さて、大河ドラマ【西郷どん】の25話に『生麦事件』が起こります!
イギリスと日本・・・ではなく、イギリスと薩摩、そう『薩英戦争』にまで発展してしまった事件。
久光御一行様とイギリス人たちによる悲しい事件。
どっちが悪いかは、それぞれの見方によって違ってくるのかもしれませんね。
目次
生麦事件とは
1862年9月14日に生麦村で起こった「生麦事件」
当時、薩摩藩主の父で実質的に最高権力者だった島津久光一行が、薩摩へ帰る途中で起きたイギリス人殺傷事件のことをいいます。
どうしてこんな事件が起きたか簡単に言うと、日本とイギリスの価値観の違いです。
当時の日本は大名行列が通る時、道行く人は土下座をして道を譲り、通り過ぎるのを待つというのが常識の時代。
そんなルールがあることを知らなかったイギリス人が、たまたまこの行列と遭遇し、悲劇的な事件が起こってしまうのです。
すれ違った道は大名行列が通れば道幅がいっぱいになるくらいの街道。
イギリス人のグループは馬に乗ってやってきました。
大勢行列で来ることはイギリス人たちにもわかっていましたが、うまく間をすり抜けて行けば通れると判断し、行列を裂くように進み、久光の乗ったカゴの横を通り抜けようとしたその時、その無礼な態度に怒った薩摩藩士たちが、容赦なくイギリス人を斬りつけました。
大名行列に出会った時のルールを知らないイギリス人からしたら、なんのこっちゃですよね。
いきなり斬りつけられるなんて思ってもみかったでしょうし、びっくりですよね。
この後、この生麦事件をきっかけに外交問題へと発展していくのですが、日本に来ているのに日本のルールも知らなかったイギリス人が悪いのか。
いやいや、トップの久光の責任でしょ。
などなど…。
この生麦事件に関して賛否あると思います。
当然、色々決定権のある権力者の久光にも責任はあるように思いますが、日本とイギリスの習慣の違いが、まず、この事件のきっかけとなっているようです。
生麦事件はとても悲劇的な事件の一つですが、誰が悪いと一概に言えるものではなさそうです。
『薩英戦争』にまでなった生麦事件を更に解りやすく紹介!
これは、ざっくり言うと外交問題です。
江戸時代末期の文久2年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村付近を島津久光の一行が通るときに、騎馬のイギリス人たちが行列を横切り、供回りの薩摩藩士たちが殺傷した事件です。
この時横切ったイギリス人達は、4名。
ウッドソープ・チャールズ・クラーク
マーガレット・ボロデール夫人
ウィリアム・マーシャル
チャールズ・レノックス・リチャードソン
でした。
そうして、事件の被害は1名死亡、2名重傷。となります。
一見、暴挙に思えますが、その頃の日本では常識でした。
当時、大名行列のお通りの時には、お産婆さん以外の道行く人はみんな土下座をして道を譲り、一行が通り過ぎるのをじっと待っていた時代。
なので、薩摩の最高権力者の久光がお通りになったら頭を下げないといけないのですが、イギリス人たちは馬に乗ったまま通り抜けようとしたので、無礼を正そうと薩摩藩士たちは容赦なく斬りつけたのでした。
事件が起こった場所は日本なので、日本には日本のルールがあります。
郷に入れば郷に従え…的な。
なので、国のルールを破ったイギリス人側に問題があったという見方もできます。
これを読んだ人は土下座しなかったから一方的に斬られたんだ。と捉えられた方もいらっしゃると思いますが、実はこの事件が起こる前にも島津一行とアメリカ人商人がすれ違いましたが、アメリカ人商人は、馬を道端に寄せて馬から降りて道を譲ったので、一行に敬意を示したことが態度で伝わり、土下座はしていませんでしたが、薩摩藩士たちは何もしませんでした。
要は、細かな作法よりも、その態度から伝わる気持ちという事なのでしょうか。。。
なので、やはり日本にくるならもっと日本のことを知っておかなければならなかったのかもしれませんね。
で、この時島津久光は、籠に乗っていて外のざわつきが気になり、「何事か?」と尋ねると、「異人が参るそうでござります」と返答があり(「何事もなく通り過ぎれればいいけどなぁ…」)と思っていたそうです。
が、その願いは虚しく事件は起こってしまいます。
家来から一部始終報告を受け、当然焦ったと思われるこの状況ですが、藩士を動揺させない為にか、顔色一つ変えず平然としていたと言われています。
その後、国民を斬り殺されたイギリスは大激怒。
幕府に対して
◎ 賠償金10万ポンド。(11億2千万円)
◎ 正式な謝罪。
薩摩藩に対して
◎ 賠償金2万5千ポンド。(2億8千万円)
◎ 犯人の引き渡しの要求。
◎ イギリスの軍人が立ち会い、犯人の処刑を要求。
がありました。
当時の日本は別名「不平等条約」とも呼ばれる「安政の五ヶ国条約」を、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダと結んでいました。
