維新十傑に数えられる大村益次郎。

そして肖像画などから、とても目立つのがおでこです。。。

 

【西郷どん】では大村益次郎役を演じるのは林家正蔵さんですが、そのおでこもかなり似せてきている様ですね。。。

 

さて、そんな大村益次郎は的確に軍を指揮し、そして勝利に導くことから天才と評されています。

天才と呼ばれる由縁はどこからくるものなのでしょう。

 

それも含めて大村益次郎の人生を振り返りたいと思います。

 

 

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目次

林家正蔵が演じる大村益次郎のおでこは?

 

 

さて、大村益次郎が天才!と呼ばれる一番の理由は、武士階級出身ではなく百姓医出身ということ。

百姓医出身なので当然、軍事教育を受けずに育っています。

 

軍事知識はどこで得たかと言うと、蘭書の翻訳作業によってです。

造語を作ったり、日本訳するのにニュアンスを想像したり、この時代の翻訳作業は現代と違い大変な作業だったと思います。

 

誰にでもできることではありませんよね。

天才と呼ばれる由縁がわかりますね。

 

それに、いくら上手に訳せても実戦で活かすとなると話は別。

やはり大村益次郎は元々、天才的軍事能力を持っていたのだと思います。

 

相手の動き & 予算 & 戦にかかる時間など、色々な方向から作を考えられていて、立てた策は全て的中した!と言われています。

 

戊辰戦争の頃に西南戦争がいずれ起きることも予想していたと言われています。

現状を把握し、人格やとりまく人間模様まで見抜いていたことが伺えますね。

 

全て神がかっていて、これだけ格好いい!

と、高評価なのに歴史の偉人の中での人気はイマイチ。

なぜ…。

 

それはきっと、びっくりする程大きい頭とおでこの肖像画が原因ではないか。と思われます。(笑)

 

大村益次郎の名前はピンとこないなぁ~。と、思った人もいるかもしれませんが、肖像画なら見覚えある人も多いではないかと思います。

かなりインパクト強!!ですからね。

 

残されている肖像画は弟子の記憶をベースに描いたそうなんですけど。。。(^_^;)

それじゃあ全然違うんだね…と思いきや、大村益次郎を知る人たちはマジ似てる!と大評判だったそうです。(笑)

 

天才的に頭がいいので脳みそいっぱいつまってるのでは?!とか言われたりもしてるみたいですが、おでこが大きかったのは間違いなさそうですね。

実際に大村益次郎を間近で見てみたい衝動にかられます。。。

 

さて、そんな大村益次郎役を今回の大河ドラマ『西郷どん』で演じるのは落語家でお馴染みの林家正蔵さんです。

大村益次郎は広いおでこから「火吹き達磨(ダルマ)」というあだ名が付けられていました。

 

歴代の大河ドラマの記憶を遡ってみると、大村益次郎といえば大河ドラマ『花神』で大村益次郎役を演じた中村梅之助さんは印象的ですが、あの時の写真を見てみると、おでこを広くして髪の毛の生え際を後ろの方にして、自然におでこが広く頭の大きい感じを表現されていましたね。

 

今回の大河ドラマでは大村益次郎のチャームポイントである“おでこ”をどんなふうに表現されるのでしょうか。

林家正蔵さんのおでこ・・・楽しみですね。

 

天才と呼ばれる大村益次郎の人生とは

 

天才と呼ばれる大村益次郎の人生とは

 

では、そんな素敵なおでこの大村益次郎の人生を、年表で見ていきたいと思います。

 

・1824年(文政7年)

村医師村田孝益の長男として、周防国吉敷郡鋳銭司村(すおうのくによしきぐんすぜんじむら)(現在の山口県吉敷郡)に生まれました。

 

・1846年(弘化3年)

23歳の時、大坂の医師・緒方洪庵に西洋医学を学びました。

その頃の日本は鎖国真っ只中。

 

西洋学を学ぶ手段はオランダ経由の「蘭学」のみ。

海外の技術に興味を持ち、医学の他に語学、化学、兵学などの西洋学をマスターしていきました。

 

・1850年(嘉永3年)

27歳、実家の医者を継ぎました。名前は村田良庵

医学知識は豊富でしたが、医者の素質はまるでないダメ医者っぷり。

 

弟子でさえも「先生は治療のことは何もご存じない」と証言しています。

何でも理詰めで考える性格で、無愛想。

 

そして、現代で言えば “KY”(空気読めない)。

当然、患者からの評判はめちゃくちゃ悪かったそうです。

 

医者には向いてない。と、自ら見切りをつけた大村益次郎は、自分の知識を活かせることはないかと考えているとき突然転機はやってきました。

 

・1853年(嘉永6年)

「黒船襲来」。

翌年に日米和親条約が締結され、日本は鎖国体制を解除。

 

同時に外国からの攻撃を警戒し、

海外の知識、西洋の化学技術や軍事に詳しい人材のニーズが急上昇。

 

蘭学を学んでいた大村益次郎は重宝されるようになります。

まさに、大村益次郎にとっては人生大逆転の転機がやってきたのですっ!

