明治新政府の早期実行案件の一つに廃藩置県という政策がありました。

これは幕府の体制の基本構造を変えた大改革なのですが、廃藩置県はそもそもなぜ必要だったのでしょう。

 

明治新政府が、必ず成し遂げなければいけない政策だったと言われていますが、やり方を変えるといつの時代でも反対はつきもの。

 

当時の藩主、武士からの反対はなかったのか?なども気になりますよね。

さて廃藩置県とは何か、簡単に解説していきます。

 

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目次

廃藩置県とは

 

廃藩置県とは

 

廃藩置県は何のためにできた政策か。。。

明治2年、版籍奉還(徳川幕府の終わりを象徴する出来事)が行われた頃に遡ります。

 

版籍奉還は天皇を中心とする国家体制を打ち出し、各大名の領地「」と領民「」が天皇へと返されたことを言います。

つまり、日本の土地 & 人民は天皇の物!!ということです。

 

戊辰戦争で、各藩は多額の借金を抱え、財政圧迫に苦しむ諸藩。

 

新政府もお金がなく、統一した軍制を敷くことが出来ずに、各藩から集めた兵士で構成されていたので、軍隊は全く統率がとれない状況。

そんな状況だったので、藩主、武士の反対や不満もなく、みんな喜んで版籍奉還したのです。

 

ですが、その中身は…?というと、実際、藩主が知藩事と名前が変わっただけで、各領地の支配者はなんら変わらず…。といった状況。

 

旧幕府領はというと…。

 

・府、県が設置される。

・政府から知事を派遣し、統治を行っていた。

・統治体制が府、県、藩に3分割された非効率な体制となる。

 

これを「府藩県三治制」と言います。

 

でも結局、大名家が藩知事という立場で治めることになり(徳川幕府直轄領以外)、徳川時代となんら変わりない体制が続きました。

 

そして明治3年 大隈重信が事態打開のために「全国一致之政体」を求める案を提出。

中身は?というと、

 

◎ 明治政府には、「軍事」「教育」「司法」「財政」の4項目の確立が必要。

◎ 非効率な「府藩県三治制」をやめる。

◎ 「三治一致」の体制を作る。

 

ということを目的としたものです。

これは、財政に揺らぐ各藩&新政府には絶対に必要な改革でした。

 

そして、この非効率な体制を打破するために行われた改革。

それこそが廃藩置県だったのです。

 

新政府の直轄地には「」&「」が全国の4分の1くらい置かれましたが、それ以外を「」が治めていたのです。

 

府、県には中央政府から「知府事」「知県事」が派遣されていましたが、藩は元藩主である「知藩事」が治めていたので、日本がまとまるのには困難を極めていました。

 

そして、明治4年に明治政府は知藩事たちを東京の皇居に集め「廃藩置県」を命じたのです。

廃藩置県は読んで字のごとく藩を廃止して県を置く」です。

 

新政府が統治しやすくする為の目的だった、この政策。

藩は無くなり、知藩事たちも失職される。ということなのですが、元知藩事たちは「華族(かぞく)」という貴族階級となりました。

 

でも、実は廃藩置県のモデルとなった政策がありました。

それは、紀州藩が行った具体的な藩制改革です。

 

内容は下記の通り。

 

・藩主、藩士の給料を90%カット。→支出を減らす。

・藩主の生活も藩政から完全に切り離す。→公私の区別を明確化する。

・士農工商の誰でもが兵隊になれる四民皆兵制。

・満20歳以上の徴兵検査の実施。

・プロシア式軍制の導入。

・藩主の下に執政と参政公議人という役職を置いて命令系統を一本化。

・行政は政治府と5局(公用、軍務、会計、刑法、民政)で全て行う。

・教育は学習館(後の和歌山大学)を設置。改→藩内の子息の教育を行う。

 

新しく設置された藩の行政機関に勤めると給料以外に役料が支給され、新たな給与体系が生まれ、藩士の兼業&副業OK!!

城下外への移住も自由にOK!!

