大河ドラマ『西郷どん』で会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)役を柏原収史(かしわばら しゅうじ)さんが演じます。

 

幕末のイケメン会津藩主といえば

松平容保ですよねぇ〜。

 

残されている絵をみたら一目瞭然!!

現代ならジャニーズにも入れそうな顔立ち。

 

松平容保が宮中に現れたら女性がそわそわしちゃうほどだったとか。

 

松平容保は、幕末に天皇が住む京都を警備する京都守護職という重役を任され、

最後まで幕府側として德川家に忠義を貫こうとした人です。

 

孝明天皇からの信頼もあったとか。

今回は、そんな松平容保について紐解いて行こうと思います。

 

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目次

柏原収史(かしわばら しゅうじ)が松平容保(かたもり)役に!

 

 

今回『西郷どん』で松平容保役を演じるのは柏原収史さん。

なかなかのイケメン俳優さんです。

 

松平容保は、キリッとした顔立ちの美青年だったようなので、『これは合うわ〜っ。』とキャスティングに拍手を送りたいです。

とはいえ柏原収史さん。。。

 

名前を聞いてもピンと来ない方もいらっしゃるかもしれないので、さらっとご紹介したいと思います。

 

柏原収史さんは、お兄さんの柏原崇さんの「ジュノン・スーパーボーイ・コンテスト」最終オーディションを見に行っていてスカウトされて、芸能界に入ったそうです。

 

 

こちら、お兄さんの柏原崇さん ↑
さすが!!

兄弟共に美男子なので納得です。

 

映画、ドラマ、舞台でも活躍されているので、顔を見たら「あぁ〜知ってる!」ってなると思います。

NHKの朝の連続テレビ小説「あさが来た」では、大久保一蔵役でかっこよかったですよねぇ〜。

 

俳優として輝いている柏原収史さんですが、ミュージシャンでもあるんです。

で、ぽっちゃりアイドル『Pottya』をプロデュースされています。

 

Pottya』は、少しずつファン層も広がりを見せていて、女性や子どもに人気があるんですって。

 

魅力たっぷりの柏原収史さんが松平容保を魅力的に演じてくれるのではないでしょうか。

楽しみですね。

 

徳川宗家への忠誠を貫いた松平容保

 

徳川宗家への忠誠を貫いた松平容保

画像引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki

 

藩祖は徳川家康の孫、正之。

正之から数えて9代目陸奥の国、会津藩の最後の藩主となったのが、松平容保です。

 

正之は、二代将軍秀忠の庶子(正室や側室でない女性から生まれた子ども)として誕生しました。

 

養子に出されましたが能力を買われ、家光の計らいで大名となり、以後、会津に赴任してから

・善政をひく。

・会津の発展の基礎をつくる。

・家康、家光への恩に報いるべく「家訓(かきん)15カ条」を後世に遺す。

→これを藩是(はんぜ)としました。

 

そして、様々な決断をするときのよりどころとしました。

その藩是は初代藩主・保科正之が定めたもので、内容は以下です。

 

一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。

 

一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず

 

一、兄をうやまい、弟を愛すべし

 

一、婦人女子の言 一切聞くべからず

 

一、主をおもんじ、法を畏るべし

 

一、家中は風儀をはげむべし

 

一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず

 

一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず

 

一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず

 

一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。

 

一、近侍のものをして人の善悪を告げしむべからず。

 

一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし はなはだ相争うといえども我意をかいすべからず

 

一、法を犯すものは ゆるす べからず

 

一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり 歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず

 

一、若し志をうしない遊楽をこのみ馳奢をいたし土民をしてその所を失わしめばすなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし

 

右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり 寛文8年戊申4月11日


というものです。

 

この藩是は家訓となり、『大君(家康)への忠義を第一義とし、周りが何と言おうが忠義をつらぬけ!二君(迷うような時)があれば、わたしの子孫ではない!』ともまで言っています。

 

松平容保は藩是に忠実に従い京都守護職に就任以後、会津藩は新政府に対し徹底抗戦を貫いた結果、江戸城無血開城後は新政府軍の標的となります。

 

鶴ヶ島城では藩士や領民が戦禍に巻き込まれ、会津では白虎隊が、そして二本松では少年隊が憤死し、今なお悲劇とし語り継がれています。

 

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会津戦争となってしまった松平容保の運命は?!

 

会津戦争となってしまった松平容保の運命は?!

