優れた政治家として明治時代を牽引した初代総理大臣「伊藤俊輔(伊藤博文)」。
一方で、女好きとしても有名でした。(笑)
そんな伊藤博文役を『西郷どん』で演じるのは、浜野謙太さんです!
伊藤俊輔(博文)の幕末~明治、動乱の時代を自分の才覚で総理大臣まで登りつめた人生というのは、まさに出世街道そのもの。
彼の生き方を知ると、現代を生き抜くためのヒントがたくさん隠れているように思います。
簡単には語れない濃い人生でしたが、その最期(暗殺)についても、気になるところです。
伊藤博文とはどんな人物だったのか・・・
目次
浜野謙太が演じる初代内閣総理大臣だった伊藤俊輔(博文)とは
今回、大河ドラマ『西郷どん』で伊藤俊輔(博文)を演じるのは、ミュージシャンの浜野謙太さんです。
映画やドラマでも活躍されているので、もしかすると、俳優さんだと思っていた方も多いのでは?
名前を聞いてピンと来なかった人がもしいたとしても、きっとお顔を見たら「知ってる!」「見たことある!」となるのでは。と思います。
例えば、NHKでいうと、朝ドラの『とと姉ちゃん』で仕出し屋さんの「森田屋」で働いていましたよね。
ピエール瀧さんにイジられて、面白かったあの板前さんです。
他にも書ききれないほど多数出演作品あるのですが、どれもその作品の空気に溶け込みいい味を出していて、同一人物ではないみたいです。
『西郷どん』ではどんな演技で伊藤博文を魅せてくれるのか楽しみですね。
さて浜野謙太さん演じる、伊藤俊輔(博文)は、武士、政治家ですが書ききれないほど活躍された人物です。
なので今回は簡単に年表にまとめてみました。
1841年 長州藩の農家に生まれました。
幼名は利助(りすけ)→(後に吉田松陰から俊英(優れた人)の俊を与えられ)→俊輔(しゅんすけ)→春輔(しゅんすけ)と改名しています。
号は春畝(しゅんぽ)。
1854年 足軽(武家で、普段は雑役に従い、戦時には兵卒となった者)だった伊藤弥右衛門の養子になることで自身も足軽になり、そして伊藤姓となる。
1857年 15歳の頃。松下村塾に入門。京都の志士たちと交流。
身分が低いので立ち聞きで学ぶ。
吉田松陰から政治に向く性格だと、評価を受けています。
1859年 江戸勤務。桂小五郎、井上馨らと交友を深める。
その頃から尊王攘夷派として活動が過激になる。
高杉晋作の弟分のようなポジションで動き、英公使館の焼き討ちに参加する。
1863年 長州藩士の身分に引き上げ。
長州五傑(伊藤俊輔、井上馨、山尾庸三、野村弥吉、遠藤謹助)らで英留学。
一度目の結婚。
1864年 英国をはじめとする4ヶ国が下関砲の知らせを聞き、井上馨と共に帰国。
帰国後、下関砲撃の四国艦隊と和議を交渉。
短期間ではありましたが、外国の力を自分の目で見た伊藤俊輔は、反戦を訴え、この留学を通して開国派となりました。
1865年 長州藩は、幕府の長州征伐などの影響を受け、危機に直面。
高杉晋作らと挙兵し、藩の導権を握る。
藩は力を得ようと武器の調達を急ぎ、それを最優先していました。
伊藤俊輔はその調達担当で、坂本龍馬の仲介でグラバー商会から船と銃を調達することに成功します。
1866年 二度目の結婚。
1867年(明治元年)大政奉還がなされ、明治政府が樹立。
伊藤俊輔、兵庫県知事に就任。
その後東京に戻ると、鉄道開通、貨幣法の制定など、新国家設立に尽力しました。
1970年 金融機関の調査のため渡米。
1871年 岩倉具視使節団の副使として随行。米国を視察。
1873年 工部卿
1875年 内務卿を務める。
1882年 憲法調査のため、香港、シンガポール、ローマ、ドイツなどに出張し、ベルリン大学学説を学ぶ。
帰国後、憲法立案の中心となり、近代的な憲法体制のなかにも天皇制を位置づけ、議会政治の体制を整える難しい問題に取り組みました。
1885年 内閣制度を創設。
初代内閣総理大臣に就任。
明治政府の実権を握る。
明治政府が出来てからの伊藤博文の睡眠時間は、なんと4時間!!
