明智光秀は武将としてずば抜けていただけでなく、築城の名手として知られた人物です。

中でも坂本城は明智光秀の代名詞ともいわれ、名城として知られています。

 

今回、大河ドラマ『麒麟がくる』に出てくる「比叡山焼き討ち」という戦いは、明智光秀が信長に命じられ実行した。と言われています。

そして、この坂本城を築いたきっかけとなったのは「比叡山焼き討ち」と言われています。

 

信長に命じられ光秀が実行した「比叡山焼き討ち」と坂本城築城のきっかけを見ていきましょう。

 

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目次

残虐行為と言われた比叡山焼き討ちとは

 

残虐行為と言われた比叡山焼き討ちとは

 

比叡山焼き討ちは、織田信長の残虐行為として言われることが多いですが、実は、信長よりも前に焼き討ちを実行している人物がいます。

 

・一番初めに比叡山焼き討ちをしたのは、

六代将軍・足利義教。

・二番目は

「応仁の乱」東軍の総帥・細川政元(細川勝元の息子)

 

しかし、残虐エピソードとして登場するのは織田信長だけですよね。

それは、足利義教、細川政元は二人とも比叡山の「僧兵」(武装勢力)だけを攻め、僧侶(宗教家)までは殺しませんでした。

 

ところが、織田信長は、僧侶、女、子ども、比叡山にいる人全て皆殺しにしています。

比叡山を徹底的に焼き尽くしています。

 

一般的に知られているのは、明智光秀が「平安の御代より王城鎮護を担う延暦寺を焼くなど、もってのほか」と信長を諌めた。という事になっていますが、焼き討ちの際に関しては、明智光秀が一番張り切って実行していたようです。

 

では、ここからは、1571年(元亀2年)9月12日。に起こった織田信長 VS 延暦寺の、天台宗の総本山比叡山延暦寺(現在の滋賀県大津市)で起きた、比叡山焼き討ちに絞って簡単に見ていきたいと思います。

 

比叡山延暦寺は、日本仏教の母山と呼ばれている場所で、名僧を輩出した比叡山延暦寺の権威は高まっていき、次第に僧たちは武力を持つようになっていきます。

 

そして、自分たちの主張を天皇に通すなど「寺社勢力」として、財力、武力、権力を強めていったのです。

その結果、独立国のようにまで力をつけ、南部北領と呼ばれ恐れられていました。

 

そんな、比叡山 VS 織田信長 となったのは、この頃、信長の勢力は京都にまで伸ばし「比叡山の寺領を横領した」という事が原因。と言われています。

 

延暦寺の僧侶たちから朝廷に働きかけがあり、信長は返すよう命じられましたが、信長は従わず…。

(この頃の信長は、足利義昭を室町幕府第15代将軍にさせ、大名の中でも力をつけていました。)

 

足利義昭が将軍となり、畿内の大名は新将軍に挨拶を!と求められましたが、朝倉義景は拒否。

信長は怒り、1570年(元亀元年)朝倉義景がいる越前を侵攻。

 

浅井軍に背後を襲われ挟み撃ちになりかけ一時撤退。

(戦の詳細は省略)

その後、信長は逆転勝利をします。

姉川の戦い

 

生き延びた浅井 & 朝倉軍は比叡山延暦寺に逃げ込み、延暦寺はかくまいました。

 

1571年(元亀2年)1月、明智光秀は坂本などを含む近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市・高島市の一部)を与えられます。

そうして宇佐山城(滋賀県大津市南滋賀町)に入りました。

 

宇佐山城は、比叡山の麓にあった城。

光秀は、ここから地元の有力領主たちに対し、自分たちサイドにつくように説得。

 

その時の文章がこちら↓

 

条件とは

「仰木(ここでは比叡山)の事は、是非ともなでぎり(皆殺し)に仕るべく候」

 

訳すと↓

 

味方をしたら、

・横領した寺領を返す。

・従わなければ焼き討ちする。

 

という内容。

 

賛同せずに対立した者には容赦をしない苛烈な一面が光秀にも見えてきます。

延暦寺サイドの答えはNO。

 

1571年(元亀2年)、信長は夜の間に30,000人の兵を送り、古代から神山とされてきた比叡山を早朝から総攻撃します。

そうして比叡山の殆どが焼かれ、4日間も黒煙が上がり続けた。とされています。

 

延暦寺の僧侶 & 学僧 & 子どもなど、全ての人の首を容赦なくはねた。

と「信長公記」に記述が史料として残っています。

 

焼き討ち後、光秀は、

・坂本に五万石の領地を与えられる。

・坂本城を築くことを許された。

 

光秀が中心的な役割を果たした人物のひとりだったことが見てとれますね。

織田信長は、比叡山焼き討ち後の処理は全て、明智光秀に任せました。

 

