【西郷どん】で、憎らしい演技を魅せるのが、調所広郷(ずしょ ひろさと)役の竜雷太さんです。
大河ドラマだけ見ていると、ただの悪者?って感じに思いますが、いやはや調所広郷は薩摩にとってなくてはならない人物だったのです。
目次
【西郷どん】 調所広郷(ずしょ ひろさと)役は竜雷太!
さて、今回【西郷どん】で島津斉興に仕える薩摩の家老・調所広郷(ずしょひろさと)役を竜雷太さんが演じています。
この竜雷太さんの演技が、なんというか憎ったらしいんですよ!
ま、それが吉之助を、もっとかばいたくなる衝動にかられるんですけどね。
竜雷太さんって、もう77歳になるんですね~。
やっぱ俳優さんは、しっかりして若いなぁって思います。
その竜雷太さんが演じる調所広郷(ずしょひろさと)ですが、【西郷どん】で登場する時代は、だいたい72~73歳辺りですね。。。
年齢的には竜雷太さんと同じく70歳代なんですけど、なんちゅうか、描かれている調所広郷(ずしょひろさと)の画がえらいおじいちゃんやな。。。って感じに見えます。^^;
でも、この時代では長生きな方ですね。
さて、次に調所広郷(ずしょひろさと)の功績についてお伝えしようと思います。
調所広郷(ずしょ ひろさと)は薩摩を立て直した?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org
そうそう、この調所広郷の画。。。
かなりのおじいちゃんやん。。。^^;
てな事はさて置いて。
調所広郷は、安永5(1776)年2月5日に城下士・川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれました。
そして、天明8(1788)年には、城下士・調所清悦の養子となり、その後、茶坊主として江戸の方へ出府します。
江戸では、当時隠居していた(前藩主)島津重豪に、茶道技術の才能を見出され、島津家に仕える事となります。
更に、養父・清悦が亡くなってしまいましたので、調所の家督を相続します。
調所広郷は、その後島津斉興の奥茶道として仕える様になります。
それからは、とても勉強熱心に努力する青年になったそうです。
そして、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼任する立場となります。
すると、どんどん頭角を表していき、藩の財政も任される事になりました。
当時薩摩藩は、500万両の債務があり、破綻寸前でした。
そんな薩摩の状況を変える為、調所広郷は砂糖の専売の他、琉球や清と密貿易を行います。
その手法はかなり強引で、まず債権者である商人の方に借金を無利子で250年分割にするよう、要求しました。
しかし、商人の一部資本に関しては、密貿易品を優先的に行わせ、利益を上げさせていました。
その為、強引ではあるものの不満はなかったようです。
こういった功績もあり、天保3(1832)年には家老格になり、それから6年後の天保9(1838)年には、家老にまで出世するのです。
調所広郷(ずしょ ひろさと)の最期とは
こういった功績を見ても、調所広郷は、薩摩藩の財政を大幅に回復させた人物という事になります。
その後、島津家の大変な御家騒動である『お由羅騒動』により、調所広郷は島津斉興・久光派に属します。
ここで不思議に思うのが、いくら現状の藩主が島津斉興だったにせよ、調所広郷は、なぜ正室の子である斉彬派に属さなかったのか・・・?
当時藩主だった斉興が久光を推していたので、そうした方が無難だ。という計算があったからに違いない!と思ってしまうんですがね。。。
しかも、竜雷太さんが大河ドラマ【西郷どん】で演じる役が、とにかく憎ったらしい!(-_-)
だからこそ、いろんな計算あるんやろ!と思いがちですけど。。。
実際、調所広郷本人じゃなきゃ解らないんですけどね。^^;
ただ伝えられている説では、調所広郷を見出した島津重豪の蘭癖が、藩の財政を危機に追いやったという思いが、調所広郷にはありました。
そして、その重豪と同じ様に斉彬も蘭癖があり、再び薩摩の財政が脅かされるのではないか?という思いから、久光派に属していたといいます。
しかし、それが誤算だったのか・・・
『お由羅騒動』の際、斉彬は、斉興が密貿易に関与していたという情報を幕府に流します。
そうして阿部正弘らに、まず調所広郷がそれを追及されます。
すると調所広郷は、その後すぐ急死するのです。
藩主だった島津斉興にまで、責任追及が及ぶ事を防ぐ為に、調所広郷が一人で責任を追って、服毒自殺したと言われています。
1848年、享年73歳。
なんとなく嫌なイメージで大河ドラマに登場する調所広郷ですが、斉興を守り、かつ薩摩の財政を立て直すという功績を考えると、もう少し評価されて良い人物だと思いますよね。
というか、調所広郷がいなければその後の薩摩はなかったのでは?と思います。
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