 

そうして封建制度は完全に破壊します。

これにより、日本は近代的な中央集権体制が確立したのです。

 

廃藩置県に対して藩主や武士の反対は?

 

廃藩置県に対して藩主や武士の反対は?

 

廃藩置県が発令され、そして版籍奉還に続いた事で、明治政府の中央集権化という方針をはっきりと示すことになりました。

 

版籍奉還以上の反発が予想されたので、重要な関係各所への根回しの徹底をしながらも、直前まで各藩には隠していました。

特に薩摩藩の島津久光には。。。

 

島津久光は廃藩には大反対だったので、直前まで計画を知らせず、最悪の事態を考え軍備も進めながら実行の日を迎えました。

 

島津久光はあまりに悔しくて、大量の花火を打ち上げた。という逸話が残っています。

 

ですが、他の藩主は?というと・・

突然言い渡された廃藩置県に対し反対しませんでした。

 

薩摩の島津久光を除き、殆どがこの政策に反対どころか、大歓迎!!

案外あっさり受け入れたのです。

 

なぜかというと、この頃の各藩は慢性的な赤字に苦しんでいました。

藩主の生活も切り詰められていて、食事もお粗末で、一汁一菜が普通だったようです。

 

旧藩主にとって廃藩置県は何がいいかと言うと

 

・藩の財政への責任から解放される。

・政府から一定のお金を支給される。

 

つまり、生活が一気に楽になるのです。

そういう事で、廃藩置県への反対は殆どなかったということです。

 

この頃の明治政府は実際のところ、政治や政策は明治政府が主導権を握っていても、絶対的な命令の部分では天皇の力に頼らざるを得ない状態でした。

 

政府が目指すのは「政府による中央集権」だったので、藩の制度を廃止することは、新しい国づくりに絶対に欠かせないものだったのです。

 

知藩事たちは全員失職の代わりに貴族階級をつくり、元藩主の家系は新しい身分層である「華族」になり、知藩事に代わる存在として、中央政府から「知事」が派遣されました。

 

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旧藩の債務はどうなった?

 

旧藩の債務はどうなった?

 

廃藩置県は、領主が領地を治めるやり方を大きく変えた政策。

日本は、廃藩置県によって一気に中央集権国家への体制を整えることになりました。

 

明治維新における最大の改革。と言われていますが、良い事ばかりではありません。

廃藩置県最大の問題は、藩を廃止し、各藩の借金の全てを新政府が肩代わりすることになったこと。

 

旧藩の債務などは全て新政府の責任となり、莫大な負債を抱えることになりました。

各藩とも江戸時代中期頃より既に財政難を抱えていながらの、

 

・幕末の黒船来航。

・戊辰戦争への出兵。

 

藩の財政は火の車でした。

廃藩置県の前に、領土の返上を申し出る藩もあったとか。

 

大阪の商人たちからも「大名貸」と言われる借金をしていた藩もありましたが、貸し倒れ状態となり、商人たちが逆に破産に追い込まれてしまう事態にもなっていたのです。

 

廃藩置県は、小さい藩にとって好都合だったのです。

各藩の借金は大きく二つに分類されます。

 

・大阪商人からの借金。

・各藩内で流通していた藩札。

 

明治新政府は「徳政令」政策で、財政難を乗り切ろうとしました。

 

 徳政令政策内容 

・明治以降の借金は元金3年据置で利息年4%、25年返済とする。

・弘化年間(1844~47年)以後の借金は無利息で50年返済とする。

・天保年間(1830~43年)以前の借金は無効とする。

 

幕府の借金も外国からの借り入れ以外は無効とし、その結果、借金の半額以上が無効とされ、各藩に多くの貸付を行っていた大阪の商人たちは破産に追い込まれ、天下の台所と言われた大阪は、その地位から転げ落ちることとなりました。

 

そうして廃藩置県を行い、完璧な基盤を築いた明治新政府は富国強兵、殖産興業への道を進んでいくことになりました。

 

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