幕末~明治にかけ、日本国の仕組みは大きく様変わりし、そのゆがみが一気に吹き出したのが西南戦争です。
その西南戦争の始まりとも言える征韓論を振り返り、西南戦争が起こった背景や、西郷隆盛と大久保利通のそれぞれの譲れない思いから生まれた悲しい別れを見ていきたいと思います。
目次
征韓論から西南戦争へ・・・それぞれの主張とは?
征韓論は「朝鮮を武力で開国させよう!」という明治新政府が発足してからすぐに日本で唱えられた主張です。
征韓論を主張していたのは、下記のメンバーです。
・西郷隆盛
・板垣退助
・江藤新平
・副島種臣
・後藤象二郎。
なぜ征韓論は起こったのか?…
というと、当時、日本が置かれていた背景にあります。
日本の北方に「露」があり、国土の大部分が極寒の地なので不凍港などが少なく、南下が重要な政策となっていました。
幕末には対馬に露船が現れ、土地を占拠し滞留する事件が起きたり、樺太の領有権を日本と争ったり…と、日本と朝鮮は、露の南下政策の脅威に常にさらされる状況下にあったのです。
征韓論派は、朝鮮が万が一、露に占領されていたら自国防衛がさらに難しくなるので、『だからこそ開国を!!』と、朝鮮に対して働きかけ、国力を上げ国防体制を整えること。が急務と考えていました。
朝鮮は江戸時代、鎖国政策をとった徳川幕府と交流のある国でしたが、日本国内での、
・征韓論の存在。
・鎖国を解き欧米化を目指したこと。
などから、日本政府が何度も送った国書の受け取りを頑なに拒否し続け、朝鮮政府は態度を硬化させていたのです。
対日感情の悪化した朝鮮では、在留日本人と交流した朝鮮人を罰する!というめちゃくちゃな布告が出され、日本国内でも朝鮮に対する反発や在留日本人保護のために出兵する気運が高まっていた…といった状況でした。
そんな中、岩倉使節団が帰国します。
そして岩倉達は、国内での征韓論が高まっているのに驚き、それに大反対しました。
反対していたのは、下記のメンバーです。
・岩倉具視
・大久保利通
・木戸孝允
・大隈重信
・大木喬任(おおきたかとう)
彼らが反対した理由は、当時、日本には他にしなければならない問題が山のようにあったからです。
・琉球の帰属問題。
・樺太、千島列島の領有権問題。
・不平等条約の改正。
などです。
岩倉使節団として欧米を視察してきた彼らは、欧米と日本との国力の違いを目の当たりにし、今の日本は、
・国外のことに干渉したり戦争をしたりする余裕がない。
・内政の充実と国力の増強が第一。
と感じていました。
なので、(今はっ!!)反対したのです。
留守政府組の西郷、板垣らと使節団帰国組の岩倉、大久保らが対立した結果「明治六年の政変(征韓論政変)」と呼ばれる大きな政治事件を引き起こし、明治政府から離脱した者たちが後に地方で士族の反乱の主導者となっていき、西郷隆盛による西南戦争という日本最後の内戦へと至ってしまったのです。
私学校へのスパイは西郷を殺す事が目的だったの?