睡眠を削り、激務をこなしていたのを明治天皇は「病的なほどだ」と評したと伝わっています。
体力のあることで有名な伊藤博文。
1888年 枢密院議長
1890年 貴族院議員議長を務める。
1892年 第二次伊藤博文内閣を組閣し、第5代内閣総理大臣になる。
1898年 第三次伊藤内閣、第7代内閣総理大臣に就任。
1889年 大日本帝国憲法を制定する。
1900年 第四次伊藤内閣、第10代内閣総理大臣。
1905年 初代韓国統監に就任。
外交政策は一貫し、冷徹な政治的リアリズムに基づき国際協調路線をとって、日露開戦にも慎重論を保持し、朝鮮政策も保護国化はやむなしとしていましたが、
併合には慎重姿勢であったとされています。
初代統監となり、日韓併合に尽力するも、ハルビン駅頭で朝鮮民族主義者安重根の弾丸に倒れました。
1909年 中国のハルビンで暗殺。69歳でした。
伊藤博文は新国家にとって、自分にとって何が大事か…。
何が必要かを把握できる力を持っていたので、新国家の設立のため、外国の知識を吸収していく必要があり、いち早く英語学習に着手し、海外出張を何度も重ねるなど、圧倒的な行動力を持って尽力しました。
伊藤俊輔(博文)の暗殺について
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
今まで安重根(あんじゅうこん、アンジュングン)が、伊藤博文を殺害した犯人だとされてきましたが、体に遺る傷痕から矛盾点が見つかり、新たな説が浮かび上がっています。
その矛盾を当時の様子を振り返り順を追って見ていきたいと思います。
1909年10月26日
満州、朝鮮の問題に関してロシア蔵相ウラジミール・ココツェフと会談するため、ハルビンへ赴いた伊藤博文。
その時の行動は、下記の通りです。
◎ 午前9時ハルビンに到着。
◎ 車内でジミール・ココツェフの挨拶を受ける。
◎ 駅ホームでロシア兵の閲兵を受ける。
伊藤博文がロシア兵の閲兵を受けていた、まさにこの時、群集を装って近づいた、安重根の放った銃弾3発を被弾。
そして、約30分後に死亡。
安重根が暗殺した犯人とされていますが、最近の調査で、実は他の第三者が襲ったのではないか。という新たな見解が見つかっています。
それは、使われている弾が違う。という点です。
つまり「弾と銃創が違っている」という点が浮かび上がったのです。
伊藤博文に致命傷を負わせた銃弾は、フランス騎馬隊が用いるカービン銃の弾。
で、その時、安重根の使用した銃は、7連式のブローニング拳銃。
カービン弾を装填して発射させることが構造上不可能な拳銃です。
そういった点から、安重根が持っている拳銃ではない武器が、伊藤博文を攻撃した。ということになります。
安重根は、兵列の影から「しゃがんで」伊藤博文を撃った。と供述していますが、銃痕は、伊藤博文の右肩から斜め下にむけてあり、伊藤博文よりも高い場所からでないと狙えない場所、つまり安重根の供述は不可能となるのです。
その時、伊藤博文に同行していた人物は、「駅2階の食堂からフランス騎馬銃で撃った人がいる。現場は狙撃するのに絶好だった」と述べていることから、安重根が襲ったというのは、ますます考えにくくなるのです。
とはいえ、暗殺したのが安重根でなければ誰が攻撃したのか…。
謎につつまれます。
が、しかし、かなり信憑性のある話は、犯人はロシア側ではないか?といった事です。
なぜかというと、伊藤博文が撃たれたときに周りにたくさんのロシア人がいましたが、誰一人、かすり傷ひとつ負っていないのです。
そういったところからロシア人が関係しているのでは。と浮かび上がったのです。
それに、安重根が所属している韓民会という組織は、ロシアの特務機関の影響を受けているという話があります。
日露戦争前、伊藤博文はロシアと協定を結ぼうと考えていたのですが、わりとすぐ日英同盟が結ばれた為、日露戦争が早まってしまい、ロシア側は負けた。。。との見方が強く、伊藤博文が裏切った。とロシアの人は思い、その復讐をしたのではないかという見解が強くなっています。
しかし、それならそれで安重根に『自分が撃った』と供述させるのなら、いっそ本当に安重根に撃たせれば良かったのでは?と単純には思いますが・・・
まぁ、確実に仕留める事が出来る人物が必要だったのでしょう、そして、その人物を隠す必要があった。。。という事なのでしょうね。
とにかく『暗殺』という言葉が浮上する事件というのは、いつまでも犯人は特定されないまま、色んな説が後々浮かび上がるものですよね。
伊藤博文が女好きと言われるのは何故?
