英雄!西郷隆盛を父に持つ西郷菊次郎。

大河ドラマ【西郷どん】では菊次郎の子供時代を城 桧吏(じょう かいり)君が演じます。

 

そして大人になった西郷菊次郎として39話で登場するのが、西郷どんの『語り』をされている西田敏行さんなんですよねー。

 

西田敏行さんだったとは、なんだか意外なんですけど。。^^;

さて、その菊次郎は二人の母に育てられました。

 

一人は生みの親である愛加那。

もう一人は9歳の時から教育を受けさせるなど大事に育てて上げてくれた母、西郷糸子。

 

英雄を父にもつ菊次郎はどのような運命を辿り生きたのか。

そんな菊次郎の人生を見ていきたいと思います。

 

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目次

愛加那との間に生まれた長男・西郷菊次郎

 

愛加那との間に生まれた長男・西郷菊次郎

 

西郷菊次郎は、西郷隆盛の長男です。

奄美大島で出会った2番目の妻、愛加那との間に生まれた子どもです。

 

菊次郎は、9歳の時に鹿児島の本家に引き取られ、1872年12歳の時、父・隆盛に農業を学ぶように言われ、アメリカに留学しました。

実際は、語学の習得でいっぱいいっぱいだったようです。

 

日々、勉学に励んでいる時、政府から突如帰国命令が出され(日本の財政緊縮の為)留学生活、2年6ヶ月を経て帰国。

菊次郎が帰国すると、征韓論で破れ、下野した父がいました。

 

そして運命の1877年。

父・隆盛が明治政府相手に西南戦争を起こします。

 

菊次郎も西南戦争に従軍します。

戦いの途中、右足に銃弾を受ける大ケガを負い膝下切断といった状況に…。

 

当時、弾丸を摘出するケースは少なく、切断が一般的な処置でした。

麻酔もない状況での処置…。考えただけでも気を失いそうです。

 

このときまだ菊次郎は16歳。

どんな思いだったのでしょう。

 

そして、負傷兵として政府軍の叔父の従道に投降しました。

従道は菊次郎の投降を喜んだそうです。

 

西南戦争で隆盛が死去したあと、菊次郎は奄美大島の母・愛加那の元へ戻り、数年間一緒に暮らして23歳の時、奄美大島から東京に移ります。

留学経験を活かし、英語が使える有用な人材として外務省や米国大使館で働きました。

 

そして台湾に派遣され、1895年から4年半、赴任します。

(台湾は日清戦争後、下関条約によって日本領土となりました。)

 

台湾では宜蘭支庁長として現地のインフラ整備 & 教育普及に尽力しました。

この時期に完成した堤防は、百年を過ぎた今もそのままの状態で残っています。

 

大工事を成し遂げた菊次郎への尊敬の念を表した石碑が堤防に立てられ、現在でも現地の人から敬愛される功績を残しました。

非常に有能な人物として、順調に出世街道を登りつめた菊次郎。

 

台湾から帰国してからは6年半京都市長を務め、発電、上下水道、市電の整備を推進。

現在の京都の街並みの基礎を作ったのが西郷菊次郎です。

 

しかし、足の怪我の後遺症のため辞職。

その後、鹿児島で金山の鉱業館長を務め、昭和3年(1928)に亡くなりました。67歳でした。

 

糸の愛情が菊次郎を更に成長させる

 

糸の愛情が菊次郎を更に成長させる

 

西郷菊次郎は、西郷隆盛の二番目の妻・愛加那と西郷隆盛の長子です。

西郷隆盛が奄美大島に島流しされた時に二人の間に出来た子供です。

 

愛加那は島妻(あんご)だったので、薩摩に復帰した時に、島から連れていくことができず、離れて暮らすことになりました。

 

愛加那を連れていけませんでしたが、子どもは薩摩で教育を受けることが許され、西郷隆盛が薩摩に復帰してからおよそ8年後の1869年(明治2年)、菊次郎が9歳の時に、菊草(菊次郎の妹。のちの菊子。隆盛が薩摩に帰還した半年後に生まれました。)と西郷隆盛の家へ引き取られました。

 

そこで待っていたのは、父の再婚相手。

3番目の妻、西郷糸子でした。

 

菊次郎と菊草は、きっと新生活に不安や緊張があったと思いますが、糸子はとても優しく、糸子と西郷の間にいた3人の実の子と分け隔てなく大切に育ててもらい、教育も同じように受けさせてもらいました。

 

例えば、薩摩の子どもなら受けられる郷中教育も受けました。

 

郷中教育とは、

・負けるな。

・嘘を言うな。

・弱い者をいじめるな。

勉学、武芸は先輩後輩で教え合うものとされています。

 

薩摩は、藩士の学問教育も徹底していました。

当時の薩摩の人は奄美大島の人のことを「島人(しまんちゅ)」と呼んでいて、差別感情をもっていて、見下していました。

 

菊次郎と菊草は、その島の子ども。

もっと言うなら、そこの島の女と西郷の子。

 

それでも糸子は、分け隔てなく大切に育て上げたというから、尊敬します。

糸子の器の大きさがわかりますね。

 

その頃の西郷一家は、使用人を合わせると10人は超えると言われています。

子どもが3人いる上、夫は多忙な人で、家には殆ど帰らず留守。

 

といった状況で、さらに菊次郎と菊草を引き取り…。となると、やはり大変だったと思います。

 

それなのに、愛加那に送っていた生活費は西郷が亡くなった後も送り続けていたそうです。

 

