維新の三傑」の一人として有名な西郷隆盛。

男にも女にもとにかくモテた西郷隆盛は、三回結婚した事でも知られていますよね。

ですが、全て円満に別れています。

 

それぞれの女性とは仲がよかったようですが、子どもは結局全員で何人いたのでしょうね?

そして息子 & 娘たちは、どのような生涯を過ごされたのか気になるところです。

 

一人目の結婚から整理して見ていきたいと思います。

 

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目次

西郷隆盛の子供は糸と愛加那の子だけ?

 

西郷隆盛の子供は糸と愛加那の子だけ?

 

西郷隆盛と最初に結婚し一人目の妻となるのは須賀

この時西郷隆盛24歳。

 

この頃の西郷の身分は、御小姓与(おこしょうぐみ)。という下級藩士でした。

一方の妻・須賀の家は島津氏支流の伊集院家。

 

須賀についての史料が殆ど残っていないので、謎に包まれている彼女ですが、釣り合いのとれる家ではなかったことや西郷の一目惚れだったことなどが伝わっています。

しかし、二人の間に子どもは授かっていないようです。

なので、一人目の須賀との間の子は0人です。

 

そして二番目の妻は、愛加那(あいかな)

 

愛加那とは安政5年(1858)、奄美大島への流罪(尊攘派の西郷を幕府から守る為、薩摩藩が取った措置。)の時に出会いました。

西郷隆盛33歳の時。

 

結婚しましたが薩摩へ呼び戻された為、西郷と愛加那がここで暮らせたのは、三人の妻のなかでも最も短い期間でした。

 

島妻制度」というのがあったので、島妻を連れ帰ることは禁じられていたので連れて行けず、愛加那は「島妻」(奄美にいる間だけの妻。)として島に残りました。

 

島での二人はめちゃめちゃラブラブだったみたいなので、別れる時はとても悲しんでいたようです。

 

愛加那と西郷の間に生まれた子どもは、二人

長男・菊次郎(のちの宣蘭支庁長・京都市長)

長女・菊草です。

 

そしてそして、三番目の妻が、糸子

この時、西郷隆盛西郷37歳。

 

糸子との間には、三人の子どもを授かっています。

長男・寅太郎(軍人)

次男・牛次郎(秘書)

三男・酉三

です。

 

ということで、西郷隆盛の子どもは全員合わせて5人というこになります。

 

西郷隆盛の息子【寅太郎・午次郎・酉三】のその後は?

 

西郷隆盛の息子【寅太郎・午次郎・酉三】のその後は?

 

三人目の妻・糸子との間に生まれた子どもたちは、三人です。
 

長男・寅太郎。

次男・午次郎。

三男・酉三。

 
1877年 西南戦争で父を亡くした子供たち…。

長男・寅太郎でさえまだ11歳という幼ない頃でした。

 

西南戦争直後、薩軍のリーダーとしての責任を問われ、名誉を失っていた西郷隆盛でしたが、その後、中央政界で活躍する弟の西郷従道によって鹿児島の西郷屋敷も再建されます。

そして、子どもたち・母・親戚とともに、また屋敷で暮らせるようになりました。

 

寅太郎1885年18歳の時に、ドイツのポツダム陸軍士官学校留学に出発。

(西郷隆盛の名誉回復を願っていた勝海舟等の働きかけによって実現した。と伝えられている。)

 

寅太郎は1892年、陸軍少尉に任じられ、1902年父・隆盛の維新の功によって侯爵の位を授かり、華族となりました。

そして貴族院議員に就任します。

 

軍人として生きた寅太郎は、第一次世界大戦中の1914年11月11日、東京俘虜収容所長に就任。

 

1915年、習志野俘虜収容所所長を務め、1919年スペイン風邪による肺炎をこじらせて在職中のまま52歳で亡くなっています。

 

さて、次男・牛次郎ですが、牛次郎に関する資料が少なくあまりわかっていないのですが、日本郵船の秘書として働いていたようです。

 

牛次郎は、藤十郎(銅山経営で成功した)の次女と結婚して、お金には困らない暮らしをしていたようです。

そして、寅太郎が亡くなったあと、牛次郎は 母・糸子を引き取っています。

 

日本郵船退職後は、叔父の従道の所有していた土地(現在・西郷山公園)を譲ってもらい、悠々自適の生活を送ったそうです。

三男の酉三のことも詳しいことは分からないのですが、結核にかかり1903年30歳という若さで亡くなっています。

 

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西郷隆盛の1人娘【菊草】のその後は?

 

西郷隆盛の1人娘【菊草】のその後は?

 

西郷と二番目の妻・愛加那との間には女の子が一人います。

名前は、菊草

 

菊草は、12才頃に奄美大島から鹿児島の西郷本家に菊次郎と一緒に引き取られました。

1876年、14歳の時にいとこの大山誠之助(大山巌の弟、大山家の三男)と婚約します。

 

婚約者の大山誠之助は、軍人で陸軍少尉。

…でしたが、西郷隆盛が下野した時に、軍人職を辞めて鹿児島に戻っています。

 

そして西南戦争が始まると、大山誠之助も参戦し、戦いの末、政府軍に投降しました。

その後、宮城県監獄署に収監され、二年後に釈放されて鹿児島に戻りました。

 

1880年、二人は結婚。

誠之助30歳、菊草17歳の、今で言う年の差婚でした。

 

結婚生活は平穏だったというとそうでもなく、誠之助はずっと職に就かずお金には苦労したようです。

しかも、夫婦の間には四人の子どもが生まれ、夫の借金 & 家庭内暴力…随分と苦労したと伝えられています。

 

1907年頃、菊草は誠之助と別居でき、兄・菊次郎のもとへ身を寄せました。

この時、菊草は45歳くらい。

そして1909年、京都で亡くなりました。

 

西郷隆盛の子供達は印象として、女性の菊草以外は、ある程度お金に困らない人生を送っていたのではないかと思います。

西郷隆盛の息子という、ある意味『肩書き』の様なものがあったのではないでしょうか。

 

しかし、菊草は女性だった為、西郷隆盛の娘・・・というネームバリューは、仕事をしていなけば使えないですしね。

結婚した旦那様によって、幸せか不幸せか・・・どちらかになる時代だったんだろうなぁと思ったりします。

 

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