 

知人の二宮敬作(蘭学者)の推薦で、伊予宇和島藩(現在の愛媛県)の兵学者にスカウトされ、蘭学書の翻訳、西洋兵学の研究に従事。

 

宇和島藩に招かれ、蘭学、兵学などの講義をするようになります。

また、伊達宗城より蒸気船の造船を命じられ、勉強して即、造っているので知識の吸収力と行動力の凄さが伝わってきますね。

 

33歳、藩主に従い江戸に出ました。

 

以後、宇和島藩に籍を置いたまま、蘭学塾の経営や幕府の教育機関で西洋兵学の講義に関わり、急速に活動の範囲を広げていくこととなりました。

 

そして、名前を村田蔵六と改めました。

この頃から大村益次郎の名前は有名になっていくのです。

 

・1856年(安政3年)

幕府の蕃書調所(ばんしょしらべしょ)で兵学やオランダ語を教えました。

 

・1857年(安政4年)

幕府の講武所(こうぶしょ)で兵学の講義を行いました。

 

・1860年(万延元年)

木戸孝允と出会い長州藩士となり、藩に戻って仕えることになります。(住まいは江戸のまま)

 

当時、長州藩は西洋の技術の知識の導入に積極的で、身分や家柄に拘らず人材登用を行っていました。

のちに倒幕運動〜明治維新に関わる人材が集まっていました。

 

大村益次郎にとって、西洋兵術の専門家としてのキャリアを活かせる最高の場所だったと言えると思います。

活躍の場が広がるにつれ身分も上がっていきました。

 

・1863年(文久3年)

長州に戻り軍備の仕事に携わりました。

高杉晋作が創設した奇兵隊の指導の依頼を受け、教育しました。

また、軍略を練り、軍費の統括なども一手に引き受けていました。

大村益次郎の作戦は机上の空論でなく、実践での人間の心理などまで考え抜いたもので、非常に正確で、武器、攻撃体制はもちろん、兵糧にまで気を配った、完璧な軍略であったそうです。

名を大村益次郎と改めました。

 

・1865年 

長州藩が倒幕を表明。

 

藩の軍制改革とう任務を与えられ、イギリスから最新の西洋兵器を購入する一方、兵士の育成や軍の組織改編にも取り組み、結果、長州軍を日本初の近代的軍隊に生まれ変わらせることに成功します。

 

・1866年(慶応2年)

第2次長州征伐で軍事面の責任者となり幕府軍を撃破。

 

第2次長州征伐は高杉晋作の活躍が目立ちますが、その頃大村益次郎は群を率いて石州口に攻め入り、浜田城、石見銀山を落としました。

 

・1868年(慶応4年)

戊辰戦争の上野戦争では彰義隊を1日で壊滅に追い込みます。

戊辰戦争の数々の戦いも大村が予想したとおりとなり、まさに天才的な働きを見せました。

 

強力な軍備&合理的な戦術で長州藩を勝利に導き、明治維新への道を切り開いたのです。

 

・1869年(明治2年)

明治政府に加わり軍制改革を企図しますが、大久保利通などに反対にされました。

そして京都で暗殺。(享年46歳)

元長州藩士に斬られ重症を負い、その傷に菌が入り、それが原因で亡くなりました。

 

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大村益次郎の最期は暗殺にて幕を閉じる

 

大村益次郎の最期は暗殺にて幕を閉じる

 

さて、大村益次郎は1869年(明治2年)に京都で暗殺されています。

その、大村益次郎暗殺の実行犯と理由についてみていきたいと思います。

 

大村益次郎暗殺の実行犯は次のとおりとなります。

・神代直人(長州藩の出身)

・団伸二郎(長州藩の出身)

・太田光太郎(長州藩の出身)

・金輪五郎

・関島金一郎

・宮和田進

・伊藤源助

・五十嵐伊織

上記の8名です。

 