心が温かくなるエピソードばかりですね。

菊次郎は自分たちも大切にされ、生みの母にまで気づかってくれている糸子の姿も見ていたのでしょうか。

 

糸子のその大きな愛に育てられた菊次郎はさらに成長することができ、持っていた才能を開花させていくのです。

 

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菊次郎のその後

 

菊次郎のその後

 

西南戦争後、菊次郎は新政府に逆らった西郷隆盛の子。として扱われ、居場所を失いました。

そんな頃菊次郎は、糸子と別れて暮らす選択をし、約4年程奄美大島で暮らしました。

 

奄美大島で暮らし始めて4年が経つ頃、菊次郎は叔父・従道の計らいで、米留学経験が活かせる外務省に入りました。

 

米公使館や本省で勤務し、1894年の日清戦争の後、日本は台湾を手に入れます。

菊次郎は台湾に赴き、台北県支庁長や宜蘭(ぎらん)庁長を務めました。

 

西郷菊次郎は台湾で、

・農地の拡大。

・道路の整備。

・教育の普及。

・洪水を防ぐための堤防(「西郷堤防」と呼ばれています。)を築く。

 

といった、台湾住民の生活向上に尽力しています。。

 

日本の近代国家への出発点ともいえる明治時代。

 

京都にとっての明治維新は、

・都の地位を失う。

・深刻な人口減少。(人口が3分の2に激減。)

・都市衰退の危機。

といった歴史的困難からの出発の時代となりました。

西郷菊次郎が市長に就任した明治30年代。

 

この頃の京都は?というと、

・京都の旧市街は道路がとても狭い。

・上水道やちゃんとした下水道もない。

つまり、飲料水は汚いので伝染病が流行するといった状況。

 

そして琵琶湖疏水(第一疏水)が竣工し、動力用電力(水力発電)を得ましたが、疏水からの電力は、京都の需要に十分ではありませんでした。

 

京都は近世以来の三大都市(三都)の一つでしたが、それは昔の話…。その地位から没落するのでは?と、人々の危機感が強くなっていきます。

 

西郷菊次郎というブランドなのか、カリスマ性なのか・・・

西郷隆盛の息子という立場で近代都市を目指し始めると、京都市の有力者たちが菊次郎を選出。

 

積極的な都市改造を西郷菊次郎に託し、市長として迎え入れます。

そうして菊次郎は台湾から帰国後の、43歳の時に京都市長に就任する事になります。

 

街づくりの課題が多くある中での京都市長となった菊次郎。

そんな西郷菊次郎は、自治権が持てるようになった京都市を飛躍させる為、三大事業を計画しました。

 

三大事業内容とは、

・第二琵琶湖疏水を作る。

→十分な水&電力を得る。

 

・第二疏水からの水量増加を利用し、上水道を敷設する。

→市の衛生状態を改善する。

 

・主な七つの道路を拡築する。

→軌道を敷設し、市電を走らせる。

など、電気事業を市で経営する計画もありました。

 

この三大事業により輸送力を大幅にアップさせ、街灯をランプから電灯へ変え、京都の夜を明るくする構想を始めます。

 

これはすごく良い事なのですが、これがまた当時の京都市の市税収入の34倍にものぼる巨大事業。

 

菊次郎は「百年の大計を図る上において、最も有益なるのみならず、その財源を外資に仰がんとする上においても恰好なる事業と信じる」と、外国債を発行してでもやり遂げる方針を示しましたが、それでも多額の事業費。

 

市民全員が三大事業に大賛成!!とはいかず・・・

それでも菊次郎の強い信念は、技術者たちの心を動かし「百年の大計」が動き出しました。

 

琵琶湖疏水は、

・全て日本人の手による工事。

・レンガなどの工事用資材を自給自足で賄う。

 

などなど、数々の困難を創意工夫で乗り越え、強力に進める一方で市民目線に立ち、区行政も重要視していました。

 

そして、上下京の両区役所で訓示と視察を行い、区役所の事務は最も人民に接する。市民の便利を図り公利公益を増進させてほしい。そのために迅速な事務作業、誠実・公平を忘れてはならない。」と激励したそうです。

 

そんな菊次郎は、強いリーダーシップで三大事業を進め、広い視野で市政を進めた功績が認められ、2期目を担当することに。

 

しかし突然体調を崩し自宅療養生活を送ることとなります。

三大事業は軌道に乗っていて、順調に展開していたこともあったので、菊次郎は市長辞任を決断しました。

 

菊次郎が市会に「三大事業」を提案してから6年と3か月後、明治45年6月15日には、三大事業竣工の祝賀式典が執り行われました。

 

そうして菊次郎が思い描いた京都の街並みが、現実のものとなったのです。

 

京都市は東西に、

・今出川通(千本~烏丸間)

・丸太町通

・四条通

・七条通

南北には、

・東山通(丸太町以南)

・烏丸通

・千本通

・大宮通

という拡築された幹線道路に市電が走るようになりました。

 

上水道の敷設 & 電灯の普及と合わせ、京都は市民の住みやすい街へ、また国内外の観光客が感動する街へと変貌を遂げたのです。

市長は6年半務めました。

 

西郷菊次郎は父・隆盛のDNAを受け継いでいたのか、市民の立場に立った目線で考える事が出来る人間でした。

それに、バランス感覚に優れていて、リーダーシップのある有能な人物だったようです。

 

1928年。68歳で亡くなりました。

菊次郎は、西郷隆盛の子どもの中では二番目に長寿でした。

 

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