この条約の中には、外国人が日本で罪を犯しても、日本で裁けない。ということが書かれてありました。
無礼な外国人を裁いたらダメってことなので、つまり、生麦事件は日本に非があることになるのです。
ここで対応に困ったのは幕府です。
賠償金を支払ったら攘夷を唱える過激派の反発が予想でき、支払わなければイギリスと一戦交えることになるかも…。
色々考えた結果、幕府は要求に応じるのですが、薩摩藩が拒んでしまい、とうとう「イギリス人を斬ったのは岡野新助」と、架空の藩士の名を伝えました。
とはいえ、状況が変わるわけではないので、当然、じゃあ岡野新助連れてこいよっ!!ってなりますよね。
まぁどうなの?とも思いますが、結果この嘘のお陰で犯人が行方不明ということで処罰されず、本当にイギリス人を斬った、奈良原喜左衛門と有村俊斎を守ることができました。
時代は変わっても「自国民の保護」や「自国民殺傷に対する賠償請求」は、今も昔も政治介入のお決まりの手段です。
薩摩藩は武力で勝ち目がないことは理解していましたが、攘夷熱が高まるなかで、簡単に降伏できず…。
それに薩摩藩は少し誤解もしていました。
最高責任者の藩主父子の首も要求してくると考えていたのです。
イギリス側としては、賠償金をもらって犯人さえ確保させてくれたらそれでオッケーだったのです。
誤解が解消されないまま何度も薩摩藩に拒まれ、しびれを切らしたイギリスは薩摩に7隻の艦隊を派遣。
錦江湾にイギリス艦隊到着。
薩摩藩との直接交渉スタート!!
それでも薩摩藩は「日本のルールだから」と、交渉を拒否。
イギリス艦隊は実力行使に打って出ます。
薩摩藩3隻の船を、交渉のカードにする為捕らえました。
要求を受け入れたら船返すよ、ってことです。
それでも薩摩藩の答えはノー。
しかも、そっちがそうするならこっちはこうだっ!!と、
イギリス艦隊に向けて大砲を撃ったのです。
薩英戦争の火ぶたはこうして切って落とされ、生麦事件は国と国ではなく、薩摩藩と大国イギリスが戦う異例の戦争を引き起こす原因となりました。
イギリス艦隊 vs 薩摩砲台の戦闘。
結果はイギリスが勝利しましたが、
イギリスは60名を超える死傷者を出し、将官クラスまで失い、薩摩は市街地の10分の1を焼ける損害を受け、痛み分けのような形で終わりました。
そして交渉の結果、島津家は幕府にお金を借りて賠償金を支払いました。
イギリスには少し油断があったのかもしれません。
これを機に「日本を侮るべきではない」と認識し、日本入手を断念しました。
薩摩もこれだけ被害を受けたことで、攘夷の声が沈黙してしまいます。
この戦争を経て薩摩とイギリスは接近し、諸藩より一歩前進することになり、一時はどうなることかと思われた生麦事件でしたが、結果としてはよい方向で収まりました。
とにもかくにも、この戦争を経て力をつけた薩摩の志士たちは、幕府討伐に歩を進め、明治維新の立役者として活躍することとなり、薩摩は近代化への道を急速に歩み始めたのです。
生麦事件をイギリス側や他国はどうとらえていたのか
生麦事件が起こった時代は、ペリーに開国を迫られ、鎖国をやめて外国と交易を行うようになりました。
外の文化や物に少しずつ触れられるようになり、外国人が行き交うようになった頃でした。
生麦事件をきっかけに、薩英戦争にまで発展するほど敵対していたイギリスと薩摩藩でしたが、意外にも終わってしまえばよい感じで終わり、イギリスと薩摩藩は急速に距離を縮め、イギリスと薩摩間で行き来がはじまりました。
海外の反応として当時のニューヨーク・タイムズ紙によると
◎ 戦争で西洋人が学ぶことは、日本を侮るべきではない。
◎ 西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう。
とあります。
この背景に盛り込まれている要素の1つは、イギリスが薩摩へした攻撃に対する非難。
罪のない民間人を巻き込んで、城下を焼き払ってしまったのはイギリス人の意図ではなかったということです。
このような世論の圧力もあり、再度の報復も行われませんでした。
日本にとっては不平等な条約があり、賠償金を求められるなどあったので、ほとんどの人が日本に非があると思っているのではないかと感じていましたが、意外にもイギリスをはじめとする海外の反応は冷静で、客観性があったようです。
そして、攘夷派の武士も多かった薩摩でしたが、すさまじい艦隊の軍事力を見て攘夷が不可能。と気づいたのです。
結果的には両者、色々と思うところがあり、お互いになかなかやるなぁー!!と認め合うことができたという事で終わった事は、イギリスも薩摩もホッとしたのではないでしょうか。
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