大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀も関わったとされる「本圀寺の変」がでてきます。

 

本能寺の変」と見間違えそうなこの「本圀寺の変」とはいったいどのような変なのでしょう?

では、さっそく経緯からみていきましょう!

 

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目次

本圀寺の変が起こる経緯

 

本圀寺の変が起こる経緯

 

本圀寺の変」は、1569年(永禄12年)室町幕府第15代将軍の足利義昭が、仮御所を置いていた「本圀寺(ほんこくじ)」で、三好三人衆に襲撃された事件のこと。

 

では、起きるまでの経緯や背景を見ていきたいと思います。

 

1565年(永禄8年)「永禄の変

室町幕府の第13代将軍、足利義輝襲撃事件で13代将軍足利義輝を討ち取った三好三人衆(岩成友通・三好宗渭・三好長逸)が、松永久秀と戦っている間に、織田信長は上洛します。

そして、三好三人衆は京から逃げていきます。

 

同年の秋には、三人衆が推薦していた足利義栄が将軍をやめさせられ、信長が推薦する足利義昭に将軍の座を奪われてしまいました。

 

で、この時に足利義昭の仮御所となったのが本圀寺(日蓮が鎌倉に建てたお寺)ですが、そこで、三好三人衆は足利義昭をどうやって倒そうか?と企んでいました。

そんな中、信長は、美濃の岐阜城に帰還することになったのです。

 

三好三人衆が本圀寺を襲撃

三好三人衆が本圀寺を襲撃

 

信長が京を離れ、美濃の岐阜城に帰還し、本圀寺の義昭の所にはわずかな兵しか残っていないという三好三人衆に絶好のチャンスが訪れます。

 

三好三人衆がそのチャンスを逃すはずもなく、およそ10,000人の大軍で、本圀寺を取り囲みました。

 

1569年(永禄12年)

足利軍は、

・山県源内

・宇野弥七

など若狭国衆の活躍もあり、何とか持ちこたえます。

 

明智光秀は、鉄砲の名手と呼ばれるだけあって、やにわに三十騎ばかりを射倒して大活躍。(「信長公記」より)

 

寺の守りは手薄だったので、落城して義昭は討ち取られるかと思われましたが、足利方の国衆(大名ほど領土を持ってはいない、小範囲の支配を行う武将たち)の守りで、義昭のいる本圀寺に攻め込むことができず、日も暮れてきたので一旦退きます。

 

そして翌日には、

・細川藤孝

・三好義継

・摂津国 伊丹親興

・池田勝正

・荒木村重

など、畿内各地にいた織田方の武将たちが援軍に駆けつけ、本圀寺を囲む三好勢に攻撃し、三好軍の状況は悪化します。

三好勢はじりじりと押され、退却を余儀なくされました。

 

しかし退却するも、足利&織田軍に追いつかれ、桂川河畔で合戦に。

そして、三好方の小笠原信定を討ち取り、三好軍は敗北。

信長軍の勝利となり、「本圀寺の変」は終結しました。

 

本圀寺の変」の知らせが信長に届いたのは、勃発の翌日で、この日の天候は生憎の大雪で、本来なら3日かかるところを、何と2日で駆け抜けた信長。

 

凍死者がでるほど、難航を極めたこの強行突破には、さすがの軍勢も追いつくことができず、京に着いた時に従えたのは、10騎ばかりだったそうです。

 

信長が到着した時には既に、三好三人衆は京から追い払われていました。

 

足利義昭は、大雪の中、駆け付けた信長に、感激したそうですが、わずか10騎で京に救援に駆けつけるなんて、無謀すぎて何だかおかしい?

これは、信長の幕府への忠臣を演じるパフォーマンスでは?と、もいわれています。

本当のところはどうだったのかわかりませんが。。。

 

将軍の権力制限を目的とした「殿中御掟」

 

将軍の権力制限を目的とした「殿中御掟」

 

信長は「本圀寺の変」後、防衛面で不安とし、足利義昭の仮御所を本圀寺→二条城(建設)にしました。

(1603年(慶長8年)徳川家康築城の二条城とは異なる。)

 

この場所は、足利義昭の兄、足利義輝が築いた二条御所と呼ばれる烏丸中御門第があった場所。

すなわち「永禄の変」で義輝が命を落とした場所でもあります。

 

なので、ここに御所を置くことは、足利義昭は義輝の後継者であることを宣言する大きな意味があるのです。

そして城の防衛面を考慮し、二重の水堀&高い石垣を備え築かれました。

 

こうして室町幕府再興が実現し、信長は義昭の将軍権力を制限する「殿中御掟」を定め、義昭に承認させました。

 

「本圀寺の変」で、信長の助けが必要だと思い知らされた義昭は、これを拒むことができませんでした。

 

内容には、

・幕臣の家来が御所に用向きがある際は、信長の許可を得ること

・それ以外に御所に近づくことは禁止する

・訴訟は信長の家臣である奉公人の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない

などが、書かれてありました。

 

当初「殿中御掟」は9ヶ条でしたが、2日後には+7ヶ条、翌年には+5ヶ条と追加。

足利義昭将軍の行動は制限されていきました。

 

これは後に、足利義昭と織田信長が対立する要因の一つとなっていくのでした。

 

そして、大河ドラマ『麒麟がくる』主役の明智光秀は、足利義昭の家臣でしたが、「本圀寺の変」で大活躍し、織田信長の直臣となります。

2人の主君をもち、京を治める奉行に村井貞勝とともに大抜擢されます。

 

そうやって、織田家中で明智光秀は出世をしていくのです。

その後、信長は堺の会合衆が「本圀寺の変」の時に三好三人衆へ加担したことを理由に、矢銭20,000貫を要求。

自治権を剥奪し、支配下に置いたということです。

 

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