伊藤博文は日本一出世した人物!!&日本一の女好き!!で有名です。
伊藤博文のあだ名は「ほうき」。
掃いて捨てるくらい女性がいるところからついたそうです。
う~ん。。。
昔ならではのあだ名だなぁと思いますが・・・^^;
しかし、モテたんですね。
伊藤博文はどこに行こうが、40度の高熱がでようが、芸者遊びをしたと言われるほど、芸者遊びが大好き!!
てか、40度の熱が出たんなら、寝ようよ!(*_*)
そして芸者遊びのあと、妻の伊藤小梅が待つ家にも芸者を連れて帰ったとか。
しかも、大勢。(笑)
年齢も13歳と、若い子まで連れ帰ることがあったそうです。
ま、13歳の子とはさすがに深い関係にはならなかったみたいですけどね。
とにかく、朝になると、芸者たちの服を用意するなど、妻がしていたようなので、これまた二度びっくりです。
時には金銭の援助もしていたそうなので、これまたびっくり。
しかも、伊藤博文が凄いと思うところは、どんなところでも、どんな時でも、所構わず精力的に女とあそんだ。というところです。
どういった時かといいますと。
・幕末に井上馨らと英留学した時。
・日清戦争中。
こんな時まで!!とびっくりしませんか。
あまりに度が過ぎるので、明治天皇より注意を受けたことがあるそうです。
でも、反省することも落ち込むこともなく「みんなこそこそやってますが、私は堂々とやっています!」と明治天皇に回答し、これからも女遊びをすることを宣言した結果になったとか。
もはや女遊びは趣味。いや譲れない仕事。(笑)
伊藤博文にとって女遊びは、優先順位が高かったことがわかりますね。
そして芸者だけに留まらず、気に入った女なら誰でも遊ぶ、根っからの女好きだったので、芸者以外の女性とのエピソードも残されています。
そんな伊藤博文が気に入った、たくさんの女性達の中からお二人ほどご紹介したいと思います。
・下田歌子さん。
歌人、日本の女子教育の先駆けとなった方。
順心女学校(広尾学園の前身)や、実践女子学園設立などを伊藤博文に相談していたら不倫関係に…。
・戸田極子さん。
岩倉具視の三女で、伯爵戸田氏共と結婚していました。
スキャンダルとなり、伊藤博文は総理大臣を辞職しています。
そして何を隠そう首相官邸が造られた理由。。。
今でもある首相官邸ですが、歴代の総理大臣が住んでいますよね。
実は総理大臣の頃、女遊びにお金を使いすぎちゃって家がなくなるピンチに!
首相が家がないなんて困る!と判断した政府は、首相官邸を建設したんです。
嘘みたいな本当の話ですよねー。(゜o゜;
はちゃめちゃ過ぎて笑ってしまいます。。。
それでも、仕事はきっちりやっていたので、並々ならぬエネルギーを感じます。
それもこれも、伊藤博文が活躍出来る様、陰で支えた妻の理解の賜物ではないかと思いますけどね。
大河ドラマ【西郷どん】あらすじ(ネタバレ)1話~最終話まで!