信長は没収した寺領を、

・明智光秀

・柴田勝家

・丹羽長秀

・中川重政

・佐久間信盛

の5名に、それぞれ自分の領地に+として分配し、分配された領地にそれぞれの部下を置き、土地を治めました。

 

そうして明智光秀は、分配された土地に坂本城を築いたのです。

それが近年の発掘調査で、比叡山延暦寺の焼けた土層は信長焼き討ち前のものが殆どだということがわかりました。

 

信長の焼き討ち跡と思われるものは一部だとされているので、少々大げさに記録されたのでは。といった説も出ています。

 

浅井長政の謀反と反信長派となった比叡山延暦寺

 

浅井長政の謀反と反信長派となった比叡山延暦寺

 

信長は上洛後、畿内の諸勢力の討伐や従属化を進めていき、将軍になった義昭に従うようにと要求します。

 

しかし、信長と仲の悪い義景はこれを面白く思わず、拒否。

これに怒った信長は朝倉義景討伐を計画。

ただ、朝倉討伐をするというのは、長政と同盟を結んだときの約束を破る。といったことに…。

 

ですが、同盟を結んで数年経っており、信長は長政と友好関係にあったので、もし約束をやぶっても自分についてきてくれると思っていましたが、知らせを受けた浅井氏家臣たちは、隠居していた久政(長政の父)を担ぎ出します。

すると久政は、信長を攻撃するように指示したのです。

 

家臣たちも含め「約束を破った信長は、信用に値しない。」との意見に押される形で、長政は朝倉義景につくことを決断。

結果、浅井長政は信長に謀反を起こすことになったのです。

 

こういった流れで起こった「姉川の戦い」。

これに信長は勝利するのですが「浅井 & 朝倉軍を比叡山延暦寺がかくまっている」との情報が、信長に入ります。

 

そして延暦寺に、浅井 & 朝倉軍側とは手を切って、信長側につくように何度も説得。

付かないと焼き討ちにするとまで伝えましたが、それでも答えは NOー。

 

それでも比叡山延暦寺は、浅井 & 朝倉軍の兵をかばい続けたのです。

この態度に信長は怒り心頭・・・そうして焼き討ちに発展します。

 

こういった状況から比叡山延暦寺は反信長派となり、対立の立場にたつことになってしまったのです。

 

ただ、信長が焼き討ちした理由には他にもあり、それは当時、比叡山は兵力をかかえていて、トップクラスの大名に匹敵する程の力を備えているうえに、宗教的にも権威があり、物流の利権も握っているお金持ち。

 

当時の寺院の僧たちは、仏教の教えを順守するどころかやりたい放題。。。

天皇の言うことも聴かなくなっていました。

 

それに拍車をかけたのは、僧侶を傷つければ仏罰が下ると言われていた時代でもありました。

そんな延暦寺は立地条件も良く、好立地に建っていて、東国路、北陸路が交わる交通 & 物流の要となる場所だったのです。

 

信長にしたら目の上のたんこぶ的な存在。

たまったものではありません。

なので比叡山焼き討ちに関しては、浅井 & 朝倉軍のことがきっかけにはなりましたが、いずれは対立する関係になったのかもしれませんね。

 

比叡山を焼き討ち後、坂本城を築城

 

比叡山を焼き討ち後、坂本城を築城

 

1570年(元亀元)年「姉川の戦い」で、敗北した浅井 & 朝倉勢に味方した為(志賀の陣)、織田信長と敵対した比叡山延暦寺。

1571年(元亀2年)比叡山延暦寺は「焼き討ち」にあいました。

 

坂本城は1573年(天正元年)「比叡山焼き討ち」後の処理を明智光秀は織田信長に任せられました。

明智光秀によって築かれた城です。

 

坂本という土地は、比叡山延暦寺の監視 & 港町 & 交通の要で繁栄していた場所。

 

信長が光秀にこの土地を与えたのは「琵琶湖の制海権の獲得」が目的だったと思われます。

当時の坂本城がどのような物かは不明ですが、大天守 & 小天守が並び建つ姫路城のような城であった可能性があるそうです。

 

宣教師、ルイス・フロイスは著書で「安土城に次ぐ名城」と記しています。

 

さて、延暦寺や日吉大社は消滅し、寺領、社領は没収。

延暦寺の焼き討ち後は、明智光秀と佐久間信盛が、この地域を中心に支配することになりました。

 

特に明智光秀は、数々の功績が認められ、比叡山延暦寺の遺領を織田信長から与えられています。

 

特に築城資金として黄金1,000両を得て、琵琶湖の湖畔に居城となる「坂本城」を築城するというのは、信長家臣では初めての出来事。

異例の厚待遇でした。

 

織田家家臣となってわずか4年。

明智光秀は、信長家臣の中で最初に一国一城の主となったのです。

 

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