幕末の長州藩は一枚岩とは言えない状況。思想も様々。

神代直人たち8人はどうして大村益次郎暗殺を企てたのかというと、大村益次郎の考えとは大きな相違があったことが考えられます。

 

明治政府になり大村益次郎が政府の中枢に入ったことで、大村益次郎の考えていることがだんだん明らかになってきました。

 

それが明確になったのが、大村益次郎暗殺の少し前にあった軍制改革の論議です。

大村益次郎が主張をした、廃刀令や徴兵制や兵学校の設立

 

江戸時代、軍備と言えば武士の専売特許。

廃刀令は武士の象徴ともいえる刀を取り上げることです。

 

徴兵令は軍備は武士とか農民という身分に関わりなく国民皆兵を目指すもので、

兵学校は武士を否定し、職業軍人を育成するものでした。

 

一方、神代直人たちは尊王攘夷主義者の集まり。

幕府を倒した新政府が攘夷を行う。

 

攘夷をする主役は武士。と考えていた節がありました。

 

大村益次郎の近代的な軍隊の創設を考えが、世の中に広まるにつれ、神代直人たちは大村益次郎が許せなくなっていきました。

それが暗殺に結び付いたと考えられています。

 

武士からすれば、武士の世の中が続くと思っていたのに、居場所がなくなる危機感があったのでしょうか。。。

 

大村益次郎が暗殺されたのは、大阪城内、天保山の軍事基地を検分した翌日です。

 

京都三条木屋町上ルの旅館で、静間彦太郎安達幸之助と会食していた時、長州藩の団伸二郎神代直人ら8人に襲われ、静間彦太郎安達幸之助はその場で死亡。

 

大村益次郎は、

・前額から左こめかみ。(自慢の額が。。。(^_^;))

・右ひじ。

・右ひざ関節。

に傷を負いました。

特に右ひざの傷は深かったのですが一命をとりとめました。

 

しかし傷口から菌が入り、敗血症と診断され、蘭医・ボードウィンにより、左大腿部切断手術を受けることになります。

ですが、手続きに手間取り、実際に手術を行ったのは、状態が悪化してからだそうです。

 

そして看護の甲斐むなしく、敗血症にて死去。

享年46歳。

 

この暗殺犯は長州藩の武士が行ったものですが、実は黒幕に海江田信義が関与していたのではないか。という噂が今でもあるようなのです。

 

大村益次郎が大阪で暗殺された時、海江田信義は東京にいたことがはっきりしています。

ですので直接関与していませんし、大村益次郎暗殺に関して海江田信義は処分を受けていません。

 

ではなぜ、そんな噂が今でも消えないのかというと…。

 

・海江田信義は薩摩藩で、大村益次郎は長州藩。

 藩としての対抗意識が強くあった。

・大村益次郎暗殺犯と海江田信義は親交があった。

・大村益次郎暗殺犯が処刑される時、海江田信義は妨害する動きを見せた。

 

そして噂の最大の理由は、

・海江田信義は大村益次郎に対し遺恨を抱いていた。

ということです。

 

なぜ遺恨を抱いたかというと1868年、上野戦争で薩摩の西郷隆盛と海江田信義は、幕府の彰義隊殲滅に消極的でしたが、大村益次郎は彰義隊討伐を主張。

 

論戦は大村益次郎の勝利で終わり、この時に海江田信義は大村益次郎に「君は戦を知らぬ」と侮蔑的な言葉を浴びせられたことをきっかけに、強い遺恨を持つようになったと伝えられています。

 

大村益次郎は、武士階級の出身ではなく才能を見出したのは宇和島藩で、長州藩ではありません。

 

そんな大村益次郎は武士階級に対して頓着なく、長州藩に対しても思い入れも長州藩士ほど強くなかったのかもしれません。

 

そして大村益次郎は超合理主義。

語学や数字は得意で、軍事的才能は卓越したものがありましたが、人付き合いはまるっきりダメで苦手。

 

愛想がなくて言葉が素っ気なく、それが海江田信義の逆鱗に触れたとも考えられます。

有能なのに、人付き合いは相当に苦手だったようですね。

 

大村益次郎は、努力で得た知識や経験を活かす力があったからこそ堂々と発言し、軍の指揮ができたのだと思います。

それを周りから見ると、頭が良く、発言も鋭く、面白くなかった人もいたのかもしれません。

 

それゆえ、大村益次郎の敵は少なくなかったそうです。

いくら頭が良くても人付き合いの方が、生きていく上で重要なのかもしれませんね。

 

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