大河ドラマ『麒麟がくる』残すところあとわずかとなりました。
明智光秀と言えば「本能寺の変」「山崎の戦い」が浮かぶ方は多いのではないでしょうか。
実は、明智光秀の家臣団は戦国最強家臣団と言われています。
では、なぜ、最強とも言われる強い軍団が「山崎の戦い」で秀吉に敗れたのでしょうか。
明智光秀の最期、戦の敗因をみていきましょう。
目次
明智光秀の最期 山崎の戦いとは
「山崎の戦い」は、明智光秀が織田信長へ起こした謀反、「本能寺の変」を受け、信長の家臣・羽柴秀吉 + α 家臣軍 VS 明智光秀軍の間で起きた合戦のことを指します。
では、明智光秀の最期の合戦となった「山崎の戦い」 に至るまでをみていきましょう。
1582年(天正10)6月21日に起きた「本能寺の変」。
本能寺(京都)に滞在中の信長に対し、信長の家臣・明智光秀が起こした謀反で、これは、戦国時代最後の下克上!とも言われています。
信長は自分で寺に火を放ち、自害したと言われているので、正しくは光秀が信長を討ち取ってはいませんが、織田信長を滅ぼすことには成功し、この時、明智光秀は天下人となりました。
「本能寺の変」が起こった時、信長の家臣たちは各地で合戦の真っ最中でした。
・柴田勝家
・佐々成政
・前田利家
らは、越中で VS 上杉。
・滝川一益
は、関東で VS 北条 & 国人勢力。
・丹羽長秀
・織田信考(信長の三男)
らは、四国征伐。
・羽柴秀吉
は、中国遠征中で VS 毛利軍。
岡山の備中高松城を包囲し、優勢だった秀吉は、信長 & 光秀の援軍待ちでした。
そんな時に「本能寺の変」の報せを受けたのです。
秀吉はすぐ戦をやめ、
・堀尾吉晴
・蜂須賀正勝
を立会人とし、合戦していた備前高松城城主の清水宗治の切腹を見届け、秀吉は信長の死を隠したまま毛利軍と和睦を結び、備前高松城から山崎に戻ったのです。
約200kmも離れた地に着くまで、報せを受けてわずか十日あまりのできごとです。
車も電車もない時代なので、どれだけ驚異的なスピードかわかります。
で、この大移動が有名な「中国大返し」です。
一方、光秀は、
・京都の治安維持
・近江(現在の滋賀県)の平定
の為に仲間の武田元明、京極高次らの派遣を急ぎました。
これは、信長に仕える家臣の中で力のあった柴田勝家に備える為ではないかと考えられています。
光秀は、反逆者の自分を討ちに、武将たちが結束を固めてくる前に体制を整え地盤を固めようと考えていました。
光秀の計算では、早くても一ヶ月はかかるだろう…。
と…。
光秀は、単独では敵わないことを承知していたので、ある策を考えていました。
それは、羽柴秀吉と戦さ中の毛利氏(織田と敵対している)に、秀吉を討ち破って上洛してもらい、毛利には足利義昭を奉じれば、多くの味方を得る事ができる!といった内容。
・将軍の権威
・大勢力の毛利
を戦略の要にし、勝利を考えていたのです。
…。が、
光秀が毛利氏に送った使者が運悪く備中高松城付近で迷子に…。
しかも、羽柴勢に捕らえられて…。
協力を呼びかける光秀の書状は毛利氏の元へは届く事はなく…。
光秀の策は崩壊したのです。
しかも光秀は、縁のある武将らは味方になってくれるはずと思っていましたが、
・細川藤孝
・細川忠興
親子に断られ…。
味方と思っていた筒井順慶は秀吉側に寝返ってしまい…。
光秀は兵力を集められずにいた時、秀吉軍がすぐそこまで来ているとの報せを受け取るのでした。
兵力の差は、おおよそ2~3倍。
こうして光秀 VS 秀吉の「山崎の戦い」は始まったのです。
一進一退の交戦状態でしたが、
秀吉側
・池田恒興軍
・池田元助軍
・加藤光泰軍
が、光秀側の軍に奇襲攻撃をし一変。
秀吉軍は光秀側の武将は次々と討たれ圧倒。
そして光秀は、勝竜寺城に逃げ込みますが、秀吉の攻撃を防ぐことはできず、
・兵士の死傷者は万を超え
・勝ち目がなく兵は次々に脱走
残った兵は700人程。
そこで、光秀は自分の城・坂本城を目指しますが、道中、百姓による落ち武者狩りに遭い、殺されてしまいました。
これには別の説もあり、光秀はなんとか坂本城まで逃れはしたが、力尽きて自害したという話も残されています。
「山崎の戦い」の決着は、わずか1日で着きました。
「わずかな間だけ権力を握る」という意味のよく知られている四字熟語→「三日天下」は、光秀の「本能寺の変」~「山崎の戦い」までは天下をとっていた。というところからきています。
実際は、三日ではなく、11、12日程だったと言われています。
信長を討った光秀は、その後「朝廷から征夷大将軍に任じられた」という記述が残されています。(「明智光秀公家譜覚書」)
山崎の戦いで負けた明智光秀の敗因は?
「山崎の戦い」の敗因は二つ、
・秀吉の速すぎる帰還に体制が整わなかった
・与力大名に加勢を断られたこと
ではないでしょうか。
明智光秀の家臣団は、当時にしては、最先端の技能集団で、
・明智秀光
・斎藤利三
らによって構成された最強の軍団でした。
それに、光秀は信長に信頼されていたのでしょう、多数の名だたる武将が与力大名をつけられています。
メンバーは、
・細川藤孝
・高山右近
・中川清秀
・池田恒興
・筒井順慶
など。
味方してくれると思っていたこのメンバーたちに加勢を頼んだところ、ことごとく断られてしまいました。
結果、
・秀吉軍→30,000人の兵
・光秀軍→13,000人の兵
と、兵力に圧倒的な差がでました。
しかも、光秀の計算よりも遥かに速いスピードで、秀吉が戦から帰還。
実は、「山崎の戦い」の予定日は6月14日でした。
このことは、神戸信孝-秀吉間の書状のやりとりでわかっているのですが、実際は13日に発生しています。
たまたま一日早くなった訳ではなく、計算されて一日前倒したのです。
それは、天候が回復の兆しを見せていたということです。
同時代に記された日記(・兼見卿記・家忠日記・多門院日記)をいくつか見比べ総合すると、「本能寺の変」前後の天気はこんな感じです。
↓
・6/6 → 雨
・6/8 → 大雨
・6/9 → 雨
・6/11 → 大雨
・6/12 → 晴
・6/13 → 雨
・6/14 → 日中まで大雨(「山崎の戦い」予定日)
・6/15 → 晴
予定通りに決行すると、天候が回復し、明智軍の強力な鉄砲が使えますが、雨だと当時の鉄砲の仕組み的に使えないので、秀吉は軍配者(気象観測で勝機を測る者)に天候の回復を告げられ、一日前倒したのです。
雨で鉄砲が使えない明智軍は、正面の陣営の歩兵を厚くしましたが、側面の兵力が薄くなり秀吉は側面攻撃を行い、明智軍は夜には総崩れ。
光秀は態勢を立て直す為に、近江坂本に逃れる途中、百姓による落ち武者狩りに遭い、命を落としたのです。
光秀は鉄砲でこれまでの数々の戦で活躍してきた武将です。
それが、雨で使えないなんて、ついてないですよね。
ちなみに、信長は肝心な戦で雨が降る雨将軍と呼ばれていました。
降り続く雨になんとも言えない因果を感じます。
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