西郷隆盛は「征韓論」政策に敗れ、明治6年(1873年)鹿児島に戻ると、特権を剥奪されて不満を募らせた「士族階級」の教育の為、私学校を設立しました。
西郷隆盛が創った私学校ということで募集者が殺到。
設立当初は、800名くらいからのスタートでしたが、分校が130以上も設立され、在籍者は3万人以上!!のマンモス校になりました。
さすが、鹿児島の英雄ですねっ。
そしてそこから、
・鹿児島県職員。
・警察官。
などに私学校出身者が採用され、要職を占めていくようになり、鹿児島は更に新政府の通達 & 命令を無視するようになりました。
次第に私学校は軍隊のようになっていき、新政府の権力が及ばない西郷隆盛独立国!みたいにも見え、新政府は私学校をこのまま野放にしておくことはできない…。
と考えます。
そして大久保利通は明治10年(1877年)1月。
鹿児島出身の警察官ら23名を私学校にスパイとして潜入させたのでした。
彼らのミッションは、
・敵情視察。
・私学校の内部分裂を工作すること。
でも、この作戦はすぐにバレて捕まり、捕まったスパイが西郷隆盛の暗殺計画を自白したのです。
同じ頃新政府は、汽船を派遣し、鹿児島県内各地の武器弾薬庫から、銃器 & 弾薬を運び出し移動しました。
(私学校が鹿児島県の新政府の陸軍火薬庫を襲うことを恐れたので。)
私学校生徒たちは、この事を知ると『政府が鹿児島から武器を奪おうとしてる!』
と勘違いして激怒。
(なぜ怒るかというと、鹿児島県内にある武器弾薬庫とその中身は旧薩摩藩が購入したので、自分たちのもの!!と思っていたからです。)
そうして私学校生徒は、鹿児島県内の陸軍の武器弾薬庫や海軍造船所を襲撃。
銃器 & 弾薬を略奪します。
私学校生徒たちからすると、
『自分達の武器が取られない為に行った!』という意見ですが、この行動は、『新政府の陸軍の施設を襲うこと』となり、つまりは → 国家への反逆。を意味する事になるのです。
そうなってしまうと私学校としては、どうもこうもできず、後戻りも出来なくなってしまいます。
このとき西郷隆盛は、大隅山で狩猟に興じていました。
知らせを聞き「しまった!」と 叫び、挙兵以外に道はない…。と悟ったと言われています。
西南戦争の流れと大久保利通(一蔵)の最期
明治政府の目標はドイツのような強力な中央集権を築くこと。
その一環として、国民皆兵の徴兵制を採用します。
で、これで困ったのが、それまで戦うことを仕事にしていた士族でした。
明治政府は士族に対し、
・廃刀令。
・俸禄の支給。
などを実施。
伝統的な武士の特権を奪い、力を削いでいきました。
士族の大半は足軽などの下級武士。
刀を奪われれば、食いっぱぐれてしまう現実。
実は、士族への抑圧は幕末の頃からずっとありましたので、その火種がくすぶっていたのです。
そんな中、西郷隆盛は下野し鹿児島に戻った後、旧薩摩藩士を対象とした学校を設立します。
それが私学校です。
西郷が明治政府から賞典を受け得た資金が元手の学校なので、賞典学校とも呼ばれますが、個人の財産が元手なので私学校と呼ばれていました。
そうして西郷隆盛は、士族達を教育に集中させ、士族の不満をどうにかいい方向に逸らそうと考え、陸軍士官養成の為。として、
・漢文の素読。
・銃の演習。
・大砲の演習。
を行いました。
そんな時、明治政府が西郷隆盛暗殺を企てた。という噂が流れ、怒った士族らは政府軍の弾薬庫を襲撃しました。
暗殺計画のきっかけは、大久保ら政府が私学校の目的を『仕官養成ではなく、政府に反乱を企てる為でないか。』と疑ったことでした。
こうして思わぬ形で士族と政府との間に大きな亀裂が生じてしまいました。
事件当時、西郷は鹿児島に不在でしたが、この知らせを聞き「しまった!」と言って急いで薩摩に戻りました。
西郷帰還の知らせを聞いた士族らは次々に合流し、大軍勢へと変貌していきます。
そして、私学校と明治政府との勘違いともいえるすれ違いから西郷は、戦争を始めざるを得ない状況に追い込まれ、西南戦争へと進んでいったのです。
そして西郷は命を落とします。
それから一年後、「紀尾井坂の変」と呼ばれる事件が起こります。
それは大久保利通が、自宅から明治天皇の仮皇居に向かっているとき、不平士族6人に大馬車から引きずりおろされ、刀で16か所刺され(うち8か所は頭部)殺された事件です。
脳は飛び散り、刀は首を貫通し、地面に突き刺ささっているといった相当恨みをもった残虐な犯行でした。
犯人は、
・島田一郎。
・長連豪。
・杉本乙菊。
・脇田巧一。
・杉村文一。
・浅井寿篤。
の6名。
主犯は石川県の島田一郎。
殺害後6人は出頭し、斬首を受けました。
当時大久保利通の権力は強まり、独裁政治のようにうつっていたのかもしれません。
実行する意思と力がある大久保は時に敵を作ってしまうこともあり、そのような状況下、西南戦争では西郷や多くの不平士族が命を落とし、大久保への恨みが頂点に達したのでした。
大久保利通の葬儀には1,000人を超す人たちが訪れ、偲んだと言われています。
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