日中戦争の引き金になった盧溝橋事件。
そもそものきっかけは何だったのでしょう。
一発の発砲音からはじまったこの事件。
最初に発砲したのは・・・?
もしかして日本の自作自演だったの・・・?
などなどわからないことだらけの事件。
少し整理してみていたいと思います。
目次
盧溝橋事件とは
引用元:https://matome.naver.jp/odai/2143725293244348501/2143725559245212603
日本が泥沼の戦争状態に突入したのは日中戦争から。
その原因となったのは「盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)」という事件でした。
盧溝橋事件とは、盧溝橋(中国・北京市近く。)という橋で起こった日本軍と中国軍の衝突事件のことです。
中国では七七事件(7月7日に起きたので)とも言われています。
この事件は日中戦争のきっかけとなりました。
では、どういった内容の事件だったのかというと…。
当時、中国には日本を含む、列強の軍隊が駐留していました。
1900年〜1901年にかけ、発生した義和団事件を機に、北京議定書が取り交わされました。
他国は引上げましたが、日本軍、支那駐屯軍(盧溝橋事件を起こした。)は、居留民保護の名目で駐留し、演習などを行っていました。
1937年(昭和12年)7月7日
北京郊外盧溝橋付近で日本軍は夜間演習を行っている時に聞こえた一発の銃声。
演習では一切実弾は使っていなかったので、人を殺害する時だけ弾を込めた銃を装備していた為、この実弾で撃ちかけるということには重い意味がありました。
実際、中国軍は実践も演習も実弾を使っていました。
その為、『中国軍の発砲か?』と考えていたところ、発砲は数十発にもなっていきます。
そうなると日本軍は、『中国軍から攻撃されている』と判断せざるを得なくなりってきます。
これは非常事態。
人員点検の為、点呼を取ると、初年兵(伝令役)が一人いませんでした。
しかし、20分後発見されています。
(この兵士は、たまたまトイレに行ってただけでした。)
ですが、別の場所にいた大隊長には無事だったことを報告されなかったので、中国軍に撃たれた!と、誤った情報が…。
すると『中国軍に仕掛けられたのだから仕方ない。』と、銃撃戦に発展したのです。
その後、石原莞爾(いしわら かんじ)の不拡大指示があり、8日には銃撃戦は収まっています。
日中の上層部間で交渉が行われました。
そして11日未明、中国が下記を決定。
・責任者の処分。
・中国軍の盧溝橋城郭。
・竜王廟からの撤退。
・抗日団体の取締。
など。
日本からの要求を受け入れ停戦協定が調印。
そして停戦となりました。
盧溝橋橋ってどこ?
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
盧溝橋橋は、北京八景の月の名所として知られていて、観光スポットにもなっている橋です。
橋の東側脇に「盧溝暁月」の碑文(清の乾隆帝が建てた。)が今も残されています。
画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki
そして、この橋の名前は1937年の7月7日に起きた軍事衝突事件「盧溝橋事件」を機に日中戦争が勃発した歴史的な場所でもあり日本では、こちらのイメージで名前を知っている人も多いのでは。と思います。
この橋の東側正面には日本軍が最初に占領した宛平城という城があり、その中に中国人民抗日戦争記念館が設けられています。
橋が造られたのは、1192(金の明昌3)年。
北京の南西約20kmの豊台区を流れる永定河に架かる石橋です。
引用元:https://matome.naver.jp/odai/2143725293244348501/2143725559245212603
この地は、北京で最も外側の出入口に当たる場所で、江南の地へ向かうためには水路の他、この橋を渡るしか方法がありませんでした。
その為、当時は旅人をこの橋で見送り別れを惜しむ習わしがあったそうです。
橋の構成は、
・全長266.5m。
・幅7.5m。
・各橋アーチは長さ11m。
・扁平率0.69の楕円形。
欄干の上には、それぞれ表情、姿が異なる500体程の石造りの獅子が立ち並んでいます。
何が凄いって、これが全て違う姿と大きさをしているというので驚きです。
マルコ・ポーロも『東方見聞録』の中でこの地を訪れた時のことを記録しています。
「これほど美しい橋は世界中どこを探しても他には見つからないだろう」と述べています。
そのことから別名「マルコ・ポーロ・ブリッジ」とも呼ぶそうです。
造られてから800年以上たっている橋ですが、橋の老朽化が著しく進行した為、1980年代に史跡保護を目的に大規模な修復工事が施されています。
以後、車の通行は一切禁止されていますが、上を歩くことは可能なので、唯一無二の当時の美しい盧溝橋を味わうことができます。
盧溝橋事件は日本の自作自演?最初に発砲したのは?
盧溝橋事件の始まりは、日本軍の夜間演習中に何者かが発砲した、そのことがきっかけでした。
で、このきっかけになった発砲は、今でも誰だったのかわかっていない何ともミステリーな事件なのです。
一兵士の用便が行方不明にまで発展し、盧溝橋事件の原因をつくったと言われていますが、そもそもの原因は実弾の音でした。
その銃声は、日本のものではないと確定しています。
この事件については色々な説があります。
・日本軍の自作自演説。
・中国軍の誤認発砲説。
・中国共産党の計画的犯行説。
あらゆる可能性が考えられた事件なので納得なのですが、この事件が起きたとき日本国内には2つの意見がありました。
1つ目は、
・中国に武力を行使したほうがいい。
2つ目は、
・中国との全面衝突は避けたほうがいい。
(満州の経営に全力を注ぐ為。)
という意見。
そして実はこの時、北京では日本軍と中国側の間に現地協定が成立していて、事件収拾しつつあったのです。
なのになぜ?と思いますよね。
それは、近衛内閣は「日本軍を華北に派遣することを決めた。」と発表をしてしまったからです。
近衛内閣は初め「不拡大方針」を取っていましたが、陸軍&政府内の強硬派の意見に押されて「強硬方針」を打ち出したのです。
多くの政党や言論機関に支持されたこの方針ですが、陸軍は華北で軍事行動を拡大し始め、上海で大山海軍大尉殺害事件が起こり、それをきっかけに海軍も南京(中国の首都)を爆撃。
と、大変なことになっていってしまいました。
それで結局その後の交渉はまとまらなくなり…。
結果、中国との全面衝突になってしまった。というわけです。
盧溝橋事件が起こった当初、政府は「北支事変」(華北での日中の戦闘。)と呼んでいましたが、華中にまで広がってくると「支那事変」と呼び方に変化が表れました。
そして時は過ぎ、第二次世界大戦後は「日華事変」と呼ばれるようになり、日本と中国は8年余りに及ぶ全面戦争→(日中戦争)に突入した。というわけです。
最終的に、これは宣戦布告のない戦争だった!ということから、今日では「日中戦争」と呼ばれるようになりました。
盧溝橋事件がきっかけでこんなに大きな日中戦争に変わっていったのですね。
当時、緊張状態にあった日中両軍。
駐留している盧溝橋付近で両軍に向かい発砲し、紛争に発展させたのは共産党だと言われています。
結局、共産党は国民党と協力して抗日運動を展開していくのですが、それより前の共産党は国民党と比べ劣勢でした。
その為、日本と国民党の間に何とか紛争を起こさせ、その隙に政治の主導権を握ろうと画策したのだと言われています。
それでも過ぎたことの真実は闇に包まれています。
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