 

会津戦争は、戊辰戦争の局面の一つです。

※ 戊辰戦争は、幕末〜明治の数多くあった戦争の総称です。

 

西暦1868年の6月〜11月にかけ、主に(現在の福島県)会津地方で戦われた戦争を会津戦争と言います。

 

会津藩の処遇を巡り新政府側と会津藩、そして会津藩を支援する旧幕府軍、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟の勢力の間で行われました。

 

“ 会津戦争 ”を含む“ 東北戦争 ”を知れば、戊辰戦争はなぜ起きたのかがわかります。

少しなぞってみると。。。

 

白河藩の白河城が新政府の手に落ち(現在の福島県二本松市)戦闘でも奥羽越列藩同盟は新政府側に敗れました。

新政府軍は会津藩に侵入し若松城で戦闘開始。

 

会津藩側は城に立てこもり他藩の援軍を待ちましたが、既に新政府軍との戦闘に敗れ降伏していて、援軍が期待できず、1868年11月に会津藩側は降伏したのです。

 

降伏後、

・会津藩藩主 松平容保公は会津→江戸へ移送。

・松平容保公は謹慎を新政府側から命じられる。

・会津藩の重臣が責任を負う形で自害させられる。

・会津藩の領地は明治政府が所有する。

・会津藩の家臣は、斗南(となみ)藩という新しい藩へ移る。(現在の青森県むつ市がある地域)

 

ちなみに誤解のないよう付け加えておくと、

明治政府は

・猪苗代

・斗南の土地を用意し会津藩に選択権を与え、斗南で心機一転。新生活を送る事を決断したのは会津です。

 

明治政府が嫌がらせで移住させたわけではありません。

藩主・松平容保公は新政府側に従う姿勢を示す為、鳥羽・伏見の戦いの後、会津に戻り謹慎していたそうです。

 

奥羽越列藩同盟側から『会津藩や庄内藩の処分を穏便にしてね!と新政府側に要望するも、新政府側は拒否。

 

新政府側が寛大な対応をしなかったのは、新政府側の有力藩の長州藩が会津藩に対し恨んでいたことが理由ではないかとされています。

 

松平容保公が幕府の命令で京都守護職に就任した以降、京の治安を守るため攘夷派の勢力をそれはそれは厳しく取り締まり、長州藩の関係者が新選組など治安組織によってたくさん命を落としました。

 

会津藩は仲間の敵討ち的な意識が長州藩に対しあったのかもしれません。

新選組は京都守護職のもと活動していました。

 

1863年の「八月十八日の政変」で、長州藩勢力や長州と繋がりのある公家の人たちは京を追われ、1864年の「禁門の変」では長州藩が京を警備する会津藩や幕府側と戦い敗れ、長州藩からすると常に会津藩が対立側にいたのです。

 

会津藩は京都の治安を守る立場。

なので当然長州征討にも参加しています。

 

会津藩の松平容保公は鳥羽・伏見の戦いにも旧幕府側として参加。

このことが理由で朝廷から旧幕府の将軍、徳川慶喜公に次ぐ「朝敵」と判断されています。

 

そんなこんなで新政府内部で「会津藩に寛大な処分を!」という意見は出にくい状況。

 

旧幕府側として、新政府に抵抗してきた会津藩勢力を残すと、後で軍備を整えて反乱を起こすかも・・・?そうなったら大変!といった思いも新政府側にはあったのかもしれません。

 

新政府軍は当初弱小藩を降伏させたのち、会津藩を攻撃する予定でしたが、戦いが長引くと降雪期に入ってしまうことを恐れ、主力部隊を差し向け、会津若松城下につながる母成峠での戦いに勝ちます。

 

母成峠敗戦の報告を受けた藩主・松平容保は白虎隊を招集。(16〜17歳の少年で編成された部隊。)

松平容保自ら白虎隊を護衛にし、滝沢峠で新政府軍を迎え討とうとします。

 

が、時すでに遅し。。。

 

松平容保は実弟の松平忠敬を米沢に逃がし、籠城戦(城にこもって戦うこと)を選択しました。

松平容保に同行していた35名程の白虎隊士は戸ノ口原で敗走。

 

飯盛山に辿り着き、城下を焼く炎、たち上る煙を見て若松城は落城と思い込み、16名の隊士は集団自決を図りました。

この時、喉をついた飯沼貞吉のみ一命をとりとめています。

 

その後、飯沼貞吉は白虎隊の悲劇を語り継ぐ「語り部」として、77歳まで生きました。

 

新政府軍は若松城の外郭門を突破し、城下へなだれ込み、会津藩士は城へ急ぎ向かい、婦女子は足手まといにならぬよう自害する人も多数いました。

 

籠城してから1ヶ月、同盟関係の庄内藩も退却。

弾薬、食料も底をつきかけ、新政府軍との協議が成立。

 

そして籠城は終わりを告げます。

戊辰戦争で亡くなった会津藩士は約3000人。

 

自害した婦女子は233人にのぼり、松平容保助命の代償として、家老の萱野権兵衛が割腹させられました。

 

賊軍の汚名をきせられた松平容保ですが、その事については一切の弁明もしなかったと言われていますが、亡くなるまで肌身はなさず持っていた竹筒の中には孝明天皇からの手紙が入っていたそうです。

 

内容は、天皇が松平容保を信頼していたことがわかる内容。

賊軍ではなかったという証となる手紙。

 

当時、この手紙を公表すればまた歴史は変わっていたでしょう。

松平容保は詐欺師並みに口がうまく天皇に取り入っていたとも言われていますが、徳川家に対しての忠誠心は本物だと思いました。

 

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