大河ドラマ『いだてん』で、日本人初のオリンピック水泳選手の内田正練(うちだ まさよし)が登場します。

内田正練は、実在する人物です。

 

写真を見ていただくとすぐにわかるイケメンマッチョ君!

素敵な方です。

 

キリっとした雰囲気でカッコいい上に、日本初の五輪選手で、海外でも活躍していたアスリート!

しかも、近代水泳クロールの先駆者なのです!

 

きっと、モテたでしょうねー。

では、内田正練とはどのような人物なのか見ていきましよう。

 

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アントワープオリンピックで水泳選手として初出場した内田正練(まさよし)

 

アントワープオリンピックで水泳選手として初出場した内田正練(まさよし)

引用元:内田正練とその時代

 

内田正練は1898年(明治31年)、静岡県雄踏町(現浜松市)に5人兄弟の次男として誕生しました。

 

生家は浜松の名家で、お父様は地元の産業を手掛けていて、お母様は浜松の駅前に産婦人科医院を開業している女医さんでした。

 

水府流の師範だったお兄様の影響を受け、中学入学後、浜名湾游泳協会で技を磨き、水府流の師範となります。

 

この時、内田正練は日本最強の競泳選手で、中長距離で活躍していました。

 

その頃、大正中期の日本水泳界は、横泳ぎなどの「日本泳法」が主流。

内田正練は、各種大会で優勝を飾っていました。

 

北大教授(同郷の先輩)の勧めで北大予科へ入学すると、

有名な河童が北大に入学した」と、学内の話題になったそうです。

 

その早いこと・・豪快な水しぶきをあげて向こう岸まで泳ぎきった。見ていた豊平川の河童連は、一様にド肝を抜かされて唖然とした

 

とあります。  (北大水泳部15周年記念誌掲載)

 

それだけ最強な水泳選手なので、練習場所はちょっと特別なところ?と思いきや、毎日の練習場所は豊平川 & 中島公園の池だったそうです。

 

さらに練習に励んだ内田正練は、第4回極東大会(アジア大会の前身)で、3種目に参加しオール1位!

 

第1次大戦後の1920年(大正9年)5月に横浜で行われた国内予選大会で優勝し、日本人初の水泳競技の代表選手に選ばれ、ベルギー・アントワープ五輪に出場。

 

しかしオリンピックでは、出場種目全て予選敗退でした。

 

オリンピック敗退した内田正練のその後

 

1921年、北大水泳部を立ち上げます。

 

小樽新聞社(北海道新聞社の前身)の協力を得て、第1回全道中等学校水泳大会を開催。

北大を卒業後、北海道拓殖銀行 に就職。

 

1925年、第2回全国中等学校大会で、函館中(現函館中部高)を優勝へ導きます。

 

少しずつ日本水泳の礎を築き、近代化へ歩みを進めた結果、極東大会や国際オリンピック大会で活躍する代表選手を輩出しました。

 

一方、北海道拓殖銀行の仕事はというと、土地の査定(返済に滞った農家の担保)を任されていましたが、「弱い者いじめのようだ」と、嫌になり退職。

 

その後、1932年(昭和7年)南米アルゼンチン・ブエノスアイレスの郊外に家族で移住します。

大規模な農園(リンゴなど)を営みました。

 

そして1941年、内田正練の母の死で帰国。

その年の暮れに太平洋戦争勃発。

 

内田正義 帰国後はビルマへ

 

帰国後は、同郷の鈴木陸軍大佐の呼び掛けで、ビルマ独立義勇軍の将軍として活動する事になります。

 

当時、英の支配下だったビルマ。

ビルマ経由で中国に物資の支援することに頭を悩ませていた日本は、連合軍がビルマを独立される。といった不安から、『物資運搬ルートを遮断しよう!と、この南機関を率いたのが鈴木陸軍大佐。

 

内田正練は南機関の中枢メンバーと交流。

物資調達の役割を担っています。

とある渡河作戦中、鮮やかな泳法で対岸まで泳ぎ渡った。と、いうエピソードを残しています。

 

南機関とビルマ独立義勇軍が、一体となって首都ラングーンに進軍。

首都陥落。

 

そして内田正練は、歓迎を受けました。

しかし喜んだのも束の間、ビルマはすぐに独立には至らない状況となります。

 

そんな中、海軍・司政官となり、ニューギニアに赴任。

内田正練はビルマを離れ、激戦地ニューギニアに向かいます。

 

重なる転進と敗走、栄養失調だった内田正練。

食糧を勧められても将来ある若い人にあげてくれと固辞したと伝わります。

そんな内田は、皆から慕われていたそうです。

 

1945年2月 戦死。

ニューギニア島サルミの名もない山中で倒れました。

 

死因は餓死だったと伝わります。

47歳でした。

 

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内田まさよしがクロールを日本に伝えた?

 

内田まさよしがクロールを日本に伝えた?

引用元:内田正練とその時代(昭和16年頃の内田正練)

 

誰もが知っているクロール

このクロールはどのようにして知れ渡るようになったと思いますか?

 

それは、遡ること、第1次大戦後の1920年(大正9年)5月。

内田正練が、横浜で行われた国内予選大会で優勝し、日本人初の水泳競技の代表選手に選ばれ、ベルギー・アントワープ五輪に出場しました。

 

オリンピックでの種目は、100m自由形と、400m自由形に出場しました。

日本中の誰もが彼の勝利を疑わなかったのではないでしょうか。

 

しかし、海外勢のクロール泳法には全く歯が立たず、優勝者とは1分以上の大差をつけられ、予選で敗退となります。

 

レースが行われる静水のプールでは、クロールが有利。

日本泳法は勝てない。と痛感。

それに、プールの水温の低さにも驚いています。

 

そして内田正練は、アンントワープで、近代クロールを会得し帰国。

帰国した内田正練は「外国選手と対等なレースをするには日本泳法に拘らずクロールを練習すべき。」と、語っていたとか。

 

そして、『早くプールを作り、実践的なクロールを練習すること』を提唱しますが、当時、日本水泳界上層部は日本泳法の大家が占めていて、クロール泳法不要。

日本泳法を極めれば、クロールには負けないと強弁していた状況。

 

しかし内田は、『そんなはずはない。見て、経験してきたのだ。』・・・と、ここから内田正練の戦いが始まっていきます。

そして内田は、

 

・首脳を一掃するべきなのか。

または

・別の組織をつくるべきなのか。

 

という考えに至り、世界と戦うにはどうしたらよいのか・・・という観点から、自ら先頭に立ち各地で講習会や水泳大会を開催し、クロール泳法を世に広め、普及に努めました。

 

札幌で内田は、(現在の札幌一中)生徒を集め、中島公園の池でクロールを披露したと伝わっています。

そして1921年、北大水泳部を立ち上げます。

 

小樽新聞社(北海道新聞社の前身)の協力を得て、第1回全道中等学校水泳大会を開催。

と、こういったかたちで少しずつクロール泳法が世に広まっていくのです。

 

内田正練は身を持って経験し、泳ぎ方革命を日本にもたらした人物です。

そして、近代水泳の基礎を築いた人物なのです。

 

歴史上の人物として、名前を知っている人はあまりいないかもしれませんが、日本の水泳の先駆者であることは紛れもない事実だという事は、疑いようもありません。

 

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