジア諸国が欧米諸国の植民地になっています。

 

それに徳川幕府にも面子があるので、薩摩、長州に降伏はできなくても、天皇陛下は尊んでいたので降伏することができたのだと思います。

 

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孝明天皇は岩倉具視に暗殺された説とは?

 

孝明天皇は岩倉具視に暗殺された説とは?

 

天然痘による崩御した孝明天皇ですが、なぜ、暗殺が疑われることになったのか・・・

というと、亡くなったタイミングにあります。

 

・孝明天皇の健康状態はすこぶる良好でした。

・明治維新派にとって討幕派に都合が良いベストタイミングの時期。

・薩長同盟が9ヶ月前に成立したところ。

 

で、結構早い段階から倒幕派の暗殺が疑われていましたが、犯人は誰?となると色々な想像から犯人候補は諸説あります。

その中でも岩倉具視が毒殺した疑いがよく聞かれますよね。

 

それは暗殺に関与したという証言が一応確認されているからなのですが、信憑性はなさそうです。

 

しかし、それでも岩倉具視が毒殺したという説は

・岩倉具視が結果的に得したように見えた。

・策謀家の岩倉具視ならやりかねない。

といったところでしょうか。

 

要は岩倉具視のイメージではないかと思います。

でもまぁ証言があるなら暗殺ってことかぁ。とも思えますが、一方で、暗殺ではないっていう意見の方が実は多いのです。

 

孝明天皇は死の直前、天然痘に罹っていて医師が発表した「御容体書」の内容によると、

・天然痘は回復した。

・回復後毒により容体が急変した。

 

と主張していましたが、これは表向きのもので、実際は天然痘の病状は悪化の一途を辿り、近日中に孝明天皇が崩御する。と伝えていたことが明らかになったのです。

正史では、風邪による天然痘によって崩御。となっています。

36歳という若さでした。

 

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